1993年のル・マン24時間レース
![]() 1993年のル・マン24時間レース(24 Heures du Mans 1993 )は、61回目のル・マン24時間レースであり、1993年6月19日[1]から6月20日にかけてフランスのサルト・サーキットで行われた。 概要3,500ccNAマシンによるスポーツカーレース(スポーツカー世界選手権、SWC)は1991年シーズン終了後にも中止される可能性があってプジョーやトヨタ自動車の協力でようやく成立したもののその後さらに参加台数が減って1992年で中止となっており、この影響をまともに受けてル・マンの観客動員数も大幅に減った[2]。 これまでの燃料使用量による性能抑制を止め、吸気リストリクターによる性能抑止を採用することになった[2]。 C11991-92年のSWC、3,500ccNAマシンによる、主役となるカテゴリーで、プジョーとトヨタの一騎討ちとなった[2]。 プジョーのワークスチームプジョー・タルボ・スポーツはこのレース終了で監督のジャン・トッドがフェラーリのフォーミュラ1チームへ移籍して、チーム解散することが決定していた。前年のプジョー・905を改良して3台持ち込んだ[2]。 トヨタはトヨタ・TS010のタイヤをグッドイヤーからミシュランに変更して3台持ち込み、戦闘力はプジョーを上回ると言われた[2]。 C2トヨタ勢はサードとトラストからトヨタ・93C-Vが出場した[2]。 ポルシェはプライベートチームからポルシェ・962Cが出場した[2]。 LMP新しい「ル・マン・プロトタイプ」カテゴリー。IMSAのWSC(ワールドスポーツカー)のマシンで、3リッター以下の生産車またはF3000エンジンを使用し、リストリクターによってバランスがとられている、コンストラクター製1席のレース専用車である[2]。軽量で比較的安価に参戦できたが、カテゴリー自体が先行き不透明で参加台数は多くなかった[2]。 GTGTカーのクラスで、合計30台が参戦した[2]。安定した参戦台数を得るために認められたカテゴリーではあるが、市販車が再びル・マンに帰って来たことで将来に期待を繋ぐカテゴリーでもあった[2]。 ジャガーはル・マンの経験も豊富なトム・ウォーキンショー・レーシングが有力ドライバーを揃えXJ220Cで参戦した[2]。 目立たないながらもポルシェは将来を見据えて車両重量1,000kg、3.2リットルのポルシェ・911ターボS LM-GTを持ち込み、ハンス=ヨアヒム・スタック/ヴァルター・ロール/ハーレイ・ヘイウッド組と優秀なドライバーで参戦した[2]。 他に参戦した車両はヴェンチュリ・500LM、ロータス・エスプリ300、フェラーリ・348LMなどであった[2]。中にはアマチュアが持ち込んだ、ほとんどノーマルに近い車両もあった[2]。 予選プジョーは前年より3秒以上遅い[2]3分24秒94[2][1]を出したプジョー・905の2号車[1]が1位[1]となった[2]。 トヨタもタイム短縮には消極的であった[2]。トヨタ・TS010の36号車[1]が3分26秒14[1]で2位[1]。 決勝トヨタは一時トップに立ったもののトランスミッショントラブルで後退、特に後で判明したメインシャフトベアリングの問題は大きく、これでピエール=アンリ・ラファネル/ケニー・アチソン/アンディ・ウォレス組はリタイヤに追い込まれ、他の車両もトランスミッション交換にかなりの時間を取られたのが致命的だった[2]。電気系統のトラブルの原因がオルタネーターにあった原因究明にも時間を費やした[2]。36号車の4位が最高位。これに引き換えサードとトラストはトラブルなく24時間を走り切り、総合5位、6位となった[2]。 ジェフ・ブラバム/クリストフ・ブシュー/エリック・エラリー組の乗るプジョー・905の3号車が24時間で5,100kmを平均速度213.358km/hで走って優勝した[1]。プジョーはこの年ヤニック・ダルマス/ティエリー・ブーツェン/テオ・ファビの1号車が2位、マウロ・バルディ/フィリップ・アリオー/ジャン=ピエール・ジャブイーユ組の2号車が3位と表彰台を独占した。[3] GTクラスはジョン・ニールセン/デビッド・ブラバム/デビッド・クルサード組が総合15位・クラス優勝を果たしたが、2週間後に排気系のレギュレーション違反が発覚して失格となった。よってラルブル・コンペティション47号車のポルシェ・911カレラRSRがクラス優勝になった。
出典参考文献
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