西川きよし
西川 きよし(にしかわ きよし、1946年〈昭和21年〉7月2日 - )は、日本の漫才師、お笑いタレント、司会者、政治家。元参議院議員(3期)、文化功労者。高知県高知市朝倉生まれ、大阪市港区住吉区育ち。血液型O型。吉本興業所属。本名は西川 潔(読み同じ)[2]。5人姉弟の次男(姉3人、兄1人)。妻はタレントの西川ヘレン、長男は俳優の西川忠志、次男は元俳優の西川弘志、長女はタレントの西川かの子。 人物高知市立朝倉小学校から大阪市立市岡小学校を経て大阪市立三稜中学校卒業(14期生)。姉は六代桂文枝と同級生だった。 きよしと同じく高知県で生まれ、大阪府で育った横山やすしと漫才コンビを結成し、国民的人気を博した。漫才コンビ「やすしきよし」(略称・やすきよ)は漫才ブームの火付け役になり、日本武道館での公演も果たし吉本興業の躍進に貢献、2020年に漫才分野として初の文化功労者に選ばれた。平成以降三代目笑福亭仁鶴、六代桂文枝(旧名:桂三枝)と共に所属筆頭格の芸人とされている(かつて発売された「よしもとタレント名鑑」では当時の三枝と共にトップページに掲載された)。また座右の銘であり、漫才における決め台詞「小さなことからコツコツと」をスローガンとして政界にも進出し、芸人としての活動を並行して行いながら参議院議員を3期18年務めた。 弟子に漫才師の西川のりお等がおり、弟子には芸名に「西川」の屋号(苗字)を与えている。 フジテレビ「ザ・ベストハウス123」の番組にてシーランド公国のロードの称号を得た(ただし、この称号は、数千円相当で購入可能なものである)。「伯爵位を持つ」と誤解されることがあるが、本番組できよしの得た称号「ロード(卿)」は男爵以上の爵位を持つ貴族全般への敬称であり爵位とは異なるものである[3]。 大阪市内に、吉本とは別に個人事務所「オフィス西川」を設けている。 来歴生い立ち高知市で5人姉弟(姉が3人、兄1人)の次男として生まれた。父は製材所を営んでいたが、知人の保証人となったことから債務取り立てに追われるようになり[4]、1954年、きよしが小学2年生の時に一家で逃げるように大阪に転居した。家計は苦しく、父は2日に1度しか帰宅できない過酷な条件でタクシー運転手となり[5]、母は内職をし、姉・兄もアルバイトに明け暮れ、きよしも10歳のときから[注釈 1]八百屋、牛乳配達、新聞配達(毎日新聞)などのアルバイトをするなどして家計を支えた。中学時代はサッカーに傾倒し、高校でもサッカー部に所属することを希望していたが、父親が十二指腸潰瘍で倒れたことから、高校進学を断念しやむなく就職する[6]。 1962年、中学卒業と同時に自動車整備工場に就職したが[7]、1年目に溶接中の引火事故で首から上に大やけどを負った[8]。4ヵ月の長期入院により奇蹟的に回復したが、大事故のトラウマを抱えたまま整備工の仕事を続けるのは無理だと感じ、退院と同時に退職した[8]。第2の人生に芸の道を志したのは、職場の先輩から「陽気で頓智がきく」[注釈 2]と褒められたことも下地となっているが、「カネなし、コネなし、学歴なし」でも勝負できると考えたことが大きい[8]。ミヤコ蝶々、藤田まこと、白木みのる、佐々十郎らの喜劇役者に弟子入り志願するが断られ、石井均に入門。1年後に杉浦エノスケから、人手が足りないからと吉本新喜劇に誘われて研究生として入団し[注釈 3]、秋山たか志の付き人をしていたが、白木みのるの付き人が辞めたために人手が足りなくなり白木の付き人となる[注釈 4]。のちになんば花月の舞台に端役で出演するようになり[10]、『てなもんや三度笠』の着ぐるみの熊役がテレビ初出演となった[11]。 妻となるヘレン杉本との馴れ初めは、扁桃腺が弱く熱を出したヘレンをきよし宅で静養させることを吉本幹部に命じられたことに遡る[注釈 5]。きよし宅では一家総出でヘレンの看病に当たり、ヘレンはきよしの家族ともすぐ仲良くなった。きよしとの交際も始まり、やがて結婚を前提とした同居を始めた[12] 低迷時代、きよしと坂田利夫はヘレンに食べさせてもらっており、3人で暮らしていた。また、同時期に共に苦労したレツゴー三匹のじゅんとも親友として知られており、きよしは「坂田くんとじゅんちゃんは、いつも自分のことを心配してくれる大事な人」とコメントしている[10]。 しかし、当時吉本興業部長だった中邨秀雄は、人気女優だったヘレンと無名のきよしとの結婚に反対し、きよしに引退を迫ったが、「ヘレンを引退させて自分が芸を続ける。それを認めないなら夫婦そろって引退する」ときよしは主張したという。きよしとヘレンは1967年9月に結婚。ヘレンは主婦業に専念するため新喜劇を引退した。当時吉本のドル箱スターであったヘレンを引退させたきよしは会社・劇団から冷遇されてしまう。が、この時のきよしの不退転の覚悟が、程なく漫才で大ブレイクする原動力となる。 やすきよ時代1966年に中山礼子が間に入る形で、横山やすし(きよしと同じ高知県生まれの大阪府育ち)と漫才コンビを結成し[注釈 6]、6月に京都花月で「自動車教習所」を演じ[13]初舞台を踏み、めきめきと頭角を現す。1967年、デビュー10ヵ月後にして上方漫才大賞新人賞を受賞[14]。第一次演芸ブーム(1965年 - 1970年)の折、東京ぼん太の後釜として起用されたフジテレビ「お茶の間寄席」司会や、朝日放送の全国ネット番組「てなもんや三度笠」のレギュラー出演等で東京に進出。1970年には上方漫才大賞を受賞[15]。同年の相方のやすしの暴行事件をはじめとした不祥事でコンビ活動自粛の際も、「素人名人会」(毎日放送)「爆笑寄席」、「ナイトパンチ」、「パンチDEデート」(以上、関西テレビ)、「仁鶴・きよしのただいま恋愛中」、「プロポーズ大作戦」(以上、朝日放送)、「料理天国」(TBSテレビ)、「スター誕生!」(日本テレビ)などテレビ司会者としての露出が増え、さらに1980年代初頭の漫才ブームでは、人気が頂点に達した。 1986年、「中学校を出た人間が、高校しか出てない人間が、一生懸命やったらどのぐらいのことができるか、どれぐらいのことしかできないか、やってみたいです」と、参議院議員選挙に大阪選挙区から無所属で立候補し、当選した[16]。義母の介護経験から福祉関連に力を入れ、「小さなことからコツコツと」をキャッチフレーズに3期18年間に渡る議員生活を展開した。参議院会派第二院クラブに所属し、福祉関係の充実を政策の中心とし、政治姿勢は全体的に保守系与党寄りであった。選挙では、『バラエティー生活笑百科』出演などで知られる弁護士の三瀬顕の推薦を受けていた。 1989年4月にやすしが自身の不祥事により吉本を解雇されたため、コンビは事実上の解散状態となり、以降は参議院議員と並行してソロでのタレント活動に専念する。なお、やすしとは吉本解雇時に「もう組みたくない」と冷たく突き放していたが、1996年1月にやすしが死去するまで定期的に連絡は取り合っていた。 やすきよ解散後1994年6月の第129回国会・参議院本会議の首班指名投票では、村山富市と海部俊樹に票が分散するなか、当時衆議院議長の土井たか子に票を投じ、1999年7月の第145回国会・参院本会議の国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)の採決では賛成票を投じた。議員生活を通して政党に所属することはなく会派としての第二院クラブ消滅後は無所属の会、国会改革連絡会に所属。2003年には国会等移転特別委員長に就任した。 2004年1月、同年7月の参議院選挙に立候補をせず、政界から身を引きタレント活動に専念しつつ、引き続き福祉関係の活動を行っていくと発表した。 大平サブローとの「新やすし・きよし」での活動も行っている。 2006年8月29日に日本テレビ系で自身の半生を描いた「ヘレンときよしの物語」が『ドラマコンプレックス』にて放送された。きよし役は実息の忠志。 2015年末に受けた定期健診で初期の前立腺がんと診断され、手術を受けた[17]。 2020年、漫才分野から初の文化功労者に選出された[18][19]。 選挙歴
エピソード「やすし・きよし」を組んで2年目の1967年7月、TBS系全国ネットの公開バラエティー番組『植木等ショー』に、ミヤコ蝶々、平参平、藤田まことと共にゲスト出演した(収録は東京)。当時植木等の付き人を務めていた小松政夫によると、この際に植木が優しくしてくれたことを、今でもきよしは恩義に感じているという[20]。 京都の仕事の帰りに稽古の事でやすしと揉め、背広がボロボロになるほどの掴みあいの喧嘩になった末、やすしは「解散や!」と怒鳴り散らしその場を後にした。後日事務所に向かい解散の旨を伝えると、事務所の偉いさんから「解散するのはかまへんが、台本も出来上がってるし残った仕事してもらわんと困る」と諭され、思いとどまる。その時に発した「今後も小さなことからコツコツやらさせてもらいます」というセリフが後に芸人仲間等で語られるようになり、いつしか「小さなことからコツコツと」というギャグになったとされる[10]。 1986年、参議院議員として国会に初登院し中曽根康弘に首班指名の投票後、帰阪。すると中曽根からきよし宛に「本日は首班指名に中曽根康弘とお書きいただいて、まことにありがとうございます」と丁寧なお礼をもらい感激したとかつて語っていた[21]。 政界引退を間近に控えた2004年6月3日、参院厚生労働委員会で小泉純一郎首相らに対し、議員として最後の質問を行う予定だったが、突然自民・公明の与党により審議中の年金改革関連法案を強行可決されてしまい、質問を行うことができず、採決にも加われなかった。これについてきよしは「期末試験もないまま卒業式に出て行けと締め出されたようです」とコメントした[22]。 誠実で穏やかな人柄で知られるが、実は頑固者で、元マネージャーの木村政雄は自著「やすきよと過ごした日々」にて、「やすしさんは我が儘を言うが、説得する余地があることも多かった。きよしさんは一度こうだ、と決めると、説得をしても絶対に動かず、我を貫き通す人だった」と回想している。 その反面『田舎に泊まろう!』に出演した際、宿泊させてもらった個人宅にみやげを送り続けているなど律儀な側面も持つ[23]。 長男の忠志が高校生のころ、友達が禁止されていた買い食いをしようとしていた。忠志は「買い食いはいけない」と最初は反対したものの、友達に流されてしまい、困り果てて家にいたきよしに電話し、「お父さん、僕もカレー食べていいか」と話したところ、きよしは涙ながらに「食べてええで、学校には後で父さん謝りに行ったる」と返した。普段から真面目で友達想いな忠志の事を知る教師は、忠志含め友人の行動を注意はしたが、何かしらの処罰は無かった。後日、きよしが一家団欒しながら「いろいろ苦労したが、大好きな家族とこうして豊かな食卓を囲めるようになった」ことをしみじみ感じ、「幸せやなあ」と涙を流した。それを見た次男の弘志が台所で料理をするヘレンのもとへ行き、「お母さん、お父さんが『幸せや』言うて泣いてんで」と報告したところ、ヘレンも野菜を切りながら「私も幸せやー」と号泣していたという[24]。 関ジャニ∞の村上信五曰く、新幹線でお弁当を食べている西川に挨拶に行くとお弁当をバーン!と吹っ飛ばしながら立ち上がり「いつもヘレンがお世話になってます」(当時村上は西川ヘレンと番組で共演していた。)と挨拶し、村上が「師匠!お弁当落ちましたよ!」と言っても全く気にしていなかった。この様に、後輩芸人やタレントに対しても、穏やかで誠実で腰が低い姿勢は、多くの人に愛されている。 弟子直弟子他 孫弟子
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