高田文夫
高田 文夫(たかだ ふみお、1948年〈昭和23年〉6月25日 - )は日本の放送作家、タレント。本名は高田 文雄(読み同じ)。愛称は「高田ギョロメ文夫」「高田先生」「高田センセー[3]」。 落語家として、「立川 藤志楼」の高座名で落語立川流Bコース入りしている[4]。「駄句駄句会」同人、俳号は「風眠(ふうみん)」。生年月日は沢田研二・誠直也と同じ。長男は日刊スポーツ記者の高田文太[5]。 東京ヤクルトスワローズのファンとしても知られている。 経歴・人物生い立ち東京都渋谷区富ヶ谷に生まれる[6]。父の高田栄三は歴史書関係の出版社 国文社の経営者で丹羽文雄と仲が良かった事から「文雄」と名付けられた[7][8]。父方の親戚は出版社の経営者が多く、雑誌『映画評論』発行人高田俊郎もその一人で芸能好きは彼の影響が大きい[9]。母方は代々、渋谷で鳶の頭を務めた[10]。兄弟は姉2人。 5歳の時、世田谷区千歳船橋に引っ越しして、そこで育つ[11]。近所に森繁久彌宅、清川虹子宅があった[11]。小学校低学年から詩吟を習い、全国大会で3位になったことがある[3]。 小学校の時に『雲の上団五郎一座』『おとなの漫画』(フジテレビ)などに強い影響を受けて、青島幸男を目標に放送作家を志す。世田谷区立船橋中学校、日本学園高校を経て、日本大学芸術学部放送学科に入学し、落語研究会(日本大学芸術学部落語研究会)に所属。中学の同級生に俳優の志賀廣太郎が、高校の同級生に俳優の荒木しげるが、大学の同期に高井正憲[12]と古今亭右朝が、後輩に森田芳光がいる。立川談志に心酔、談志の著書『現代落語論』がバイブルで「落語の才能が無い」と森田を辞めさせている[7]。「青島幸男に憧れて、早稲田を志したが出来が悪かったので諦めた」と著書に記した。 中学高校でエルヴィス・プレスリー、ビートルズの洗礼を受けたロック少年であり、高校時代はボーカルとして「高田バンド」を結成した。当時から既にライブでは曲の合間に漫談やコントを入れていた。[13]。 放送作家大学卒業後は放送作家の塚田茂に弟子入り(後に破門)して、「スタッフ東京」設立に参加。1973年、『ひらけ!ポンキッキ』で放送作家デビュー。 その後は『時間だヨ!アイドル登場』(日本テレビ)『ロッテ 歌のアルバム』『笑ってポン!』(以上、TBS)、『スターどっきり(秘)報告』『夜のヒットスタジオ』『オレたちひょうきん族』『らくごin六本木』(以上、フジテレビ)、『笑アップ歌謡大作戦』(テレビ朝日)、『三波伸介の凸凹大学校』(テレビ東京)、『ビートたけしのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)、フジテレビの正月の名物番組『初詣!爆笑ヒットパレード』など数多くのバラエティ番組を手掛ける。『スターどっきり』『凸凹大学校』などの番組テーマ曲の作詞も手掛けた。 著書の『江戸前で笑いたい』やテレビ史の番組のインタビューでは構成を担当していた『ひょうきん族』の裏番組であり、高田自身も構成を一時期担当していた『8時だョ!全員集合』への対抗心から、いかりや長介の傲慢ぶりを批判したり、「ドリフはアドリブがなく、自分が考える笑いとは違う」などと述べた[14]。 2009年より、日大芸術学部時代からの友人で放送作家の松岡孝に頼まれ、放送作家養成セミナーの講師を務めた。 2024年現在、番組構成の仕事は殆ど行っていないが、後述するタレント活動や作詞、プロデュースなどを手掛けている。 弟子
タレント・落語家自身もタレントとして活躍。NHKの子供番組『600 こちら情報部』では戸田恵子らとともにレポーターを務める。『THE MANZAI』では景山民夫[15]と組み、「民夫くんと文夫くん」として漫才を披露した。 1983年、立川談志の落語立川流Bコース(芸能人・著名人コース)に入門。立川 藤志楼(たてかわ とうしろう。「とうしろう」は業界用語の「トーシロー」=しろうとの意味)を名乗り、1988年には真打に昇進した。真打昇進後から1990年代前半に掛けて精力的に高座を務め、多くがCD化された。その後は落語家としては休業状態であったが、2006年4月中旬に約10年振りに高座に上がった。2008年から新音源によるCDシリーズを発表している。 2006年、ワザオギからCDが発売された際は紀伊国屋書店新宿本店 2階にあったCD販売店のミュージックテイトで「発売直後の週間売り上げ枚数が宇多田ヒカルを抜いた」と発表された。宇多田ヒカルが新盤の発表前であったことや、この店が落語・お笑い関係のCDやカセットテープに力を入れていることによるものである。 学生時代に青島幸男か永六輔に弟子入りしようとした。永には弟子入りを志願する手紙を送るが、「僕は弟子を取るつもりはありません。お友達にならなりましょう」との返信が来て断念している。高田が放送作家になり、15年後に永に対面した際にこの件を話したところ、「今からでも遅くありません。弟子になってください」と冗談めかした手紙が後日届いたが高田は「自力でなんとかなった」と断っている[16]。2014年に「永六輔、高田文夫。幻の師弟・初のふたり会」を開催している。後に永の孫である永拓実が高田のラジオ番組にゲストに来た際は拓実が「僕を弟子にして下さい!」と直訴するも高田は「友達ならなりましょう」と返した[17]。 芸人にならなかった理由として、「売れてなくても芸が下手でも年功序列で『○○兄さん』とヨイショしなければならないことが苦痛に感じるから」と語っている。 東京ボーイズに加わって舞台に立つ場合は「ニュー東京ボーイズ」となる。 『たけし・逸見の平成教育委員会』第1期「生徒」として、セミレギュラー出席していた。『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』は1989年4月より放送開始。2024年現在も続くニッポン放送の長寿番組となっている。 ビートたけしとの関係テレビ番組の構成作家をしていた1975年頃、ポール牧や青空球児・好児らの薦めによりビートたけしと対面して意気投合。親密になった[18]。たけしを後押しして番組に起用。たけしのブレーンだった高信太郎から、その座を奪った。 ニッポン放送で『ビートたけしのオールナイトニッポン』の構成作家として参加するが、たけしの喋りに声を出して反応し、たけしが番組を休んだ時には代打パーソナリティとして番組を担当したことがあった。高田が番組を初めて休み、たけし軍団を相手にして放送した回はいつもの調子が出ずにボロボロの放送となり、高田の存在価値が改めて クローズアップされた。1983年、景山民夫と『文夫くんと民夫くん』のパーソナリティを景山民夫と共に務めた。1987年10月、ナイターオフの平日帯 夕方ワイド番組『巨匠・高田文夫のラジオでいこう!』のパーソナリティを務めた。 1991年2月から、たけしと共にフジテレビの深夜番組『北野ファンクラブ』、1996年4月から『北野富士』、1997年10月から2002年9月まで放送された『足立区のたけし、世界の北野』に出演。たけしやガダルカナル・タカ、つまみ枝豆、ダンカン、グレート義太夫らたけし軍団と共にレギュラー出演した。 笑芸プロデューサー1992年、高田が気に入った東京の若手お笑い芸人を集めて「関東高田組」を旗揚げ。高田が司会を務めるテレビ番組『たまにはキンゴロー』にメンバーが出演。各地でライブも実施して人気を博し、ビデオを発売した。 メンバーは春風亭昇太、春風亭勢朝、桂竹丸、立川ボーイズ(立川志らく+立川談春)、浅草キッド、松村邦洋、相馬ひろみ(現・藤本芝裕)、大川興業(大川豊、江頭2:50など)、松本明子、早坂好恵であった。 ライブ『我らの高田“笑”学校』をプロデュースしている。 2021年6月、一般社団法人漫才協会の外部理事に就任した[19]。 音楽頻度は少ないが作詞やCDプロデュースを手掛けることがある。「ラジオビバリー昼ズ」絡みの企画物(コミックソング)が多く、同番組でプロモーションを行うことが通例となっている。 作詞家デビューは新沼謙治に書いた演歌『おとこ唄ひとり』で作曲した佐瀬寿一(『およげ!たいやきくん』で知られる)とは近年もタッグを組むことが多い。 「バウバウ」「バウバウ」の初登場は『第8回 ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』での「冷凍室ダジャレ → ものまね合戦」。松村が『北野ファンクラブ』のものまねをした際、十八番のたけしのものまねに続けて、間髪入れずに「バッバッ!(うまいうまい!) 高田文夫です! バッバッ! バアッバッバッ!」と高田が手を叩いて喜ぶ様子を誇張して演じた。高田の笑い声は拍手を伴った派手なもので笑い声の「ブワッハッハ!」が「バァーバッバ」とも聞こえ、たけしを指差しながら「バカなこと言って」という時がもある。更に言葉を発しながら笑うために「バッバッバ」と聞こえ、それにネタっぽい要素を加えて「バウバウ」になった。 シンプルな割に強烈なインパクトが根付き、会場は大ウケしたことで以来、松村の持ちネタとなった。 病気による休養
上記の通り、2006年4月に新宿末廣亭中席興行(担当:落語芸術協会)で10日間高座に上がったが過労と風邪による体調不良のため、興行直後の4月24日から『ラジオビバリー昼ズ』を休演したが、7月3日から2か月振りに復帰した。
2012年4月11日の夕方にも体調不良を訴えて緊急入院した[20]。精密検査の結果、心肺機能に疾患があることが判明[21]し、全ての活動を休止して治療に専念することを発表した。 7月10日に病院を退院した、と7月11日放送の『ラジオビバリー昼ズ』で春風亭昇太が発表して、7月13日放送の『大沢悠里のゆうゆうワイド 』に内包している『毒蝮三太夫のミュージックプレゼント」』で高田の退院が話題となった。毒蝮三太夫は大学の先輩、同日のゲストの春風亭一之輔は後輩に当たる。その後は高田から毒蝮や大沢悠里に対して自らの退院について報告するファクシミリが届き、7月16日の放送分で伝えられた。 10月19日の『ラジオビバリー昼ズ』に電話出演して11月に復帰すると告げ、11月5日に7か月振りに復帰。「不整脈から心肺停止に至った」「心臓が4回停止した」「手術で8か所にメスを入れて、心臓ペースメーカーを付けた」「入院後は2週間 意識を喪失した」「70日間 集中治療室にいた」などと語った。入院前はチェーンスモーカーだったが禁煙した。これ以降は体調を考慮して、月曜日と金曜日の放送に出演するようになった。
2月から3月に掛けて、『ラジオビバリー昼ズ』を2週間休演。3月6日の放送で復帰。入院して、心臓ペースメーカーを取り換えたことを明らかにした。 メディア著書
雑誌
新聞
CD(自身)
CD(作詞・プロデュース)
ビデオ(編・プロデュース)
テレビ出演番組
ラジオ出演番組
CM
映画
演じた俳優関連項目脚注
外部リンク |