黒河内四郎
黒河内 四郎(くろかわち しろう[注 1]/くろこうち しろう[1]、1882年(明治15年)7月 - 1960年(昭和35年)6月3日)は、日本の鉄道省官僚、土木工学者(工学博士)。鉄道省工務局長を最後に退官し、東京高速鉄道技師長として現在の銀座線新橋、渋谷間の開通に貢献。第31代土木学会会長、初代日本保線協会会長。 生涯福島県士族香川氏の次男[2]として若松町に生まれ、同士族黒河内源治の養子[2]となる。1901年(明治34年)会津中学を卒業。大島破竹郎が同級生である。二高を経て、1907年(明治40年)東京帝国大学を卒業。席次は29名中3番である[3]。
逓信省鉄道作業局に入り、生涯にわたる鉄道への関わりが始まる。1915年(大正4年)に米国留学し、帰国後は工務局保線課に配属され、保線業務、軌道の改善に努めた[4]。大正中期には鉄道の電化に必要な電力を確保するため、信濃川電気事務所長として調査や土木工事を担当し、また鉄道電化調査委員会の委員を務めている[4]。1924年(大正13年)保線課長として本省勤務となり、建設局計画課長兼工事課長、建設局長、工務局長を歴任。1929年(昭和5年)には「狭軌軌道ノ強度ニ就テ」[5]で工学博士号(東京帝大)を授与される。1934年(昭和9年)に退官。
東京高速鉄道に役員として迎えられ、技師長として新橋、渋谷間の地下鉄設計、建設にあたり、成功に導く[4]。この路線は現在の東京地下鉄銀座線の一部である。湘南電気鉄道、京浜電気鉄道の役員、東京環状乗合自動車社長として交通会社の経営にあたり、土木学会においては学会誌の編集委員長や各種委員を務めた。戦中の1943年(昭和18年)には土木学会会長に就任。土木関係者に「科学技術の力こそ戦勝に導く原動力」であり、「機械力の使用を図らねばならない」と説いた[6]。戦後は富士山麓電気鉄道、鉄道保安工業の役員を務めたほか1953年(昭和28年)に日本保線協会初代会長に就任[4]。 翌年には土木学会名誉員に推されている[4]。鉄道への関わりは大学卒業後50年以上におよんだ。長女は鉄道局技師に嫁ぐ[2]。
脚注
参考文献
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