詩人タリエシンの世界
『詩人タリエシンの世界』 (原題: The Book of Taliesyn) はディープ・パープルが1968年に発表した2作目のアルバム。 解説製作の経緯前作のデビュー・アルバム『ハッシュ』(Shades of Deep Purple) は、アメリカでは1968年7月にテトラグラマトン・レコードから発表され[2]、シングル・カットされた「ハッシュ」がビルボードのチャートで最高4位を記録する大ヒットとなり[2]、アルバムも全米チャート24位まで上昇した。気を良くしたテトラグラマトン・レコードは商機到来と見て、直ちにセカンド・アルバムの制作に着手することを彼等に強く要請した。彼等は10月から初のアメリカ・ツアーに出る予定だったので、要請を受けて、8月上旬に新曲の作曲、リハーサル、レコーディングを並行して行って、ツアーが始まるまでの非常に短い期間でセカンド・アルバムを制作をすることにした[注釈 1]。 レコーディングは、8月1日から2週間で制作を終わらせることを目指して[注釈 2]、ロンドンのデ・レイン・リー・スタジオで、前作同様、プロデューサーにデレク・ローレンス、エンジニアにバリー・アインスワースを迎えて行なわれた[3]。作業のテンションは非常に高く、特にリッチー・ブラックモアが完璧な演奏を繰り広げ[要出典]、短期間のレコーディングを成功させた。 ミキシングは10月に行われた。メンバーはアメリカ・ツアーの為に作業に参加できなかったので、ローレンスが全てを一人で行なって前作以上にシャープなエッジの効いたサウンド・プロダクションを完成させた。モノラルとステレオそれぞれのマスターテープが制作されたが、モノラル・バージョンは使用されないまま廃棄された。 内容前作同様に1960年代末のサイケデリック・ロックやアート・ロックの色彩が強い作品でありながら、1970年発表の『ディープ・パープル・イン・ロック』で顕著にされたハード・ロックの路線にも通じる楽曲も含むアルバムである。 時間的な制約から完成度の高いオリジナルが十分に揃わなかったので、計8曲の収録曲のうち3曲がカバー作品となった[注釈 3]。「ケンタッキー・ウーマン」はニール・ダイアモンドの作品で、原曲は1967年にシングルとして発表されてアメリカのポップ・シングル・チャートで最高22位を記録した。「恋を抱きしめよう」はザ・ビートルズの1965年の作品[注釈 4]。「リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ」はアイク&ティナ・ターナーが1966年に放ったヒット曲で、フィル・スペクター、ジェフ・バリー、エリー・グレニッチの共作である。ディープ・パープルは「リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ」の導入部にリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」を用いている[注釈 5]。 5曲のオリジナルのうち、「エクスポジション」はベートーヴェンの「交響曲第7番」第二楽章とチャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」のパロディ[注釈 5]。「リング・ザット・ネック」[注釈 6]は、『ディープ・パープル・イン・ロック』でハード・ロック・グループとなった第2期の初期にも、デビュー・アルバムの「マンドレイク・ルート」と共に頻繁に演奏された[注釈 7]。「聖なる歌」では、おそらくメロトロンによって再生されたものと思われる[注釈 5]ストリングスがボーカルの背景を彩ったのに加えて、弦楽四重奏団[注釈 5]が間奏部分を担当した。 アルバム・タイトルの The Book of Taliesyn(『タリエシンの書』)は、6世紀ごろ活動したと言われるウェールズの吟遊詩人タリエシン(Taliesin)の作品を10世紀頃に編纂したとされる写本『タリエシンの書』の書名から取られた。タイトル・トラックはないが、「リッスン」の歌詞にタリエシンの名前が登場する。 本作は、アメリカでは1968年10月にテトラグラマトン・レコードから[4]、イギリスでは1969年7月にEMIのハーベスト・レコードから[5]発表された[6]。「ケンタッキー・ウーマン」[7]「リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ」が相次いでシングルとして発表された。1970年にテトラグラマトン・レコードが倒産して、アメリカでは廃盤になった[注釈 8]。 日本では1969年6月にテトラグラマトン・レコードの原盤が日本グラモフォンから『ディープ・パープルの華麗なる世界』の邦題で発売された(ポリドール、SMP 1434)[8]。1970年のテトラグラマトン・レコードの倒産によって日本盤も廃盤となったが、1973年10月にワーナー・パイオニアより『詩人タリエシンの世界』と改題されて再発売された(P-8377W)[9]。 収録曲
参加ミュージシャン
その他
脚注注釈
出典
引用文献
関連項目 |