大津敏男大津 敏男(おおつ としお、1893年(明治26年)10月26日 - 1958年(昭和33年)12月27日)は、第15代にして最後の樺太庁長官。現在の福岡県柳川市生まれ。 来歴福岡県立中学伝習館、第五高等学校 (旧制)を経て、1918年、東京帝国大学法学部を卒業した。1916年軍務に服し少尉の位で陸軍主計少尉となった[1]。1919年大阪府林務部に入り部長まで務めた。1928年から30年まで内務省に入省、警視庁刑務部長、1931年から35年まで長崎県内務部長、1935年から1936年は神奈川県経済部長、1936年には満州国新京市の民生部総務部長。1938年〜1941年に関東局総長に就任。1941年病を得て東京に戻った。その後1942年に埼玉県知事に任命された。 1943年7月、樺太庁長官に就任。当時の日本は戦時中で、北樺太を統治するソ連は開戦前から警戒対象であった。戦争が避けられないとわかると家族を本土に返し、自身は樺太に留まった[1]。 1945年8月9日のソ連対日参戦後、樺太の戦いが起きると、8月24日に豊原市がソ連軍に占領されるまで、樺太住民の内地への疎開に尽力した。赤軍到着と同時に自宅軟禁となったが、9月23日のソ連の会議の決定で、第二極東方面軍司令官M.A.プルカーエフと民政局長官D.クリューコフが大津に命令を布告し、大津は自己の名前で布告することになった[2]。即ち、日本の行政機関が存続したわけであるが、占領軍と住民の人数の差などが関係している。国民経済のあらゆる面で条例が制定された。1945年12月30日、大津は南サハリン内務人民委員部全権の決定で逮捕され、ハバロフスクに送られた。 ハバロフスク裁判を経て、抑留された。抑留地は主にハバロフスクだった。全国樺太連盟が入手したソ連の捜査記録によると、「降伏後に6万3000人を日本本土へ避難させた」「公文書を焼却した」「樺太の情報を日本政府に電報で伝えた」といった日本の行政官として遂行した職務の内容が、ソ連の反革命罪の一つである「ブルジョワ活動幇助」とみなされて訴追された。そして部下8人もシベリアに抑留され、うち1人が死亡した[3]。 1950年に帰国。日本では大工業企業の幹部となったが、元樺太住民で組織する全国樺太連盟の会長も務めた。1956年の日ソ共同宣言に関して、国会で全国樺太連盟を代表して意見を述べている。1958年12月27日、心不全のため死去。享年65。 ソ連民政局の司令書[4]南サハリン民政局長D.クリューコフは1945年9月26日、大津敏男に対し5日間の期限をつけ指示した。
その他[5]
栄典
脚注
文献
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