J.A.ハップ
ジェームズ・アンソニー・ハップ(James Anthony Happ, 1982年10月19日 - )は、アメリカ合衆国イリノイ州ビュロー郡スプリング・バレー出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。愛称はハッパー[1]。 「J.A.」はジェイと発音する。 経歴プロ入りとフィリーズ時代2004年のMLBドラフト3巡目(全体92位)でフィラデルフィア・フィリーズから指名され、6月16日に契約。この年は傘下のA-級バタビア・マックドッグスで11試合に登板し、1勝2敗、防御率2.02だった。 2005年はA級レイクウッド・ブルークロウズとAA級レディング・フィリーズでプレー。A級レイクウッドでは14試合に登板し、4勝4敗、防御率2.36だった。 2006年はA+級クリアウォーター・スレッシャーズとAA級レディング、AAA級スクラントン・ウィルクスバリ・レッドバロンズでプレー。AA級レディングでは12試合に登板し、6勝2敗、防御率2.65だった。 2007年はAAA級オタワ・リンクスで開幕を迎え、6月30日にフィリーズとメジャー契約を結んでアクティブ・ロースター入りした。同日のニューヨーク・メッツ戦で先発起用されメジャーデビュー。4回を5失点(5自責点)で負け投手となり、7月1日にAAA級オタワへ降格[2]。その後はメジャーに昇格することなくAAA級オタワでプレーした。 2008年はAAA級リーハイバレー・アイアンピッグス[3]で開幕を迎え、7月3日にメジャー昇格[4]。入れ替わりで降格したブレット・マイヤーズに代わりメジャー先発ローテーション入りを果たした[5]。登板した7月4日のメッツ戦、7月9日のセントルイス・カージナルス戦は勝ち投手にならなかったもののチームは勝利。7月10日にAAA級リーハイバレーへ降格したが、7月29日、アダム・イートンの代わりとしてメジャー昇格[4]。チャーリー・マニエル監督はハップを「6番手の先発投手」とし、基本はリリーフとして起用することに[6]。8月5日にリリーフとして1試合に登板したのみでAAA級リーハイバレーへ降格した。AAA級リーハイバレーでは8勝7敗、防御率3.60、151三振(リーグ2位)を記録。セプテンバーコールアップで再昇格を果たした後は先発と中継ぎで併用され、メジャー初勝利を遂げるなど活躍。ポストシーズンでもロースター入りし、ワールドチャンピオンの一員となった。 2009年はローテーションの一角を担うものと期待されていたが、スプリングトレーニングで好投した朴賛浩に先発5番手の座を奪われ、ブルペン要員としてシーズンを迎えた。しかし、シーズン開幕後の朴は先発として通用せず、中継ぎで好投を続けていたハップを先発にと望む声が日に日に大きくなっていった。そして、5月23日からは先発5番手として登板。その後はローテーションに定着し、23試合に先発登板し、12勝4敗(うち先発勝利10勝。完投3、完封2)、防御率2.93、WHIP1.23という成績を残し、チームの地区優勝に大きく貢献した。ただし、投球内容から本来あるべき防御率を示すxFIPは4.43であり、ハップの防御率は運や守備に大きく助けられていたと言える[7]。ポストシーズンでは優勝チームとしては脆弱な中継ぎ陣を補強するためにブルペンに廻り、7試合に登板した。新人王の有力候補であったが、フロリダ・マーリンズのクリス・コグランに破れ、2位であった[8]。 2010年は4月に2試合を投げたものの、利き手前腕に違和感を覚えて22日には故障者リスト入り。リハビリを経て7月末に復帰した。 アストロズ時代2010年7月29日にロイ・オズワルトとのトレードで、アンソニー・ゴース、ジョナサン・ビヤーと共にヒューストン・アストロズへ移籍した[9]。移籍後は13試合に登板し、5勝4敗、防御率3.75だった。 2011年3月2日にアストロズと1年契約に合意。28試合に登板し、6勝15敗、防御率5.35だった。 2012年1月17日にアストロズと235万ドルの1年契約に合意[10]。18試合に登板し、7勝9敗、防御率4.83だった。 ブルージェイズ時代2012年7月20日に計10人が絡む大型トレードで、トロント・ブルージェイズへ移籍した[11]。移籍後は一旦ブルペンに回ったが、しばらくして先発に戻った。8月29日にベースカバーに入った際に右足を痛め、9月7日に骨折が判明。そのまま手術を受け、シーズンを終えた[12]。ブルージェイズでは10試合に登板し、3勝2敗、防御率4.69だった。 2013年1月18日にブルージェイズと370万ドルの1年契約に合意し[13]、3月27日に総額890万ドルの2年契約(2015年・670万ドルの球団オプション付き)を結んだ[14]。5月8日のタンパベイ・レイズ戦でデズモンド・ジェニングスのライナーを右側頭部に受け、マウンドに転倒。耳の上の頭蓋骨にヒビが入った他、崩れ落ちた際にヒザを悪く捻って靭帯を痛め、3ヶ月間故障者リストで過ごした[15]。この年は18試合に先発登板し、5勝7敗、防御率4.56だった。 2014年3月26日に背中の痛みを訴え、15日間の故障者リスト入りした。4月5日にリハビリのため、A+級ダニーデン・ブルージェイズへ異動した。4月15日に故障者リストから外れる[16]と、5月初旬からは先発ローテーションに定着し、以降はシーズン終了まで離脱することなく先発ローテーションを守り抜いた。26試合の先発を含む30試合に登板し、規定投球回には届かなかったものの自身2年ぶりとなる2桁勝利を挙げた。 マリナーズ時代2014年12月3日にマイケル・ソーンダースとのトレードで、シアトル・マリナーズへ移籍した[17]。 2015年のマリナーズでの成績は、21試合の先発で4勝6敗、防御率4.64だった。 パイレーツ時代2015年7月31日にエイドリアン・サンプソンとのトレードでピッツバーグ・パイレーツへ移籍した[18]。 パイレーツ移籍後はK/9(9イニングあたりの奪三振数)が6.79から9.81、K/BBが2.56から5.31にそれぞれ上昇し、被本塁打数を63.1イニングで3本に留めるなど投球内容が劇的に向上した。それに伴い成績も11試合で7勝2敗、防御率1.85と移籍前から大幅に良化した。2チーム合計での成績は11勝8敗、防御率3.61だった。11月2日にFAとなった[19]。 ブルージェイズ復帰2015年11月27日、ブルージェイズと3年契約を結んだ[20]。 2016年は、先発ローテーション通りに登板し、レギュラーシーズンでは最終的に32試合に先発登板。自身初の20勝超えとなる、リーグ2位の20勝ちょうどの勝ち星を挙げ、3年連続2桁勝利を継続したほか、防御率でリーグ6位・勝率でリーグ3位・WHIPでリーグ10位にランクイン。自己最高のシーズンを過ごし、ブルージェイズのエースの1人として躍動した。 2017年開幕前の2月9日に指名投手枠で第4回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のアメリカ合衆国代表に選出された[21]。迎えたレギュラーシーズンは25試合先発で10勝11敗・防御率3.53であった。 2018年は自身初めて開幕投手を務めるなど、7月までに20試合に先発したが、10勝6敗、防御率4.18と今ひとつの成績であった。 ヤンキース時代2018年7月26日にブランドン・ドルーリー、ビリー・マッキニーとのトレードで、ニューヨーク・ヤンキースへ移籍した[22]。背番号は当初83と発表されたが、34となった。移籍後は好調を維持し、11試合先発で7勝無敗、防御率2.69と安定感を見せた。通年では31試合先発で17勝6敗、防御率3.65を記録し、177.2イニングで193奪三振と自身初めて奪三振率が9.0を超えたシーズンとなった。10月29日にFAとなったが、12月17日にヤンキースと2年3400万ドル(2021年のベスティングオプション付)で再契約を結んだ[23]。 2019年は年間通じてローテーションの一員を務めたが、自身ワーストとなる34被本塁打を喫するなど安定感に欠ける投球が多く、31試合登板(先発30試合)で12勝8敗、防御率4.91、WHIP1.30と前年から大きく成績を落とした。 2020年オフの10月30日に球団からオプションを破棄され、FAとなった[24]。 ツインズ時代2021年1月22日にミネソタ・ツインズと800万ドルの単年契約を結んだ[25]。 カージナルス時代2021年7月30日にジョン・ガント、エバン・シスクとのトレードで、セントルイス・カージナルスへ移籍した[26]。カージナルスでは11試合に先発して5勝を挙げ、チームのポストシーズン進出に貢献した。オフの11月3日にFAとなった。 2022年5月26日に現役引退を表明した[27]。 選手としての特徴かつては速球(フォーシーム、ツーシーム)の最速90mph程度の技巧派だったが、近年は平均92~93mph、最速95mphほどを計測している。その他の球種は、カーブ、チェンジアップ、スライダー。以前は、カッターも投げていた[28]。三振よりもフライを打たせて捕るタイプ。しかし、2012年は投球回数とほぼ同数の三振を奪い、投球内容が進化した。 詳細情報年度別投手成績
年度別守備成績
記録
背番号
脚注
関連項目外部リンク
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