中宮寺
中宮寺(ちゅうぐうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北にある聖徳宗の寺院。山号は法興山。本尊は如意輪観音。法隆寺に隣接し、聖徳太子が母后のために創建した尼寺である[1][2]。開基(創立者)は聖徳太子または間人皇后とされる。現存で日本最古の刺繍「天寿国繡帳」(天寿国曼荼羅、国宝)を所蔵する[2]。 歴史中宮寺は、現在は法隆寺東院に隣接しているが、創建当初は500メートルほど東の現・中宮寺跡史跡公園にあった。現在地に移転したのは中宮寺が門跡寺院(代々皇族、貴族などが住持となる格式の高い寺のこと)となった16世紀末頃のことと推定される。旧寺地の発掘調査の結果から、法隆寺と同じ頃の7世紀前半の創建と推定されるが、創建の詳しい事情は不明である。天平19年(747年)の『法隆寺縁起』[3]や『上宮聖徳法王帝説』には、「聖徳太子建立七寺」の一つとされるが、確証はない。中宮寺独自の創立縁起は伝わらず、『日本書紀』にも中宮寺創建に関する記載はない。ただ、発掘調査で尼寺である向原寺(桜井尼寺)と同系統の瓦が出ていることから、当初から尼寺であったようである。寺伝では現在の本尊である如意輪観音は当初からの金堂の本尊であるとしている。 平安時代の『聖徳太子伝暦』は、中宮寺は聖徳太子が母・穴穂部間人皇女(間人皇后)の宮殿を寺としたと伝え、後には間人皇后自身が発願者であるという伝承も生まれる。鎌倉時代の顕真が著した『聖徳太子伝私記』の裏書には、「葦垣宮、岡本宮、鵤宮(いかるがのみや)の3つの宮の中にあった宮なので中宮といい、それを寺にした時に中宮寺と号した」との説が記載されている[4]。 中宮寺は平安時代以降衰微していったが、鎌倉時代には中興の祖とされる信如比丘尼によって復興が図られた。信如は文永11年(1274年)、法隆寺の綱封蔵から聖徳太子ゆかりの「天寿国繡帳」を再発見したことで知られる[1]。この頃の宗旨は法相宗であったが、その後は真言宗泉涌寺派となっている。 その後、戦国時代に中宮寺は炎上したため、ついに現在地にあった法隆寺の子院に避難し、そのままそこに寺基を移すこととなった。 江戸時代初期の慶長7年(1602年)、慈覚院宮を初代門跡に迎え、以後は尼門跡斑鳩御所として明治時代を迎え、今日に至っている。 太平洋戦争後、法隆寺を総本山とする聖徳宗に合流した。法要に際して法隆寺の僧に助力を乞うなど、創立から現代に至るまで法隆寺と一体ともいえる寺である[1]。 境内創建当時の中宮寺跡は現境内の東方約500メートル、斑鳩町法隆寺東2丁目にあり、国の史跡に指定されている。この地はかつての地名を大字法隆寺字旧殿(くどの)といい、伽藍跡とおぼしき土壇が残っていた。1963年(昭和38年)より石田茂作らによる発掘調査が行われ、金堂と塔の跡を検出。大阪の四天王寺と同様に、金堂を北、塔を南に並べる伽藍配置であったことが分かっている。ただし、講堂、回廊等の遺構は未検出である。この伽藍の特徴の一つは、金堂と塔の距離が近く、軒を接するように建っていたと推定される点である。塔の心礎は地中に深く埋める形式とする。これは四天王寺、飛鳥寺、法隆寺などの塔心礎と同様で、創建時代が古いことを示唆する。 その後数次の発掘調査により、寺地を区画する築地の跡が検出され、境内地は東西約130メートル、南北約165メートルの規模であったことが判明した。東西の130メートルは高麗尺の1町にほぼ相当する[5]。2018年(平成30年)5月、伽藍跡が整備され中宮寺跡史跡公園として完成した。 現在の境内は夢殿のある法隆寺東院のすぐ東に接する子院地を拝借している。 2021年(令和3年)にかけて、本尊などを「奈良・中宮寺の国宝」展(宮城県美術館および九州国立博物館)で貸し出し、その間にクラウドファンディングを含む寄付で募った資金により本堂を改修。同年4月5日から拝観を再開した[6]。
文化財国宝
重要文化財
国登録有形文化財
奈良県指定有形文化財
その他
このほかに海北友松『人物・花鳥図押絵貼屏風』、英一蝶『拾得図』、横山大観『村童図』といった絵画を所蔵している[1]。 前後の札所所在地
アクセス脚注
参考文献
関連項目外部リンク |