コーリン・エドワーズ
コーリン・エドワーズ(Colin Edwards junior, 1974年2月27日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州コンロー出身のオートバイレーサー。 2000年・2002年スーパーバイク世界選手権チャンピオン。1996年・2001年・2002年鈴鹿8時間耐久ロードレース総合優勝。2003年より2014年までロードレース世界選手権MotoGPクラスに参戦。愛称は「テキサス・トルネード」。 来歴スーパーバイク時代MotoGP(WGP)ライダーにはアメリカ人が多く、かつスーパーバイク出身である場合が多い。エドワーズも例に漏れずスーパーバイクからMotoGPに転向した一人である。 自国・アメリカのAMAスーパーバイクで頭角を現したエドワーズは1995年、SBK(スーパーバイク世界選手権)に挑戦。翌1996年に鈴鹿8時間耐久ロードレースにヤマハから参戦すると、芳賀紀行とのペアで優勝(大会史上最年少ペア、当時の最長記録を更新)を果たし飛躍のきっかけとする。 1998年にホンダに移籍。着実に成績を伸ばしていったエドワーズは2000年、ホンダの投入したニューマシンVTR1000SPWを駆り、古巣ヤマハの芳賀を下して初の世界チャンピオンに輝く。2001年はドゥカティのトロイ・ベイリスにタイトルを奪われるも、バレンティーノ・ロッシとのペアで臨んだ鈴鹿8耐では優勝、2勝目を飾る。 2002年はSBK史上に残る激しいシーズンとなった。シーズン前半戦はベイリスの連戦連勝、対するエドワーズはSUGO(第1レース優勝。スポット参戦の玉田誠にチームオーダーで譲られたとの噂も)など少ない勝利と多くの表彰台は獲得するものの、ベイリス絶対有利との声が強かった。それが一転したのはアメリカラウンド・ラグナ・セカ。第2レースに勝利したエドワーズはそれ以後の全レースで優勝、最終戦を残してついにポイントでベイリスを上回った。そして迎えた最終戦のイモラ、エドワーズはベイリスとの激しいバトルを制し2連勝、自身2度目のタイトルを獲得した。また、MotoGPイギリスグランプリで負傷した宇川徹の代役で参戦した鈴鹿8耐でも加藤大治郎と組んで6ピットで最長記録となる219ラップで優勝した。 MotoGP参戦ホンダは諸般の事情から2003年からSBKのワークス活動を休止。エドワーズはホンダにMotoGP参戦を打診したようだが、ライダー枠に空きが無くアプリリアへの移籍を決断する。この際アプリリアSBKライダーだった芳賀紀行もMotoGPに転向、2人は再びチームメイトとなる。しかしアプリリアのマシンはチャタリングが激しくエドワーズ・芳賀ともに大苦戦。散々なMotoGP1年目であった。 翌2004年、1年ぶりにホンダ(サテライトのグレシーニ・チーム)に復帰。しかしサテライトのNo2ライダーの苦しさか、最新パーツが回ってこない型落ちマシンで思ったほどの成果が上げられない(入賞率の高さからランキングは上位だが)。そんなエドワーズに古巣ヤマハから2005年からワークスチーム移籍の話が舞い込んだ。これはヤマハのエース・ロッシが、鈴鹿8耐でペアを組んで相性のよかったエドワーズをチームメイトに指名したことによる。 2005年、ヤマハに復帰・ワークスのシートを手に入れる。だがロッシの速さが突出しており、待望の初優勝はあげられなかった。 2006年も同体制でMotoGP参戦。第8戦ダッチTTではニッキー・ヘイデンと激しいバトルを展開したが、あと一歩というところで初優勝を逃した。なお、鈴鹿8耐には10年ぶりに芳賀とのペアでヤマハから参戦したが、序盤でリタイアとなった。 2008年からテック3チームに移籍。表彰台は何度も経験しているものの優勝だけは手が届かず惜しい成績を残し続けた。 2012年からはヤマハから離れ、同シーズンからCRTマシンを使用してMotoGPクラスへと参戦するフォワード・レーシングへと移籍。スッターのCRTシャーシにBMW・S1000RRのエンジンを搭載したマシンで参戦したが、2012年シーズンは11位が最高で結果を残せなかった。2013年もCRTシャーシで参戦するが、車体はFTR・エンジンはカワサキ・ニンジャZX-10Rの組み合わせで挑む。 2014年4月10日、今季限りでの現役引退を表明した[1]。 その他
主な戦績
スーパーバイク世界選手権
鈴鹿8時間耐久ロードレース[2]
ロードレース世界選手権
脚注
関連項目外部リンク
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