ファン・マヌエル・ファンジオ
ファン・マヌエル・ファンジオ・デラモ(Juan Manuel Fangio Déramo, 1911年6月24日 - 1995年7月17日)は、アルゼンチンのレーシングカー・ドライバーである。F1において5回のワールドチャンピオンに輝いているが、これは2003年にミハエル・シューマッハに破られるまで、46年間も史上最多記録を誇っていた。 ニックネームはエル・チュエコ(スペイン語で「がに股」の意味)。 来歴生い立ち首都ブエノスアイレスから350km離れたバルカルセ (Balcarce) で、イタリア系移民二世として生まれる。父親はペンキ職人で、6人きょうだいの四男が6月24日の「聖ヨハネ (San Juan Bautista) の日」に生まれたことから「ファン」と名付けた[1]。 幼い頃から機械いじりが好きで、13歳になると地元の修理工場で整備工として働き始める。また、サッカーが得意で、プレースタイルから「エル・チュエコ(がに股)」というあだ名を付けられた[2]。軍隊で兵役を務め終えると独立し、自分の修理工場で自動車を改造して、1934年からレースに出場するようになった。 ヨーロッパ進出主に南米で行われていた長距離ロードレースで活躍し、1940年にはブエノスアイレスとペルーのリマを往復する約9,500kmのグランプレミオ・デル・ノルテで優勝。1940年と1941年にはアルゼンチンの国内選手権を制した。当時のライバルはガルベス兄弟(オスカルとフアン)で、ファンジオ派とガルベス派のファンが対立するほど人気は高かった。しかし、第二次世界大戦の余波は南米にも及び、1942年以降のレースは中止された。 1947年から国内でレース活動を再開すると、ヨーロッパからゲスト参戦したアキーレ・ヴァルツィ、ジャン=ピエール・ウィミィーユらと競い合い、本場ヨーロッパで実力を試す希望を持つようになる。 1948年10月、ブエノスアイレスからベネズエラのカラカスを目指すツーリスモ・カレテラのレースに出走していたファンジオは、内乱の影響で急遽夜間のスタートとなったリマ~トゥンベス(ペルー)のステージにおいて、濃霧の中でオーバースピードでコーナーに進入したことが原因で転落。ファンジオは首を負傷した上、コ・ドライバーを務めていた2歳下の同郷の友人、ダニエル・ウルティアが車外に投げ出されて死亡する事故となり[3]、大きなショックを受けたファンジオは一時は引退も考えた。その後立ち直ったファンジオはペロン政権の後援を受けて自動車クラブのメンバーとしてオスカルらとヨーロッパへ渡り、1949年はサンレモGP、ポーGP、マルセイユGP、モンツァGPなどで連勝を重ね、国際的な一流ドライバーと見なされるようになった。 5度のF1ワールドチャンピオン1950年はアルファロメオと契約し、新たに開幕したF1世界選手権に参戦する。第2戦モナコGPで初優勝し、ベルギーGPとフランスGPを連勝してポイントをリードしたが、最終戦イタリアGPでリタイアしてチームメイトのジュゼッペ・ファリーナに初代チャンピオンの座を譲った。 1951年は後半戦調子を上げてきたフェラーリ勢との争いになった。フェラーリのエース、アルベルト・アスカリとの一騎打ちで迎えた最終戦スペインGPは、フェラーリのタイヤ選択ミスにも助けられ、見事にワールドチャンピオンを獲得した。 1952年は、アルファロメオが撤退してシートを失った上に、非選手権レースで大事故に遭遇する。アイルランドでレースをした翌日モンツァGPに出場するため、パリからミラノまで夜通し運転してレースに強行出場した結果、クラッシュして頸部を骨折し半年間の療養生活を送る。引退も噂されたが、1953年にはマセラティから復帰を果たし、最終戦イタリアGPでは、2年間無敗を続けたフェラーリを止める復活勝利を挙げた。 1954年は、マセラティで開幕2連勝した後、フランスGPより参戦を開始したメルセデスへ移籍。デビュー戦をポール・トゥ・ウィンで飾ると、シーズン9戦中6勝[4]を記録して2度目のワールドチャンピオンを獲得した。しかし、ドイツGPでは可愛がっていた後輩のオノフレ・マリモンが事故死し、大きな精神的ショックを受けた。 1955年も7戦中4勝[4]を挙げて、自身3度目のタイトルを獲得した。イギリスGPではスターリング・モスの地元初優勝を祝う余裕も見せた。一方、ル・マン24時間レースでは観客80名以上が死亡するモータースポーツ史上最悪のクラッシュに遭遇し、事故死したピエール・ルヴェーの後方で間一髪危機をまぬがれた。メルセデスチームがレース撤退を決めた直後、憔悴した自身の姿を捉えた写真が残されている。 メルセデスのレース活動休止により、1956年にはフェラーリへ移籍。最終戦イタリアGPで、チームメイトのピーター・コリンズからチャンスを譲られる形で、自身4度目のチャンピオンを獲得する(後述)。しかし、オーナーのエンツォ・フェラーリとの関係はギクシャクし、1年限りでチームを去った。 1957年はマセラティに復帰し、4年連続のチャンピオンに輝くこととなった。この年はドイツGPの伝説的勝利(後述)を含め圧倒的な強さをみせ、出場したレースではリタイア1回を除くと、全てが優勝または2位でフィニッシュした。未だ実力はトップレベルだったが、全てやり遂げたという達成感からレース出場回数を減らしていく。 1958年はインディ500に初挑戦し、練習走行でルーキーテストを通過したが、公式予選には出走しなかった。F1はマセラティがワークス活動を休止したマセラティから2戦のみにスポット参戦。フランスGPを4位で終えた後、47歳でF1からの引退を表明した。 引退後引退後は母国でメルセデス・ベンツ車のディーラーを経営し、メルセデスとの深い関係は生涯続いた。晩年はパガーニのアドバイザーとして、オーナー兼デザイナーのオラツィオ・パガーニにメルセデス・ベンツ製エンジンの搭載を進言し、交渉面での便宜を図った。パガーニ・ゾンダの限定モデル"Roadster F"に付けられた"F"は、ファンジオの名から敬意を表して名付けられたものである。 1990年、国際モータースポーツ殿堂に殿堂入り。1995年7月17日、居住地ブエノスアイレスで84歳で死去。「アルゼンチンの英雄」として多大なる敬愛を受けていたこともあり、国葬という形で手厚く葬られた。 彼のレースにおける輝かしい軌跡は、"Fangio(邦題名『グレート・ドライバー』)"と題してドキュメンタリー映画化されている。自身が出場した数々のレースやインタビュー映像のほか、1970年代後半までのF1名勝負や悲惨なアクシデントシーン[5]など、当時の貴重な映像も収録されている。 なお、同姓同名の甥もレーサーとなり、1980年代から1990年代にオール・アメリカン・レーサーズの主力としてIMSAやCARTで活躍した。彼は実子ではないが「ファン・マヌエル・ファンジオ2世(Juan Manuel Fangio II ) 」というレーシングネームを使用した。 業績F1通算24勝は1968年にジム・クラークが更新するまで個人最多勝記録であった。不滅と言われたワールドチャンピオン獲得5回もミハエル・シューマッハに抜かれたが、46歳での最年長チャンピオンという記録は未だ破られていない(最年長優勝はルイジ・ファジオーリの53歳)。第二次世界大戦前のドライバー中心で始まった草創期のF1ではこの年齢は珍しくなかったが、ドライバーの事故死の危険が極めて高かった時代でもあった。 参戦51戦中24勝で勝率47.1%という記録は、極端に参戦数の少ないドライバーを除くと、圧倒的な数字である。数々のF1の記録を更新してきたミハエル・シューマッハをもってしても、最後までチャンピオン争いをした一度目の引退時における勝率が36.7%であり、シューマッハに次ぐ勝利数のプロストとセナはともに25.5%であることから見ても、ファンジオの勝率は、F1草創期であるとは言え群を抜いている。後続のドライバーたちが安定した体制(フェラーリやマクラーレンなど)で数字を伸ばしたのに対し、ファンジオは8年間に4チームを渡り歩いていた。 また、その紳士的な人柄でライバルや後輩から尊敬を集めていた。F1引退レースとなった1958年フランスグランプリでは、優勝したマイク・ホーソーンが敬意を表してファンジオを周回遅れにせず、ゴールまで後方に従ったというエピソードもあった。没後もなおファンジオは根強く支持されている。 特筆されるレース危機回避能力が極めて高いことで知られ、多くのドライバーを巻き添えにした複合事故から一人だけ事態を見抜いてたびたび危機を回避している[6]。
誘拐事件1958年2月、ファンジオはノンタイトル戦のキューバグランプリに出場するためキューバの首都ハバナを訪れたが、フィデル・カストロ指揮下の「7月26日運動」のメンバーにより、宿泊先のホテルでピストルを突きつけられ、車で連れ去られた[9]。組織の目的はキューバグランプリを開催するバティスタ政権の面目を潰すことにあり、ファンジオは隠れ家で手厚くもてなされた末に無事解放された。 隠れ家での滞在中、実行犯たちはファンジオの人柄に魅了され、ファンジオの方もストックホルム症候群のような連帯感を抱くことになった。キューバ革命の成就を経て、ファンジオがこの世を去るまで両者の親交は続いたという。 レース戦績第2次世界大戦後のグランプリ・シーズン
F1
ル・マン24時間レース
セブリング12時間レース
スパ24時間レース
ミッレミリア
カレラ・パナメリカーナ
インディアナポリス500
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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