青木利郎
青木 利郎(あおき としろう[1][2][注釈 1]、1936年〈昭和11年〉[3][1][2] - 2018年12月31日[4])は日本の日本映画の美術監督、デザイナー[3]。群馬県出身[3][1][2]。 経歴高校を卒業して2年半農業協同組合に勤務していたが給料が安く、結婚や家の建て替えのために教師になろうと考え、東京に住む叔父の家に移転する[5]。大学入試の準備を進めていたころに、叔父の知人であった映画監督のフランク徳永から「手先が器用だ」と見込まれ、新東宝の大道具を紹介される[5][1]。しかし、大道具の班長から会社が長くないことを告げられ、新東宝には入らず、徳永の妻からの東宝の美術監督であった渡辺明を紹介され、映画『日本誕生』に美術助手として参加[5][1][2]。 美術助手時代は、主にミニチュアセットをプラン通りに制作されるよう石膏や大道具に指示を出す「セット付き」を務めた[1]。 1971年に井上泰幸の退社に伴い東宝美術の美術主任としてゴジラ映画の美術を担当、1975年に東宝美術の特殊美術係長となり若手の育成に専念。 1982年に特殊美術課長に就任。 1987年に東宝不動産に出向し、日比谷シャンテ計画を指揮する。同施設では初代商店会事務局長を務めた[1]。 1996年に定年退職。引退後も特殊美術課OBのリーダー格として慕われていた[4]。 2018年、死去[4]。 人物・エピソード群馬県の山育ちであったことから山の様子が頭に入っており、特技監督の円谷英二や美術監督の井上泰幸らから山のセットについて一任されていた[5][6]。青木が美術を担当した時代のゴジラシリーズは、予算の削減によりビルのミニチュアセットが減少していたが、青木は得意の山野のセットで力を発揮した[6]。特に『ゴジラ対メカゴジラ』では、ロケハンで感銘を受けた残波岬をモデルとした岸壁のセットに力を入れていた[6]。背景美術の小島耕司は、青木はハサミ一つでリアルな山野を表現できる達人であり、特殊美術のセッティングでは右に出る者はいないと評している[5]。 特美課長時代は、かつての師であった井上泰幸に対して予算面で美術プランを制限する立場となり、長年井上の下にいたことから画面作りの狙いなどが理解できてしまうため、井上の自由にやらせられなかったことが辛かったと述懐している[1]。 青木が課長の時代に特殊美術課に入った三池敏夫は、青木について最初は大声で怒鳴る恐い管理職という印象であったが、後に怒って大声を出しているのではなく広いセットで指揮するのに必要な手段であったことを知ったと述懐している[4]。 代表作映画
テレビ
脚注注釈出典
参考文献
外部リンク |