藤 圭子(ふじ けいこ、1951年〈昭和26年〉7月5日 - 2013年〈平成25年〉8月22日)は、日本の演歌歌手・俳優。本名:宇多田 純子(うただ じゅんこ)[1]。旧姓:阿部(あべ)。
夫は音楽プロデューサーの宇多田照實、子はシンガーソングライターの宇多田ヒカル。
元夫は歌手の前川清。
実兄は1970年にデビューし、引退後飲食店などの経営を経て、2022年に復帰した演歌歌手の藤三郎。姪は三郎の長女で、父の活動再開と同時に歌手デビューした[2]。
1960年代末から1970年代初頭にかけ、夜の世界に生きる女の情感を描いた暗く哀切な楽曲(『怨歌[注 1]』)を、ドスの効いたハスキーボイスと凄みのある歌いまわしで歌唱し、その可憐な風貌とのギャップも相俟って一世を風靡した。
代表曲は『新宿の女』『女のブルース』『圭子の夢は夜ひらく』『京都から博多まで』など。
他の歌手のヒット曲も幅広くカバーしており、多くの曲で本家を凌駕する歌唱力と表現力を発揮したと評される。『うそ』をカバーされた中条きよしは「こんなにうまく歌われたらたまんないよ」と作曲した平尾昌晃に伝えた[4]。
来歴
浪曲師の父・松平国二郎こと阿部壮(つよし)[5]、同じく浪曲師であり曲師でもある母・阿部澄子こと竹山澄子(2010年に死去。享年80)[5]との間に3人きょうだい末子・阿部純子として父の出身地でもある岩手県一関市の県立磐井病院にて巡業中に生誕する。
一家は純子が生まれてまもなく母親の実家のある北海道名寄市へ渡道し、道内・東北を中心に祭り・炭鉱・寺の御堂・旧家大広間などを旅回りの巡業をしながら細々と生計を立てていた。仕事のないときは、長女富美恵に乳飲み子の純子を背負わせ、澄子は三味線を抱え、国二郎は長男・博(のちの歌手・藤三郎)の手を引き風呂敷包みを背負いながら一軒一軒農家を廻り営業した。純子3歳の時に姉の小学校入学から旭川市に定住。
一家の生活は赤貧洗うが如し厳しきもので、純子が幼い頃は市内の忠別橋上流の通称サムライ部落で雨風を凌いで暮らした。純子が幼い頃澄子は下駄で忠別川の氷を割って、おしめを洗っていたとの証言もある。
小学校に入った後も転校を繰り返し、純子が4年生の頃旭川市立大有小学校に転入した当時の担任は「在学証明書を一度に4~5枚も重ねて提出してきたことにまず驚かされた」と語る。旭川市旭町にあった住まいは、畳もなく、床が剥き出しで、裸電球一つぶら下がる部屋であった。両親が巡業から戻るのが遅くなり食費に困った幼い兄弟は納豆や豆腐を売り歩き日銭を稼ぐこともあったという[6]。小学校5年になり客前で初めて歌った(畠山みどり「出世街道」)ところ大反響を得、その後学校の休みの日に両親の巡業に同行(中学3年夏の岩見沢への転居まで続ける)。結果一家の収入も増え神居に家を建て5年生の夏、旭川市立神居小学校に転校。旭川市立神居中学校3年の夏まで過ごす。岩見沢の温泉施設「きらく園」で住み込みの専属の歌手として請われ両親と共に岩見沢へ転居。
1967年3月北海道の岩見沢市立栄中学校(1983年閉校)卒業[注 2]。勉強好きで成績優秀だったが、家計を支えるために、高校進学を断念[5]。1967年2月に岩見沢で行われた雪祭り歌謡大会のステージで急きょ代役として出場、北島三郎の「函館の女」を歌った。居合わせた作曲家・八洲秀章がその才能を評価し両親に上京を勧めた。
中学の卒業式の日に両親と上京。西日暮里のアパートに住み八洲秀章のレッスンを受け歌手 島純子として「ホテル層雲小唄」「島牧音頭」「島牧小唄」「火まつり音頭」などを録音し、北海道出身の八洲氏に連れられ活動した。この時期、蕎麦屋の店員や錦糸町や浅草などで母と流しをして生活した。
その後、作詞家の澤ノ井龍二(石坂まさを)と知り合う。石坂まさをは純子の歌う「星の流れに」「カスバの女」を聴きドスの効いた声と人生の哀愁をにじませた退廃的な歌い方に圧倒されスカウト。石坂まさをの自宅に住み込み弟子となりレッスンを受ける[7]。いくつかのレコード会社のオーディションを受けるが全て不合格。石坂まさをからRCAレコードの当時のディレクター榎本襄(現・音楽プロデューサー)を紹介。純子の歌う「星の流れに」「カスバの女」を聴いた榎本襄も同じく圧倒され他社からデビューが決まっていたところを断り自社からのデビューを強く勧めた。石坂まさをは東芝専属作詞家を辞し「藤プロ」という個人事務所としてスタート[8]。三人でデビュー曲を練り、1969年9月25日、RCAレコードより「新宿の女」でデビュー。
以後、石坂まさをと組んでヒット曲を連発。オリコンチャートで、ファーストアルバム「新宿の女」は20週連続1位、間を置かずリリースされたセカンドアルバム「女のブルース」は17週連続1位を記録。計37週連続1位という空前絶後の記録を残す。なお、内山田洋とクール・ファイブとの共作「演歌の競演 清と圭子」も含めると計42週連続1位となる。シングルにおいても「女のブルース」は8週連続1位、続く「圭子の夢は夜ひらく」も10週連続1位を記録し、18週連続1位という同一歌手での連続記録を残す。
演歌を歌いながらもアイドル歌手としての人気も集め、青少年に大きな影響力を持っていた少年マガジンなど多数の雑誌の表紙を飾った。またその人気からテレビアニメ『さすらいの太陽』のヒロインのモデルにもなった。
1971年、当時ともに絶頂期であった内山田洋とクール・ファイブのボーカル前川清と結婚するが、大スター同士の結婚生活はすれ違いが重なり、翌1972年に離婚。
1974年、喉のポリープの手術を受けたことで、自身が強みと考えていた声の特徴が失われたと悩むようになり、引退を考え始める。
1975年2月、石坂まさをの澤ノ井音楽事務所[注 3]から新栄プロダクションに移籍。
1979年10月17日、RCAレコード本社に於いて引退の記者会見を開き、1979年12月26日新宿コマ劇場で引退公演を行った、その後渡米する。
1981年7月29日に帰国。同年8月1日より「藤 圭似子」の芸名でニュージャパンプロダクションに所属し[10][11]、RCAレコードからCBSソニーに移籍し、第一弾となるシングル「螢火」を発表した。
1982年に、宇多田照實と再婚。以降、照實との間で7回の離婚・再婚を繰り返す。
1983年1月19日、ニューヨークにて、長女・光を出産。網膜色素変性症を発症し視力が徐々に低下していた頃の出来事だったことから、「我が子から光が失われないように」という願いを込め「光」(ひかる)と命名した[12]。その後、光を世界で通用する歌手に育てるため、1990年から照實とともに光を連れて初めて渡米、お金が足りなくなると日本に戻って歌い、お金が貯まるとまた渡米することを繰り返した。その際にはいくつかのテレビ番組にも顔を出しており、複数回出演した『THE夜もヒッパレ』(日本テレビ)では光とのエピソードを交えつつ、当時のヒット曲を歌唱している[13]。更に1996年11月26日に出演した『徹子の部屋』(テレビ朝日)では当時13歳だったデビュー前の光の歌声を紹介した。光デビュー直前の1997年まではテレビ番組出演を続けており、1月27日放送の『ふたりのビッグショー』(NHK総合)では八代亜紀と共演、往年のヒット曲「女のブルース」など多数の曲を歌唱、八代と昔の思い出を語りあうなど健在ぶりを見せていた。
光が15歳となった1998年に宇多田ヒカルの名で歌手デビューし、これを機に藤も再び注目を浴びた。しかし、光のデビューと入れ替わるように自身は歌手活動を封印、以降ほとんどステージで歌うことはなくなった。
2013年8月22日午前7時頃、都内で倒れているのが発見され、搬送先の病院で死亡が確認された。衣服の乱れや争ったような跡がないことなどから、新宿警察署は自死と断定[14]。享年63(62歳没)。照實と光はそれぞれコメントを発表し、藤が1988年頃から精神疾患を患っていたことを公表した[1]。
葬儀は遺言書に従って執り行わず家族のみの直葬とし[15]、遺灰は海に散骨された[16]。その後、藤の実家の阿部家側によって、ファン有志とともに「しのぶ会」が行われた。
年譜
- 1951年7月5日 - 岩手県一関市に生まれる。生まれてすぐに北海道名寄市に移る。3歳の頃、旭川市に引っ越して15歳初めまで生活する[17]。
- 1966年 - 中学3年生の夏、父母とともに旭川を離れ、北海道岩見沢市の温泉保養センター「きらく園」にて三条純子の芸名で専属歌手となる。
- 1967年 - 2月、岩見沢雪まつりのステージにて代役歌手として出場、八洲秀章にその才能を見出される。純子の中学卒業と同時に両親と上京。八洲指導によるレッスンの傍ら、16歳から母親と錦糸町、浅草周辺で流しをするなどして両親の生活を支える。島純子名義で本人作詞による「男の仁義」をソノシート制作。
- 1968年 - 発声のレッスンを受けていた作曲家・上条たけしのところで東芝音楽工業専属作詞家の澤ノ井龍二(のちの石坂まさを)と出会うも、東芝でのデビューは困難を極めた。純子の才能に賭けた石坂は東芝を退職し、純子は新宿区東大久保の石坂の家に住み込み特訓。日本音楽放送の工藤宏と縁が出来たことから工藤を社長に据え、藤プロダクションを設立。工藤の藤、工藤の妹の名である桂子から純子の芸名は藤圭子と改められる。
- 1969年9月25日 -RCAビクターよりファーストEP「新宿の女」で歌手デビュー。
- 1970年
- 1971年 - 前川清と結婚。 前川の地元である長崎県佐世保市俵町教会で挙式。第8回ゴールデン・アロー賞大賞を演歌歌手としては初めて受賞。
- 1972年 - 8月、前川と離婚。離婚会見は12日に赤坂プリンスホテルで行われた。
- 1974年 - 5月、喉のポリープ手術。
- 1979年 - 5月、日本劇場にて「10周年記念リサイタル~圭子のすべて!」を開催。ステージにて前向きな意欲を語ったものの、10月突如「普通の女になりたい」と引退を表明し、アメリカ合衆国に渡る。
- 1980年 - アメリカ・ニューヨークに滞在。ライターの田家正子と3ヶ月共同生活を営む。またこの時、米国でコーディネーターをしていたミュージシャンの宇多田照實と出会う[19]。当時「コロンビア大学のジャーナリズム科に通う予定だった」と圭子は田家に話していた[20]。
- 1981年 - 7月帰国。藤圭似子の名で芸能界に復帰。10月、ドラマ「新海峡物語」で主演を務める。同時にシングル「螢火」をリリース。
- 1982年 - 照實と結婚(再婚)。
- 1983年 - 長子・光(後の宇多田ヒカル)を出産。
- 1984年 - 芸名を藤圭子に戻す。
- 1988年 - この頃から照實・光・澄子へ攻撃的な言動が見られるようになる。現実と妄想の区別が曖昧となり、自身の感情や行動のコントロールを失うことも見られるなど精神状態が悪化したと思われる[21]。照實が通院を薦めるも拒絶。母澄子とも被害妄想による金銭トラブルになるなど家族関係も悪化したとみられる[22]。
- 1993年
- 照實とともに有限会社ユースリー・ミュージックを資本金300万円で東京都杉並区に設立し、自らも取締役になる。
- 照實と光の3人で音楽ユニット「U3」を結成してセンチュリーレコードと契約し、アルバム「STAR」を発表。
- 2002年 - 照實・光と別居。ニューヨークを拠点に、気まぐれに世界中を旅する生活を最期まで営む。家族には時々電話をかけていた。
- 2006年 - ニューヨークのケネディ国際空港にて約42万ドル(当時のレートで約4900万円)に上る多額の現金を没収される騒動を起こし、世界各国のカジノなどで5年の間に5億は使ったと述べている[23]。
- 2007年 - 照實と最後の離婚[24]。以降、二度と再婚することはなかったが、照實と絶交することはなく、姓は宇多田のまま、本名は宇多田純子であった。
- 2009年 - 2006年の米空港での42万ドル没収事件について、事件性がないとして全額返還された[25]。
- 2010年 - 11月、母・澄子が肝癌にて80歳で逝去。
- 2013年8月22日 - 逝去。享年62歳。遺言書はこの年のはじめにしたためられていた。また8月14日には、圭子から照實に電話をかけていた。照實は「この時は珍しく明るい口調で、元気そうな純子の声でした。約8分間、世間話を含め、お願いごとを何件か受け、了承し電話を切りました。」と語った。本人の強い遺志にて通夜・葬儀はなく、火葬のみ執り行った[26]。
エピソード
- 圭子の人物像について、公式サイトにて光は「とても怖がりのくせに鼻っ柱が強く、正義感にあふれ、笑うことが大好きで、頭の回転が早くて、子供のように衝動的で危うく、おっちょこちょいで放っておけない、誰よりもかわいらしい人でした。悲しい記憶が多いのに、母を思う時心に浮かぶのは、笑っている彼女です。」照實は「出会った頃から彼女には感情の不安定さが見受けられましたが、心を病んでいるというよりも、類い稀な『気まぐれ』な人としか受け止めていませんでした。僕にとっては十分に対応出来る範囲と捉えていました。」と評している。
- マスコミが『一卵性母娘』と名付けるほどとても母思いで仲がよかった。レコード歌手になろうとしたのも、母をもっと楽にさせてあげて、不自由な目を治してあげられるかもしれないからだったという[27]。しかし、1990年頃に精神状態悪化からの金銭トラブルになり母とは絶縁状態となった[28]。
- 五木寛之は「1970年のデビューアルバムを聞いたときの衝撃は忘れがたい。これは『演歌』でも、『艶歌』でもなく、まちがいなく『怨歌』だと感じた。」と評している[29]。
- 村上春樹は著書「村上朝日堂」の中で、学生時代にアルバイトしていた新宿のレコード店に藤圭子が訪れ、すまなそうなかんじで「あの、売れてます?」とニコッと笑って僕にたずねた。「あ、調子いいですよお」と店長が言うと、彼女はまたニコッと笑って「よろしくお願いしますね」と言った。その後、今に至るまで藤圭子という人のことをとても感じの良い人だと思っている。ただ、この人は自分が有名人であることに一生なじむことができないんじゃないかなという印象を、その時僕は持った。と語っている。
- 育ての親である作詞家:石坂まさをに ”アメリカ人になりたい” と話しており、デビューしてから間もなく、熱心なファンのハーフの少女と友だちになり英語の勉強を始める[28]。デビュー当時、マネージャーだった成田忠幸は、藤から「いつか、アメリカに行きたい」と聞かされており、藤はアメリカに住んで、そこで、ロックを歌いたいのだろうなと感じたという[28]。1979年に引退する前、八代亜紀は藤から「アメリカに行って、ロックを歌うんだ」と聞かされている[30]。
- 紅白出場に強い執着があり、1974年の紅白では力を入れていた新曲『命火』もヒットし、事前にほとんどのメディアが当選確実と報じていたにもかかわらず、落選したことで大きなショックを受けてダウンし、その様子を心配した母親が医師に往診を頼んだほどだった。結局それ以降1週間に渡って仕事をキャンセルしている[31]。
- 娘の光を天才と信じ、知り合いの音楽関係者にことあるごとに光を売り込んでいた。その売り込みは光が9歳のとき、藤圭子育ての親である石坂まさをにも行われ、光がいかに天才歌手であるかを力説していたほどだった[28]。同じ頃、藤がデビュー前に世話になった初代林家三平の妻である海老名香葉子のもとにも訪れ、光の歌を吹き込んだデモテープを聴かせている[28]。
- 大の虫嫌いで虫全部が嫌いだと述べている[32]。光が子供の頃、いたずらで体中にセミの抜け殻をまとって帰宅したところ、それを見た藤が卒倒してしまい、おおごとになったという[33]。
- ビートルズ、Tレックス、シャーデーのファン。また、圭子は時代を先取りする嗜好があり、1993年頃にはヒップホップに熱中した。ドクター・ドレーの「The Chronicle」とスヌープ・ドッグの「DOGGY STYLE」を光と愛聴し、ヒップホップのダンス教室で真剣にレッスンを受け、「この曲のキックドラムが凄い」「ノリが、グルーヴがどうだ」など語っていたという[34]。
- 沢木耕太郎 が1979年の引退を前に藤圭子にインタビューした著書「流星ひとつ」(2013年)のあとがきで、水晶のように硬質で透明な精神。美しかったのは「容姿」だけではなかった。「心」のこのようにまっすぐな人を私は知らない。まさに火の酒のように、透明な烈しさが清潔に匂っていた。と語った。また著書「深夜特急」の元になった1974年春から1975年冬までのアジアからヨーロッパへ至るひとり旅の最後にパリ・オルリー空港において藤圭子と奇跡的に遭遇していたことが著書「旅する力──深夜特急ノート」新潮社(2008年)にも記されている。
音楽
シングル
# |
発売日 |
A/B面 |
タイトル |
作詞 |
作曲 |
編曲 |
オリコン 最高順位 |
規格品番
|
RCA/日本ビクター→ビクター音楽産業→RVC
|
1
|
1969年 9月25日 |
A面 |
新宿の女 |
石坂まさを みずの稔 |
石坂まさを |
小谷充
|
9位
|
JRT-1037
|
B面 |
生命ぎりぎり
|
石坂まさを |
池田孝
|
2
|
1970年 2月5日 |
A面 |
女のブルース
|
石坂まさを |
猪俣公章 |
成田征英
|
1位
|
JRT-1057
|
B面 |
あなた任せのブルース |
森川登 |
池田孝
|
3
|
1970年 4月25日 |
A面 |
圭子の夢は夜ひらく |
曽根幸明
|
原田良一
|
1位
|
JRT-1077
|
B面 |
東京流れもの |
不詳
|
4
|
1970年 7月25日 |
A面 |
命預けます
|
石坂まさを |
曽根幸明
|
3位
|
JRT-1097
|
B面 |
ネオン街の女 |
池田孝
|
5
|
1970年 10月25日 |
A面 |
女は恋に生きてゆく
|
7位
|
JRT-1117
|
B面 |
盛り場数え唄 |
石坂まさを |
中村泰士 |
原田良一
|
6
|
1971年 2月5日 |
A面 |
さいはての女 |
彩木雅夫
|
池田孝
|
8位
|
JRT-1137
|
B面 |
東京花ものがたり
|
石坂まさを
|
7
|
1971年 5月5日 |
A面 |
恋仁義
|
石坂まさを
|
曽根幸明
|
21位
|
JRT-1167
|
B面 |
涙ひとしずく |
野々卓也 |
池田孝
|
8
|
1971年 6月5日 |
A面 |
みちのく小唄
|
23位
|
JRT-5
|
B面 |
会津磐梯山
|
不詳
|
9
|
1971年 7月5日 |
A面 |
愛の巡礼 |
浅木しゅん |
石坂まさを |
高田弘
|
44位
|
JRT-1177
|
B面 |
圭子の三度笠
|
石坂まさを |
池田孝
|
10
|
1971年 10月25日 |
A面 |
知らない町で
|
石坂まさを
|
曽根幸明
|
46位
|
JRT-1197
|
B面 |
圭子の網走番外地 |
不詳 |
池田孝
|
11
|
1972年 1月25日 |
A面 |
京都から博多まで
|
阿久悠
|
猪俣公章
|
20位
|
JRT-1207
|
B面 |
街の子 |
竹村次郎
|
12
|
1972年 5月25日 |
A面 |
別れの旅 |
池田孝
|
14位
|
JRT-1237
|
B面 |
哀別 |
石坂まさを |
中村泰士 |
馬飼野俊一
|
13
|
1972年 9月25日 |
A面 |
花は流れて
|
鈴木邦彦
|
池田孝
|
19位
|
JRT-1257
|
B面 |
遊侠の人
|
14
|
1972年 12月5日 |
A面 |
悲しみの町 |
浜圭介
|
竜崎孝路
|
|
JRT-1267
|
B面 |
白い坂道が見える窓 |
野々卓也
|
15
|
1973年 3月25日 |
A面 |
明日から私は |
山上路夫
|
鈴木邦彦
|
21位
|
JRT-1277
|
B面 |
別れ道 |
石坂まさを
|
16
|
1973年 7月25日 |
A面 |
花小唄
|
野々卓也
|
池多孝春
|
|
JRT-18
|
B面 |
新東京小唄 |
神坂薫
|
17
|
1973年 8月25日 |
A面 |
遍歴
|
石坂まさを |
曽根幸明
|
50位
|
JRT-1297
|
B面 |
愛の孤独 |
たつみりょう |
馬飼野俊一
|
18
|
1973年 11月5日 |
A面 |
恋の雪割草 |
山口洋子 |
猪俣公章 |
竹村次郎
|
41位
|
JRT-1327
|
B面 |
御用牙 |
石坂まさを
|
曽根幸明
|
19
|
1974年 4月5日 |
A面 |
京都ブルース
|
なかにし礼
|
馬飼野康二
|
|
JRT-1337
|
B面 |
女の人生
|
20
|
1974年 6月5日 |
A面 |
火の国小唄 |
石坂まさを |
野々卓也 |
池多孝春
|
JRT-21
|
B面 |
萩の女 |
はぞのなな |
森山慎也 |
竜崎孝路
|
21
|
1974年 7月5日 |
A面 |
私は京都へ帰ります |
山口洋子 |
猪俣公章 |
池多孝春
|
JRT-1357
|
B面 |
雨の仙台 |
石坂まさを |
たつみりょう |
馬飼野俊一
|
22
|
1974年 9月5日 |
A面 |
命火
|
石坂まさを |
小杉仁三
|
34位
|
JRT-1377
|
B面 |
夜のブルース |
原田良一
|
23
|
1975年 1月25日 |
A面 |
あなたの噂 |
山口洋子 |
猪俣公章 |
竹村次郎
|
|
JRT-1397
|
B面 |
銀座のお恵ちゃん |
石坂まさを |
三条ひろし |
長作幸男
|
24
|
1975年 4月25日 |
A面 |
生きてるだけの女 |
浜岡幸 |
賀川幸生 |
小山恭弘
|
JRT-1417
|
B面 |
さすらい花 |
石坂まさを |
岡千秋 |
小谷充
|
25
|
1975年 9月25日 |
A面 |
さすらい |
よしかわかおり
|
遠藤実
|
斉藤恒夫
|
JRT-1447
|
B面 |
風子二十四不幸せ |
島田幸一
|
26
|
1975年 11月5日 |
A面 |
はしご酒 |
はぞのなな |
赤坂通 |
小山恭弘
|
43位
|
JRT-1457
|
B面 |
裏町流し唄 |
石坂まさを |
岡千秋 |
佐藤まさと
|
27
|
1976年 4月25日 |
A面 |
女だから
|
小谷夏
|
中村泰士
|
馬飼野俊一
|
|
RVS-1007
|
B面 |
あなたはもう他人
|
28
|
1976年 8月25日 |
A面 |
聞いて下さい私の人生
|
六本木哲 |
池多孝春
|
RVS-1027
|
B面 |
薄化粧 |
石坂まさを |
若林いさむ |
竜崎孝路
|
29
|
1977年 2月5日 |
A面 |
哀愁酒場
|
平尾昌晃
|
竜崎孝路
|
RVS-1047
|
B面 |
あなたへの未練 |
山田孝雄
|
30
|
1977年 6月25日 |
A面 |
貴方ひとすじ
|
石坂まさを |
若林いさむ
|
池多孝春
|
RVS-1077
|
B面 |
新宿エレジー |
上條たけし
|
31
|
1977年 11月5日 |
A面 |
面影平野
|
阿木燿子
|
宇崎竜童
|
馬飼野俊一
|
RVS-1107
|
B面 |
圭子のドンデン節
|
32
|
1978年 5月 |
A面 |
銀座流れ唄
|
大村雅朗
|
RVS-1127
|
B面 |
猫と女
|
33
|
1978年 10月 |
A面 |
酔い酔い酒場
|
小山恭弘
|
RVS-1148
|
B面 |
女文字
|
34
|
1979年 3月 |
A面 |
北の港町
|
遠藤実 |
斉藤恒夫
|
RVS-1167
|
B面 |
わくらばの宿 |
一条貴之 |
岡千秋 |
池多孝春
|
35
|
1979年 9月21日 |
A面 |
可愛い女
|
中山大三郎
|
船村徹
|
栗田俊夫
|
RVS-1197
|
B面 |
赤ちょうちんブルース
|
CBS・ソニー
|
36
|
1981年 10月1日 |
A面 |
螢火[注 4] |
阿木燿子 |
三島大輔
|
若草恵
|
|
07SH-1057
|
B面 |
恋狂い |
一文字まこと |
森川範一
|
ロリーポップ
|
37
|
1984年 7月 |
A面 |
あいつが悪い[注 5] |
伊藤アキラ
|
浜圭介
|
桜庭伸幸
|
|
a-15267
|
B面 |
(カラオケ) |
-
|
リバスター
|
38
|
1984年 10月 |
A面 |
蝶よ花よと |
鳥井実 |
西谷翔 |
池多孝春
|
|
7RC-0037
|
B面 |
酒の駅 |
荒川利夫 |
立木達也 |
南郷達也
|
ポリドール
|
39
|
1986年 6月25日 |
A面 |
東京迷路[注 6] |
浅木しゅん
|
杉本真人
|
松井忠重
|
|
7DX-1436
|
B面 |
(カラオケ) |
-
|
40
|
1987年 2月25日 |
A面 |
新宿挽歌 |
なかにし礼 |
船村徹 |
丸山雅仁
|
7DX-1471
|
B面 |
北国流れ旅 |
八坂こうじ |
武田芳美 |
斉藤恒夫
|
41
|
1988年 3月25日 |
A面 |
旅路
|
星野哲郎
|
北原じゅん
|
馬場良
|
7DX-1547
|
B面 |
群馬慕色
|
42
|
1989年 2月25日 |
A面 |
新地の雨[注 7] |
桂三枝
|
美波有
|
桜庭伸幸
|
7DX-1591 (EP) H10P-40012 (CD)
|
B面 |
浪花の女 |
藤田まさたか
|
センチュリーレコード
|
43
|
1994年 4月21日 |
01 |
酒に酔うほど |
Ra U[注 8] |
Ra U Sking U
|
平岩嘉信
|
|
CEDC-10390
|
02 |
婚約解消
|
Ra U
|
日本クラウン
|
44
|
1996年 8月21日 |
01 |
天国
|
荒木とよひさ
|
三木たかし
|
若草恵
|
|
CRDN-341
|
02 |
献身
|
45
|
1996年 9月25日 |
01 |
冷たい月[注 9]
|
Ra U & Sking U
|
宮川彬良
|
CRDN-347
|
02 |
ゴールデン・エラ[注 10]
|
46
|
1996年 10月23日 |
01 |
千年のかがり火
|
曲保
|
曽根幸明
|
CRDN-2011
|
02 |
MY FRIENDS
|
47
|
1997年 10月22日 |
01 |
男と女
|
Ra U
|
Ra U Sking U
|
Como-Lee
|
CRDN-511
|
02 |
抱いて…
|
スバック
|
48
|
2014年 2月13日 |
01 |
母子舟[注 11]
|
石坂まさを
|
平尾昌晃
|
竜崎孝路
|
|
SVCA-241
|
02 |
恋して母は
|
アルバム
オリジナル・アルバム
発売日
|
規格
|
規格品番
|
アルバム
|
RCA
|
1970年3月5日
|
LP
|
JRS-7067
|
新宿の女/“演歌の星”藤圭子のすべて
|
1970年7月5日
|
LP
|
JRS-7087
|
女のブルース
|
1971年3月5日
|
LP
|
JRS-7117
|
さいはての女
|
1971年7月5日
|
LP
|
JRS-7137
|
圭子の人生劇場
|
1971年12月25日
|
LP
|
JRS-7174
|
圭子のわらべ唄
|
LP
|
JRS-7177
|
知らない町で
|
1972年6月25日
|
LP
|
JRS-7194
|
別れの旅
|
1972年12月5日
|
LP
|
JRS-7221
|
遠くへ行きたい/「演歌の旅」
|
1973年2月25日
|
LP
|
JRS-7237
|
悲しみの町
|
1973年6月
|
LP
|
JRS-7251
|
演歌の旅 緋牡丹博徒
|
1973年9月
|
LP
|
JRS-7277
|
遍歴/明日から私は
|
1974年2月
|
LP
|
JRX-14
|
女のブルース/藤圭子ブルースを唄う
|
1974年4月
|
LP
|
JRS-7303
|
京都ブルース
|
1974年7月
|
LP
|
JRS-7321
|
夜とあなたが
|
1974年9月
|
LP
|
JRS-7327
|
圭子のにっぽんひとりあるき
|
1974年10月
|
LP
|
JRX-16
|
藤圭子演歌の世界
|
LP
|
JRS-7328
|
命火
|
1975年3月
|
LP
|
JRS-7347
|
あなたの噂
|
1975年6月
|
LP
|
JRS-7356
|
生きてるだけの女
|
1976年6月
|
LP
|
RVH-7017
|
女だから
|
1976年12月
|
LP
|
RVL-7081
|
南国土佐を後にして
|
LP
|
RVL-7082
|
明治一代女
|
LP
|
R4J-7037
|
緋牡丹博徒
|
LP
|
RVL-7084
|
霧の摩周湖
|
LP
|
RVL-7085
|
女の意地
|
LP
|
RVL-7086
|
黒い花びら
|
1977年4月
|
LP
|
RVL-7020
|
哀愁酒場
|
1977年7月
|
LP
|
RVL-7024
|
貴方ひとすじ
|
1977年12月5日
|
LP
|
RVL-7041
|
面影平野
|
CBS・ソニー
|
1981年11月
|
LP
|
28AH-1374
|
螢火-右・左-
|
リバスターレコード
|
1984年11月
|
LP
|
28RL-0012
|
蝶よ花よと
|
ライブ・アルバム
発売日
|
規格
|
規格品番
|
アルバム
|
RCA
|
1970年12月5日
|
LP
|
JRS-9039/40
|
歌いつがれて25年 藤圭子演歌を歌う
※ 1970年10月23日 渋谷公会堂ライブ
※ オリコン2位獲得
|
1971年10月5日
|
LP
|
JRS-7157
|
藤圭子リサイタル
※ 1971年7月5日 サンケイホール ライブ
|
|
LP
|
JRD-3014
|
圭子の網走番外地/藤圭子のミニ・リサイタル
|
1972年5月25日
|
LP
|
R4J-7010
|
藤圭子オン・ステージ
※ 1970年発売の渋谷公会堂ライブの一部を4チャンネルステレオ化
|
1976年11月5日
|
LP
|
RVL-2001/2
|
聞いて下さい私の人生/デビュー七周年記念 藤圭子リサイタル
※ 1976年9月24日 新宿コマ劇場ライブ
|
1978年5月
|
LP
|
RVL-7045
|
ビッグ・ショー演歌・浪曲・おんなの涙
※ 1978年2月26日『NHKビック・ショー』ライブ
|
1980年2月21日
|
LP
|
RVL-2079
|
さよなら藤圭子
※ 1979年12月26日 新宿コマ劇場 さよなら公演ライブ
|
ベスト・アルバム
発売日
|
レーベル
|
規格
|
規格品番
|
アルバム
|
1973年
|
RCA
|
LP
|
JRX-10
|
オリジナル・ゴールデン・ヒット曲集
|
|
RCA
|
LP
|
RHL-3007
|
ベスト28
|
1974年
|
RCA
|
LP
|
JRX-32
|
ゴールデン・ヒット・デラックス
|
1976年
|
RCA
|
LP
|
RVL-7055
|
藤圭子≪第1集≫
|
1976年
|
RCA
|
LP
|
RVL-10002
|
ゴールデン・ヒット・デラックス16
|
1976年
|
RCA
|
LP
|
RVL-10029
|
スター・ベスト・ヒット・エッセンス
|
1977年
|
RCA
|
LP
|
RVL-2019/20
|
藤圭子スペシャル
|
|
RCA
|
LP
|
JRS-9095/6
|
豪華版 藤圭子 第1集
|
|
RCA
|
LP
|
JRS-9237/8
|
藤圭子大全集 ダブル・デラックス
|
|
RCA
|
LP
|
JRX-8021/2
|
ビッグヒット20
|
1978年
|
RCA
|
LP
|
RVL-10026
|
マイ・セレクション 藤圭子※ 藤が自ら選曲したベストアルバム。
|
1980年
|
RCA
|
LP
|
RHL-3007
|
スーパー・ツイン藤圭子
|
1999年5月21日
|
BMG JAPAN
|
CD
|
BVCK-37032
|
圭子の夢は夜ひらく 藤圭子 HIT COLLECTION
|
CD
|
BVCK-37033
|
藤圭子 POPS COLLECTION
|
1999年10月21日
|
CD
|
BVCK-37046
|
藤圭子 伝説の名曲
|
2005年10月26日
|
Sony Music Direct
|
CD
|
BVCK-38110
|
GOLDEN☆BEST 藤圭子
|
2005年12月11日
|
エー・アール・シー
|
CD
|
ASB-1027
|
スーパーベスト
|
2010年12月8日
|
GT music
|
CD
|
MHCL-1825
|
GOLDEN☆BEST 藤圭子 ヒット&カバーコレクション 艶歌と縁歌
|
2012年9月1日
|
CSレコード
|
CD
|
DQCL-2101
|
藤圭子 ベスト・ヒット
|
CSレコード
|
CD
|
DQCL-6001
|
藤圭子 スーパー・ヒット
|
2012年11月1日
|
CSレコード
|
CD
|
DQCL-2112
|
藤圭子 ベスト・ヒット 昭和歌謡を歌う
|
CSレコード
|
CD
|
DQCL-6012
|
藤圭子 スーパー・ヒット 昭和歌謡を歌う
|
2013年9月30日
|
|
CD
|
NCCR-130930
|
宇多田純子さん安らかに
|
企画アルバム
発売日
|
レーベル
|
規格
|
規格品番
|
アルバム
|
1970年12月
|
RCA
|
LP
|
JRS-7100
|
演歌の競演 清と圭子
※ 前川清と藤圭子の代表曲を片面ずつ収録したアルバム。
|
1978年12月20日
|
RCA
|
LP
|
RVL-7207
|
歌謡劇場
- 第一幕:「歌謡浪曲」
- 第二幕:NHK-FM「歌謡ドラマ/圭子の夢は夜ひらく」
で構成されたアルバム。
|
1979年5月
|
RCA
|
LP
|
RVL-7220
|
10周年記念 涙唱!藤圭子 船村徹・遠藤実作品集
|
1973年12月5日
|
RCA
|
LP
|
JRS-9221/8
|
演歌全集8枚組
- 『故郷/艶姿』
- 『任侠/港灯』
- 『憂愁/恋心』
- 『巷歌/出発』
と分冊でも発売
|
1993年9月17日
|
センチュリー
|
CD
|
CECC-10307
|
STAR
※ 「U3」(RA U(藤圭子)、SKING U(宇多田照實)、H。IKASO U(宇多田ヒカル)らが1990年に家族3人で結成した音楽ユニット)で発表したアルバム。
|
2000年12月20日
|
BMG JAPAN
|
CD
|
BVCK-37085
|
聞いて下さい私の人生〜藤圭子コレクション(通販限定・6枚組CD-BOX)
- 『シングル・コレクション1』
- 『シングル・コレクション2』
- 『ブルース』
- 『怨歌・任侠・さすらい』
- 『昭和の名曲』
- 『リサイタル』
合計101曲収録。
|
2005年9月21日
|
BMG JAPAN
|
CD
|
|
藤圭子 コンプリート・シングル・コレクション 〜15年の輝石〜(通販限定・6枚組CD-BOX)
- 『シングル・コレクション1969~1971』
- 『〃1971~1973』
- 『〃1974~1976』
- 『〃1976~1984』
- 『任侠・股旅&80'S歌謡』
- 『大正~昭和名曲集』
- RCA時代のシングル盤A面B面全曲他 合計109曲収録。
|
2010年11月1日
|
CSレコード
|
CD
|
DYCL-1695
|
藤圭子 艶・怨・演歌(通販限定・5枚組CD-BOX)
- 『オリジナルを歌う』
- 『男の情を歌う』
- 『女心を歌う』
- 『人生・昭和を歌う』
- 『ふるさと・叙情を歌う』
の五つのテーマで構成されている。
自身のヒット曲22曲に加え、男性歌手の曲や抒情歌などカバー曲を86曲、合計108曲収録。
|
2016年10月19日
|
Sony Music
|
CD
|
|
藤圭子劇場(通販限定・6枚組CD-BOX)
- 『歌いつがれて25年 藤圭子演歌を歌う』
- 『藤圭子リサイタル』
- 『聞いて下さい私の人生』
- 『さよなら藤圭子-1』
- 『さよなら藤圭子-2』(同タイトルLPのリマスタリング)
- 『ディレクターズ・セレクション』(榎本襄選曲によるスタジオ録音8曲)
合計110曲を収録。
付録の小冊子には、デビューから引退までの10年間担当だった元RCAディレクター榎本襄のインタビューも掲載。
|
2016年11月15日
|
CSレコード
|
CD
|
DYCL-3291
|
CMソング
NHK紅白歌合戦出場歴
(注意点)
- 対戦相手の歌手名の( )内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある( )はトリ等を務めた回数を表す。
- 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。
- 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。
主な出演作
映画
舞台
テレビ番組
ほか多数
書籍
タイトル
|
著者
|
出版年月
|
出版社
|
備考
|
演歌の星 藤圭子物語 |
藤圭子 |
1971年7月10日 |
ルック社 |
絶版
|
宇多田ヒカル 母娘物語 |
石坂まさを |
1999年11月1日 |
ゴマブックス |
絶版
|
きずな 藤圭子と私 |
石坂まさを |
2013年10月10日 |
文藝春秋 |
1999年刊行『きずな』の再発売 現在は電子版が入手可能
|
流星ひとつ |
沢木耕太郎 |
2013年10月11日 |
新潮社 |
|
藤圭子 追悼 夜ひらく夢の終わりに |
編集:阿部晴政 |
2013年10月29日 |
河出書房新社 |
KAWADE夢ムック 文藝別冊 総特集 藤圭子
|
悲しき歌姫 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾 |
大下英治 |
2013年11月1日 |
イースト・プレス |
|
怨歌の誕生 |
五木寛之 |
2013年12月12日 |
双葉社 |
表題作は1970年6月7日付毎日新聞日曜版エッセイ
『艶歌と援歌と怨歌』に加筆[注 14]。現在は電子版が入手可能
|
漫画
脚注
注釈
- ^ 五木寛之による表現[3]。
- ^ 3年生半ばまで 旭川市立神居中学校に在校。
- ^ 藤をプロモートするため立上げた「藤プロダクション」が前身、その後石坂が引継いだ(石坂の本名が澤ノ井)藤移籍後事務所を閉じた[9]。
- ^ 藤圭似子名義。
- ^ 圭子名義。
- ^ ホース音楽出版から発売された自主制作盤も存在する(規格品番:a-18222)。
- ^ 桂三枝とのデュエット。
- ^ 藤のペンネーム。
- ^ 藤圭子 with cubic U名義(宇多田ヒカルとのデュエット)。
- ^ 1999年5月5日に、本楽曲とそのカラオケ版の2曲を収録したシングルCDが発売された(規格品番:CRDP-214)。
- ^ 1984年頃に録音された未発表曲2曲を収録したシングルCD[35]。
- ^ 灘五郷(西宮)震災後酒造部門廃業。
- ^ 当時の夫であった内山田洋とクール・ファイブメインボーカル前川清が急病でダウンしたため。内山田洋とクール・ファイブの出番自体はフォーリーブスに振り替えられたが、『港の別れ唄』は藤がメインボーカルを担当し残りのメンバーがバックコーラスを務める形で歌われた。
- ^ 初出:オール讀物(文藝春秋)1970年10月、1971年『 四月の海賊たち』で単行本化。
出典
関連項目
外部リンク
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宇多田ヒカルの作品 - 宇多田ヒカルの受賞とノミネートの一覧 |
シングル |
|
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日本語 |
CD |
1990年代 |
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2000年代 |
2000年 | |
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2001年 | |
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2002年 | |
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2003年 | |
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2004年 | |
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2005年 | |
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2006年 | |
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2007年 | |
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2008年 | |
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2010年代 |
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配信 |
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先行配信 |
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英語 |
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その他 | |
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アルバム |
日本語 | |
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EP | |
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英語 | |
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シングル・コレクション | |
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ベスト | |
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非公認ベスト | |
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トリビュート | |
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参加作品 | |
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映像作品 |
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関連項目 | |
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