浜田幸一
浜田 幸一(はまだ こういち、1928年〈昭和3年〉9月5日 - 2012年〈平成24年〉8月5日)は、日本の政治家、タレント。株式会社YAMATO名誉顧問[2][3]。 衆議院議員を7期務め、衆議院予算委員長、自由民主党広報委員長、自由民主党副幹事長などを歴任したが、国務大臣の経験がないまま、1993年(平成5年)に政界を引退した。 「ハマコー」の愛称で知られ、「国会(政界)の暴れん坊」の異名をもつ。 政界引退後は「政治活動家」を自称していたほか、『ビートたけしのTVタックル』のレギュラーとなり、「悪党党幹事長」を名乗っていた。 来歴・人物少年期千葉県君津郡青堀町(現・富津市)出身。実家は大地主で、徒歩で15分かかる青堀小学校まで他人の土地を踏まずに通学できたという[4]。 小学校では県知事表彰を受けるほどの優等生であり[4]、1941年(昭和16年)に月謝免除の特待生として旧制千葉県立木更津中学校(現・千葉県立木更津高等学校)に入学。ちょうど太平洋戦争が勃発した時期で、2年に進級したころから学徒動員で板金工として第2海軍航空廠に奉職し、飛行機の翼を作るなどしていた[5]。 中学3年のときに土浦海軍航空隊に赴き、海軍飛行予科練習生の試験を受けるも、年齢的にまだ早いとのことで不合格となった。このことについて、「もし合格していたら戦後まで生きてはいなかっただろう」と回想している[6]。 1945年(昭和20年)には、朝鮮出身の同級生とともに、学校推薦で9月1日付で南満州鉄道に入ることが決まったものの、出発直前に終戦となって立ち消え、動員先の第2海軍航空廠で玉音放送を聴いた。ちょうどこのころ、町助役を務めていた父・甚三郎によって世間体から無理やり軍隊に志願させられていた兄が戦病死し、浜田は肉親を失った悲しみからぐれ始める[4][7]。大政翼賛会役員でもあったことなどが災いして戦犯者に指定され公職追放の憂き目にあった甚三郎は、博打にのめり込み、戦後2、3年で浜田家はすべての土地を手放して没落した[4][8]。母が引くリヤカーの後押しをしながら、幸一少年は「負けてたまるか、負けて。父が失ったものを、自分一代で取り返してみせる」と強く決心したという[9]。 それから日本大学農獣医学部拓植学科(現:生物資源科学部国際共生学科)に入学したが、翌1946年(昭和21年)まで芸者遊びや喧嘩に明け暮れる日々を送った[10]。しかし、本人曰く「合格した確かな記憶がなく、籍があったかどうかも不確かだった。学歴詐称を疑われる恐れもあったので、大学の同窓会の誘いも丁重にお断りしていた」という。ただ、大学生時代に応援団の活動はしていた。東京の高田馬場に下宿していた当時、いつも連れ立っていた同郷の先輩に早稲田大学の学生がいたことから、早大に自然と出入りするようにもなり、早大の応援団に交じって東京六大学の応援活動をしていた[11]。 青年団活動を行っており、竹下登や野中広務と知り合う[12]。君津郡連合青年団長、千葉県連合青年団長、日本青年団協議会顧問を務めた。 政治活動1955年に最高点で富津町議会議員に当選[4]。1960年、第29回衆議院議員総選挙に立候補するも落選[4]。1963年に千葉県議会議員に当選したのち、2度目の挑戦となった1969年第32回衆議院議員総選挙では自由民主党から旧千葉3区に立候補して初当選し[4]、川島派に加わった。以後、通算当選7回(当選同期に小沢一郎・羽田孜・梶山静六・奥田敬和・渡部恒三・綿貫民輔・塩崎潤・森喜朗・村田敬次郎・松永光・江藤隆美など)。 1973年(昭和48年)には中川一郎・渡辺美智雄・石原慎太郎らとともに自民党の派閥横断的な政策集団である青嵐会を結成、事務局長を務めた[13]。このころから武闘派議員としても有名になり、数々の逸話を残す。農林水産政務次官・防衛政務次官・衆議院建設委員長・予算委員長などを歴任したが、予算委員長は「宮本顕治人殺し」発言で辞任を余儀なくされた(後述)。 1990年(平成2年)の総選挙の際、暴漢に襲われて失語症の傾向が出たため、1993年(平成5年)7月に息子である浜田靖一に地盤を譲り、政界を引退した。当選7回を数えたが、国務大臣への就任は1度もなかった。 この間、勲二等の叙勲、国会議員表彰を共に辞退している[14]。 政界引退後議員引退後の1993年(平成5年)12月6日(月曜日)に著書『日本をダメにした九人の政治家』(講談社)を出版し、1995年(平成7年)4月までに発行部数168万部のミリオンセラーとなった。同著では自分自身をその中の1人として自省している。またタレント活動を活発化させ、数多くのバラエティ番組に登場。1994年(平成6年)には連続テレビドラマ『お玉・幸造夫婦です』で、八千草薫と夫婦役を演じた。そのほかにも主に政治を話題としたバラエティ番組に出演し、歯に衣着せぬキャラクターには一定の人気があった。 2007年(平成19年)の第21回参議院議員通常選挙では自由民主党の選挙用テレビコマーシャルに出演。 2010年(平成22年)1月21日、アメーバブログにてオフィシャルブログを開設した。 2010年(平成22年)8月10日、借金の担保として差し出したアドバンスト・メディアの株券800株を勝手に売却し、融資元の会社に2億円の損害を与えたとして、千葉県警察捜査2課などに背任容疑で逮捕され[15]、千葉地方検察庁は8月31日に、千葉地方裁判所へ起訴した。 しかしその後、認知症が進むなど訴訟能力に疑問が生じたため、公判は停止された[16]。2012年(平成24年)8月5日午前6時10分、急性心不全のため富津市大堀の自宅で死去[17][18][19]。83歳没(享年84歳)。背任罪の公判は、被告人たる浜田本人が死亡したことで、8月8日に刑事訴訟法の規定により公訴棄却が決定し終結した[16]。 ちなみに晩年の2010年1月25日から8月7日までTwitterのアカウントを開設し更新していた。 逸話「元ヤクザ」テレビ等のメディアにおいて「千葉でヤクザをしていた」と公言。自身の著書[要出典]において、第二次世界大戦後、法律の枠外に置かれた在日韓国人の不良行為に対して我慢ならず現場を見つけては撃退していたと語っている。 傷害事件を起こすなどし、以後、さまざまな非行を重ねて「木更津のダニ」(「町のダニ」とも)の悪名をとった。TVタックルでは、富津のダニと言っていた。この渾名は当時(1951年(昭和26年))の地元の新聞記事でも用いられている。24歳のころケンカに巻き込まれ、相手を刺してしまい、新聞に『日雇い人夫浜田幸一』の見出しで報じられた。このとき、浜田の母は木更津で最も有名な弁護士を雇い息子を助けた。 自ら「尊敬する人物」と公言してはばからないのが熱海の暴力団、稲川会初代会長の稲川聖城であった。上記の事件で懲役1年の実刑判決を受け、刑務所へ服役、出所してみると所属していたヤクザ組織は稲川組に吸収されていた。1950年代半ば、所属する組の親分が死んだため稲川に相談したところ、別の道を考えたほうがよいと言われ、政治に関心があると答えると、児玉誉士夫に紹介してくれた。後年『新潮45』の企画にてビートたけしと対談した稲川は、「あれでいいところもあるから監督(たけしのこと。「芸人ビートたけし」としては五寸の挨拶は許されないため、「映画監督北野武」として処遇)も面倒みてください」と浜田を気遣っていた。 児玉邸に2、3年住み込み下働きを務め、その後約10年間小佐野の経営する国際興業で不動産取引の勉強をした。児玉とかつて所属していた組に援助され、富津町議会議員から千葉県議会議員になった。公費では運転手は付かないため、そのあいだ浜田は移動用の車と運転手の面倒をみてもらった。この運転手が後のバーニングプロダクション社長・周防郁雄である。1969年(昭和44年)に衆議院議員選挙に挑戦して初当選した。国会議員になってからは児玉と小佐野賢治に加え笹川良一や町井久之が後援者に加わったとされる。後述する「『宮本顕治人殺し』発言」の際に、共産党の正森成二に「あいつはヤクザじゃないか」とカメラの前で罵られているが、これについては「自分は確かに、かつて一時期そういう時代もあった。それを否定しない。その過去を責められたら素直に認める」と述べている[20]。また、「それ(=自分の過去)をもって私の存在自体を否定したり、また再びチャレンジ(=再チャレンジ)できないような社会をつくってはいけない」とも述べている。 政治学者の高畠通敏は、1980年代半ばのフィールドワークにおいて、当初はヤクザ上がりの政治家だと思っていたところ、「地元では、浜幸を"現役"ヤクザの一員として誰も怪しまない」ことに驚いたという[21]。 成田空港問題千葉県議会議員・千葉県選出の国会議員として、成田空港問題とのかかわりが深い政治家であった。 三里塚での空港建設が閣議決定された直後の1966年8月17日に、浜田は自民党県議団の一員として現地を視察したが、その際反対派に取り囲まれ、警察によって進路が確保されるまで一時立ち往生している[22]。 1968年2月26日に、三里塚芝山連合空港反対同盟と新左翼学生らが成田市街地で機動隊と衝突した際、千葉県連青年部長として現地に派遣された浜田は、地元議員の伊能繁次郎・自民党学生部長の佐藤文生らとともに、流血の惨事を目撃した(成田デモ事件)[23]。 新東京国際空港(現・成田国際空港)開港前に、浜田はテレビ討論で三里塚闘争のリーダーである戸村一作に「あなたは農民でもないのに、なぜ反対するのですか」と非常に厳しく糾弾し、戸村を憤慨させた(戸村は成田市三里塚の中でも、空港敷地外である市街地に居住しており、農民相手の農機販売業を営んでいた)[24]。 1978年3月26日の成田空港管制塔占拠事件を受けて、同年4月4日に開催された自民党衆参両議院総会で、青嵐会に属するタカ派議員であった浜田は、福田赳夫に対して「この(福田)内閣には統治の責任が欠けている。現行法で何ができるのか。立党の精神、政策綱領を守り、自由主義国家の責任ある体制強化を図らねばならない。5月20日の(出直し)開港に当たって、『火炎瓶攻撃を仕掛ける者があれば射殺せよと命令する責任がある』と首相は明言すべきだ。射殺することが法に触れるかどうかは裁判をやってみればよい。政権を投げ出してでも、国民の信頼を取り戻す首相であることを願う」と強硬論を主張し、福田が現行法を最大限活用するとともに足りないことは新立法を用いて成田開港と日本全体の治安を確たるものすることを約束したうえで「浜田君から訓示めいた話があったが、私は訓示を聞くまでもなく日本国に責任を負っている」と答えた。これに対し、浜田は「訓示というつもりではない。あなたの将来は短くても、国家の将来は長いのだから」と述べた[25]。 同4月7日の運輸委員会でも、浜田は日本共産党、日本社会党、極左暴力集団・戸村を厳しく批判したうえで、成田空港問題に取り組んできた友納武人前千葉県知事を賞賛するとともに、大塚茂新東京国際空港公団総裁を激励した[26]。 浜田は一方で、反対派と行政側が話し合いをする前段階として「地域振興連絡協議会」が開港後の1990年に設立される際に、広い参加を呼び掛ける反対同盟熱田派と沼田武千葉県知事と間で斡旋を行った[27][28]。 後述する自由民主党本部放火襲撃事件や1984年(昭和59年)11月27日に木更津市にあった浜田の事務所への放火事件も[29]、成田空港問題絡みの中核派による左翼テロとされる。 金丸信川島派解散後は無派閥となったが、田中派の金丸信の所へ押しかけ強引に用心棒となった。金丸の関係者は浜田を侍らすことを心配したが、金丸は「なんとかとハサミだ。あれはあれで使い道がある」と意に介さなかったという。ただし、副幹事長時代、社会労働委員長の田川誠一が約束の日に採決を取らなかった際、幹事長の金丸に真顔で「田川を刺します」と言い、これにはさすがの金丸も止めたらしい。 ハマコーの武功1979年(昭和54年)、自民党が内部分裂状態となった四十日抗争で、党内の反主流派が両院議員総会を阻止するために築いたバリケードを強行突破し、両院議員総会の開催[30]を導いた。 当日、大平正芳と面会した際、大平に「浜田君、(この騒ぎ)何とかならんかね」と言われ、「わかりました」と返答し党本部ロビーへ向うと反主流派がバリケードを築いていた。自分の私的所有物でもない党の備品である椅子や机でバリケードを築いた反主流派に対して怒りを爆発させる。 バリケードを一人で破壊する姿はテレビでよく流される。この時に、「いいか、断っとくけどなー。かわいい子供達の時代のために自民党があるっちゅうことを忘れるな!お前らのためにだけ自民党があるんじゃないぞ!」という演説を張る[31]。実際は、浜田がバリケードを突破するところではなく、主流派が部屋に乗り込んだ際に破られていたバリケードを片付けている最中の姿であった。しかしこの場面はテレビで何百回と繰り返し放送されたため、浜田がバリケードを築き、騒ぎながら椅子や机を投げ飛ばしていると勘違いされている。 浜田は前日にテレビ各局に「明日、やるからな」と電話をかけたうえでのことだったが、「NHKに出ると必ずこのときの映像が流れる」と本人も苦笑していた。浜田本人は“片付け”をしたと何度も著書内などで記述。バリケードを片付けて帰ってきた浜田に、大平は笑顔で「ご苦労さん」と言ってくれたという。 ラスベガス事件1980年(昭和55年)3月6日、ロッキード事件児玉・小佐野ルートの検察側冒頭陳述で「被告の小佐野賢治がロッキード社のクラッターから受け取ったとされる20万ドルは、ラスベガスでK・ハマダが負けた450万ドルの分割払いに充当された」事実が明らかとなった。同日の読売新聞夕刊は、この「ハマダ」とは浜田幸一にほかならないと報道した[1]。これが「1973年(昭和48年)11月にラスベガスのカジノで、当時の為替レートに換算して4億6000万円程度を一晩ですってしまった」事件である。当時浜田は、不動産関係で小佐野の世話になっていた。このことはアメリカ合衆国議会でも証言があり、アメリカ合衆国でも大騒ぎになった。 ロッキード事件渦中の小佐野から大金を用立てされている繋がりや、当時の外国為替管理法に違反し、届け出[注釈 1]なしで外国に日本円を持ち出して、アメリカ合衆国ドルへ両替した事実(発覚時は公訴時効が成立)なども報じられ、また刑法で賭博を禁じている立場の与党国会議員が、脱法的に海外で賭博を行ったことへの道義的非難を受ける。 野党も「浜田問題」を与党追及の柱に掲げたため、浜田はひとまず党の国民運動本部長を辞任。それから4月10日に自民党離党と議員辞職願を提出し、4月11日に辞職が認められた[1]。 同年6月に行われた総選挙では自民党の公認が得られず、出馬を見送った。収入のなくなった浜田は、小佐野の不動産会社で真面目に働き、土地の売買等を通じて数年かけて借金を全額小佐野に返済したと語っている[要出典]。 なぜ4億6000万円という金額になったのか、一体何をしたのかを、テレビ番組で平沢勝栄に問われ、「一度失敗すると500万失くす」ゲーム(バカラ)で損失が膨らんだと答えた。また、当時のことを振り返り、「ラスベガス大学に留学していた」と自嘲し、笑いを誘うことがあった。 現地の日本人向け旅行会社では、ツアーガイドが浜田が大損をしたホテル(サンズホテル)の前で「あれがかのハマコーさんが4億5000万円をすったホテルです」とアナウンスをしていたという[要出典]。 法相殴打事件→「自由民主党本部放火襲撃事件」も参照
1984年(昭和59年)9月19日に、自由民主党本部が成田空港二期工事に反対する新左翼の中核派に放火され、炎上した。浜田はいち早く駆けつけ消火にあたった。そこへ当時の法務大臣であった住栄作が酔っ払った状態で現れ、「マッチポンプみたいな真似しやがって」と発言した。それに怒りを感じた浜田は、住を殴りつけてしまった。のちに住は発言が不適当だったことを認め、浜田に謝罪した[32]。 翌20日に、日本テレビのワイドショーにおいて、浜田は「(自民党本部放火事件の)責任はだれにあるというかというと、泳がしていた我々にあると思いますよ。『中核派』を泳がしていた。やっぱり法律違反で破壊するものを泳がした。そういう一つの政策の誤りがあるんじゃないですか」と「過激派の泳がせ政策」を認めている[33]。 同年11月27日には、中核派によって木更津市の事務所に時限爆弾を仕掛けられるなど、激しい攻撃も受けた。 皇民党事件→詳細は「皇民党事件」を参照
1987年(昭和62年)、四国の右翼団体である日本皇民党が「日本一金儲けが上手い竹下さんを内閣総理大臣にしましょう」などと街頭宣伝を行い、中曽根康弘の後継者と目されていた竹下登のイメージを下げていた。このとき浜田は皇民党に単身乗り込み「8億(円)積むから、(街宣活動から)手を引いてくれ」と申し入れたが、拒絶されている(一部で「浜田は8億円を持参した」と言われているが、浜田は8億円を持参したことは否定している。)。浜田は皇民党総裁の稲本虎翁に面会を求めたが、代理で大島竜珉(現・皇民党総裁)が対応。浜田によれば、「西日本の暴力団から『ハマコーは危ないから気をつけろ』と言われた」という[34]。その帰り際に浜田が「おまえらのやっていることは、"ホメ殺し"じゃないか」と捨て台詞を吐いたことから、このネガティブ・キャンペーンの手法が「ほめ殺し」と呼ばれるようになった[35]。 「宮本顕治人殺し」発言1988年(昭和63年)の通常国会で衆議院予算委員長に就任。2月6日、予算委員会で質疑に立った日本共産党の正森成二議員が、「過激派への政府の対応は、泳がせ政策ではないか」との趣旨の発言をし、竹下登首相が「泳がせ政策などをとったことはない」と答弁した。 これに対し正森が、自由民主党本部放火襲撃事件後にワイドショーで当時同委員会委員長だった浜田が述べた発言(参照:#法相殴打事件)を引用したところ、浜田はその発言を認めたうえで「我が党は旧来より、終戦直後より、殺人者である宮本顕治君を国政の中に参加せしめるような状況をつくり出したときから、日本共産党に対しては最大の懸念を持ち、最大の闘争理念を持ってまいりました」と主張した。正森は激昂したが、浜田が正森の言う「泳がせ政策」発言を肯定したこともあり、正森は浜田とのやり取りを打ち切り、他の質問に移った。 しかし委員会終了間際、円ドル為替問題についての質疑中であった正森に、唐突に浜田が、
と発言(日本共産党スパイ査問事件を指す)。正森が発言の撤回を求めて抗議し、委員会室は一時騒然となった[36]。 浜田本人は、この国会中継の審議の模様はNHK総合テレビで生放送されており、中継放送の終了時間を逆算したうえでの、自分の意見と共産党の意見は違うと印象づけるための確信的発言であると述べている。 このとき、浜田を予算委員長に推薦した金丸信の妻・悦子は「バカ!あんたなんか死んじゃえばいいんだ」と号泣した。浜田は、自分の首と議事録削除阻止を狙っていたが、結局予算委員長を辞任した。NHKはこの模様を時間の関係上途中で打ち切って「大草原の小さな家」を再放送したことに対し、NHKには苦情の電話が殺到した。 後日国会議事堂の廊下で正森とすれ違った際に、浜田は「俺の首を獲りやがって」と発言したが、目は笑っていたという。 メディア出演衆議院議員引退後はタレント活動を活発化させ、数多くのバラエティ番組に出演。日本テレビの連続ドラマ『お玉・幸造夫婦です』では、その素人演技と内容の突飛さ(元相撲取りという設定)が一部視聴者の歓心を買い、今もスカパー!で再放送されるほどのカルト的な人気作品となった。このころには「かわいい」として、女子高生からの人気を集めた[37]。 その他
発言
語録
選挙歴
家族実弟の浜田正雄は京葉銀行の頭取を務めた[4][59]。息子の浜田靖一は後継者として衆議院議員となり、麻生内閣では防衛大臣に就任した。また、第二次岸田改造内閣において防衛大臣に再任された。 著書
論文出演番組ドラマ
バラエティなど
ラジオ
出演CM音楽
脚注注釈出典
関連項目外部リンク
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