冨田照冨田 照(とみた てらす、1892年(明治25年)3月10日[1] - 1957年(昭和32年)3月13日[2])は、明治末から昭和前期の教育者、政治家。衆議院議員(1期)。富田とも表記されている[3]。 経歴千葉県[2]天羽郡湊町桜井[1](君津郡湊町[4]、天羽町、富津町を経て現富津市桜井)で、富田伊三郎、たく の三男として生まれる[1][4]。湊小学校分教場和合小学校を経て、1907年(明治40年)天羽農学校(現千葉県立天羽高等学校)を卒業し家業に従事した[1]。 1908年(明治41年)9月、君津郡役所の要請で湊小学校の代用教員に就任[1]。準教員を経て1910年(明治43年)教員検定試験に合格し訓導となる[1]。その後、木更津町真舟小学校訓導、君津郡中村小学校訓導を歴任[1]。1914年(大正3年)新宿精華高等女学校(現東海大学付属市原望洋高等学校)教員に転じた[1][2]。 1915年(大正4年)東京駿河台国民英学会で英語を学ぶ[1]。1917年(大正6年)日本大学(日大)に入学し、在学中の1920年(大正9年)に日大教務課長に就任[1]。1921年(大正10年)日大専門部法律科を卒業した[2][4][注釈 1]。その後も日大で勤務し、日大幹事、日大運動場設置委員、日大第四普通部(横浜京浜学園)創立総務、日大評議員、日大予科文科参与、日本大学校校友会常任幹事、日大新聞社常任理事、日大紫友会幹事、日大軍事委員、日大普通部経理監、日大維持委員、日大恩給財団管理者などを歴任した[1][2]。その他、神奈川県図書館協会評議員、同理事も務めた[1][2]。1946年(昭和21年)3月、日大第四中学校・第四商業学校・第四工業学校(現日本大学高等学校・中学校)の校長に就任した[1][2][4]。 政界では、1926年(大正15年)実業同志会に加入し政治運動を開始[1]。1928年(昭和3年)2月、実業同志会の支援を受け第16回衆議院議員総選挙で千葉県第1区から立候補したが落選[1][5]。1930年(昭和5年)2月の第17回選挙では立候補を断念した。1947年(昭和22年)4月、第23回総選挙(千葉県第3区、日本自由党公認)で当選[1][6][7]。日本自由党幹事、同組織部副部長、同政調会事務局長、同政調会文教副委員長などを務め[1][2][4]、衆議院議員に1期在任した[2]。 1955年(昭和30年)8月頃から体調が悪くなり、入退院を繰り返し、1957年1月、阿佐ヶ谷珠光会診療所に入院し、膵臓癌により同年3月に死去した[1]。 国政選挙歴
著作
脚注注釈
出典
参考文献
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