関谷正徳
関谷 正徳(せきや まさのり、1949年11月27日[1] - )は、日本の元レーシングドライバー。ル・マン24時間レースにおける日本人初の総合優勝者。 経歴デビュー静岡県安倍郡井川村(現在の静岡市葵区)出身[2]。血液型はA型。常葉学園橘高校出身[3]。同校を卒業後静岡マツダ(マツダの静岡県における販売ディーラー)に入社する。 静岡マツダの社員だった1972年にレースデビュー。「ファミリアロータリークーペ」や「カペラ」、「サバンナ」をドライブし活躍した。1976年には富士グランチャンピオンレース(富士GC)併催のスーパーツーリング選手権でシリーズ2位となり、翌1977年にはシーズンチャンピオンを獲得した。 1978年には富士グランチャンピオンレースにステップアップし、1981年まで参戦した。1982年には渡英し、イギリスのフォーミュラ・アトランティック選手権に参戦し、6戦中5戦で入賞する活躍を見せた。 トムスとレイトンハウスイギリスから帰国した1983年には、トヨタ系の名門チームのトムスと契約し、1984年には全日本耐久選手権に参戦した。1985年にはトムスよりル・マン24時間レースに参戦し、その後合計11回参戦する。 1987年のル・マンでは決勝の前日に、当地の教会において、チームのサービスサポーターだった葉子夫人(当時34歳)と結婚式と披露宴を挙げている。結婚証明書はル・マン市長から渡された。日本人初の総合優勝を果たした1995年のル・マン24時間レースでは、夫人は8月に第二子を出産予定であったため、初めてル・マンを欠席した[4]。 1986年からはレイトンハウスのドライバーとして、日本のトップカテゴリーの全日本F3000選手権や全日本ツーリングカー選手権、全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)などで活躍した。 さらに1989年には、全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権とル・マン24時間レースにレイトンハウスのポルシェ・962Cで参戦し、同年の富士GC最終戦では最後の勝者となった。 このように、トムス及びレイトンハウスの顔として活躍したが、バブル景気が崩壊し、1991年9月11日にレイトンハウスのオーナーの赤城明が「富士銀行不正融資事件」で逮捕され、レイトンハウスの活動は同年を持って休止となった。 ル・マン24時間レース優勝翌年も全日本F3000選手権に参戦しつつ(1993年まで参戦)、1992年のル・マン24時間レースではトヨタ・TS010をドライブし総合2位の成績を挙げた。また、1994年には、トムスからトヨタ・コロナで参戦し、全日本ツーリングカー選手権の初年度のシーズン優勝を獲得する。 1995年のル・マン24時間レースでは、ヤニック・ダルマスとJ.J.レートとチームを組んでマクラーレン F1 GTRをドライブした。24時間で4,055km[5]を平均速度168.992km/h[5]で走って総合優勝し、日本人初の総合優勝を果たした[2]。 全日本ツーリングカー選手権優勝その後も、全日本ツーリングカー選手権や全日本GT選手権などの日本のトップカテゴリーで活躍するとともに、1996年には国際ツーリングカー選手権にスポット参戦した。 1998年には、全日本ツーリングカー選手権の最終年度のシーズン優勝を獲得する(トムス/トヨタ・チェイサー)。これにより関谷は、同シリーズの開幕年度と最終年度にシーズン優勝を飾る形となった。1999年には、全日本GT選手権のGT500クラスでシーズン2位を獲得した(トムス/トヨタ・スープラ)。2000年10月のSUZUKA GT 300kmでレーシングドライバーを引退した[2]。 引退後引退後は古巣のトムスチームの監督や、最も古いJAF公認クラブのトヨタ・モータースポーツクラブ(TMSC)の会長を務めるほか、フォーミュラトヨタ・レーシングスクール(FTRS)の校長を務める[1]など、若手レーシングドライバーの育成やモータースポーツの振興に努める。 2013年には富士スピードウェイで開催されるワンメイクレース「インタープロト・シリーズ」を主催するとともに、専用マシン「Kuruma」の設計監修を行った。また、2017年には女性限定レースの『競女カップ』も開催しているなど、日本のモータースポーツの振興にも活躍している。 レース戦績全日本F3000選手権
全日本耐久選手権/全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権
全日本ツーリングカー選手権
全日本GT選手権
国際ツーリングカー選手権
世界耐久選手権/世界スポーツプロトタイプカー選手権/スポーツカー世界選手権
ル・マン24時間レース
脚注
関連項目外部リンク
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