富沢美智恵
富沢 美智恵(とみざわ みちえ、1961年10月20日[6][13][14][15] - )は、日本の声優、女優、歌手、ナレーター[9]。 長野県上田市生まれ[5][6]、群馬県高崎市育ち[5][7]。青二プロダクション所属[10]。 旧芸名は富沢 美智江(とみざわ みちえ)[4][6][13][15]。 経歴生い立ち長野県丸子町(現:上田市)で誕生し、小学4年生の時に父の仕事の関係で群馬県新町(現:高崎市)へ転居する[2][6]。幼い頃は山猿のような子供で、山に登ったり、木に登ったり、柿の実を取って食べたりと、いつも暗くなるまで外で遊んでいた[2]。男の子とドッジボールをして遊んだり、鉄棒をするのも好きであったという[2]。その頃はショートカットで、あまりお人形遊びはしないなど、全然女の子らしくなかった[2]。幼少期を長野県で過ごしていた時は、四方八方全部山だったこともあり、四季折々の風景を見たり、野菜や果物を食べて育ったことから、とても幸せだったと語る[2]。 一方、人前で話したり歌ったりするのも好きだったといい[12]、小さい頃からピアノを習ったりしていた[4]。また小さい頃は子供が好きで、保母になりたかったという[2]。この頃にディズニーアニメや『科学忍者隊ガッチャマン』『宇宙戦艦ヤマト』といったテレビアニメに傾倒し、キャラクターになったり登場する乗り物に乗るのはどうすべきか考えた結果、声を吹き込むことでキャラクターに命を与える声優を意識し始める[2][16]。だが当時は声優が一般にクローズアップされておらず、東京に集中する有名劇団に入団するわけにもいかなかった[16]。親も強く反対し、高校を出るまではやるべきことをきちんとしてから東京に行くと決心した[17]。 小学生時代から文武両道で、学生時代はクラス委員をしており、弁論大会に出場した経験も持つ[4]。小学校時代に友人とグループを組んでバンド活動などをしていた[12]。中学1年生で当時流行していたフィンガー5のものまねコンテストに優勝して群馬テレビに出演していたこともある[4][12]。スポーツ好きであり、小学校時代はスイミングクラブにスカウトされ、水泳で県大会の個人4位を獲得[4]。高崎市立新町中学校時代はバレーボール部に所属して、バレーボールのライトアタッカーとして活躍[4][6]。 中学2年生くらいから、「アニメの声優になりたいな」と思い始め、日増しに本気になっていったという[15]。そうすると「上京しなきゃいけない」「親を説得しないとダメだ」と思い、そのために群馬県立高崎商業高等学校時代にはバスケットボール部に所属、NHKの通信教育で声優の勉強をする[4][5][17]。その時に「いい成績でそれを卒業すれば、親もわかってくれるんじゃないか」と思い、一生懸命に勉強していた[4]。父は賛成したものの母が猛反対したため、母を2年かけて説得していた[4]。進路を決める時期になるとバスケ部の主力であった自分に大学推薦や大手企業の推薦、実業団からの勧誘があった[18]。特に実業団からの強い誘いがあり、実業団監督らと話し合い、親と校長は入部派で心が揺らいだが、監督から「声が特に大きく明るいあなたのようなムード―メーカーがマネージャーとしてほしい」と言われ、選手として誘われているわけではなかったと知り断った[18]。 キャリア高校卒業後は両親を説得し、「25歳までに芽が出なかったら帰ってくる」と約束して上京[19]、四畳一間の古いアパートに住み込みアルバイトをしながら、俳協付属俳優養成所を受験して[6]、東京俳優生活協同組合(俳協)のオーディションに合格。既にこの時のために、ひそかに勝田久の通信教育「声優講座」で基礎を学び、受験準備は出来ていたという[6]。養成所時代、勝田の担当していた演技話法の成績はトップクラスで、勝田からはいつも「富沢は必ず売れるよ、頑張れよな!」と励まされていたという[6]。養成所入所から半年でNHK教育テレビ『うちのひと がっこうのひと』のオーディションに合格し、声優になることに反対していた両親は短期間で結果を出した娘を手のひらを反して大喜びした[2][4][19]。俳協に入って始めの頃はNHKで1983年から1984年に放送された朝の連続テレビ小説『おしん』に10回ほど出演[5]するなど顔出しの仕事が多く、声優を目指していたのにそういったことをやっているのが不安であったという。また当時は太っていたため、実写での出演に抵抗があり、演技も自分がしたいものにまでたどり着けずに叩かれ、デビュー早々やめようかと苦悩していた。声優の道に軌道修正を図るが[20]、その頃は真田広之のファンで、志穂美悦子のアクションに惹かれ、スポーツで鍛えた体でアクション女優を目指し、当時ブームだったジャパンアクションクラブ(現:ジャパンアクションエンタープライズ、以後JAC)の養成所1期生として入所[2][4][21][22]。JACでは志穂美悦子に次ぐ年長(22歳)で、既に女優としてキャリアをスタートさせており、更に芝居やダンスといった基礎や体も鍛えていたことで千葉真一の目に留まり、特待生になった[22]。 声優の仕事は、1983年から『亜空大作戦スラングル』『愛の戦士レインボーマン』のゲスト出演を経て、『聖戦士ダンバイン』で準レギュラーのエル・フィノ役を獲得[12]。その後、アニメの仕事が遠のき[5]、1984年に『超電子バイオマン』のオーディション直前にアニメ『超時空騎団サザンクロス』の主人公のジャンヌ役に合格、JACからは「ここで女優と両立してほしい」と言われたが、声優業に重きを置いた活動を行うようになり、約1年間在籍したJACを退所[4][21][23]。 JACの他にもアクションクラブ若駒にて、アクションや殺陣を学んでいたという[5]。 1985年に高橋美紀とのツインボーカルバンド「雨に神様」で『第29回 ヤマハポピュラーソングコンテスト』本戦に出場、4部門受賞した[24]。歌手デビューのオファーもあり、仮レコーディングも終えてロッテリアのCMソングも決まっていたが高橋とは音楽の方向性や事務所が異なることでデビューは断念した[25]。同年新宿ルイードにて富沢美智恵ソロライブを開催。 1987年、芸名を『富沢美智恵』に改名し、青二プロダクションに移籍[26]。「美智江」から「美智恵」に改名した理由は友人によく当たる姓名判断をする人物がおり、その人物に見て貰ったからだという[26]。1987年時点で「仕事を始めて7年、今までの自分から脱皮して、もっと自分のキャラクターを前面に押し出したいな」と思っており、その時に「「江」の字は堅実で常識的な性格を表すのに対して、「恵」に変えると、何を考えてるのか分からないような、不思議さが引き出される」と言われて、「事務所も変わるし、ちょうどいい機会だ」と思ったという[26]。 2001年に結婚したが、この直後は仕事の量を抑えるために『サクラ大戦シリーズ』の神崎すみれ役を一時降板[27]。その際『サクラ大戦新春歌謡ショウ 神崎すみれ引退記念公演 春恋紫花夢惜別』での神崎すみれ役降板の発表が「声優引退」と誤報されたこともあった[28]。実際に引退ではなく[28]、神崎すみれ役も2005年夏のスーパー歌謡ショウ『新・青い鳥』で完全復帰[29][30]。以降、ファイナル公演『新・愛ゆえに』[31]や武道館ライブ等、その後の『サクラ大戦』のショウやライブ、ゲーム作品等に出演している[32][33][34][35]。 仕事では歌が特に好きだといい、ライブでの共演者や観客との一体感などに浸れるのが至福の時だという。一方でラジオ番組が1番の不得意だといい、その理由として、人に対して目を見て話すのはいいがマイクに向ってリスナーに話すのが苦手で自分が楽しめないとしている[36]。 人物・特色
美少女戦士セーラームーン
出演太字はメインキャラクター。 テレビアニメ
劇場アニメ
OVA
Webアニメ
ゲーム
吹き替え洋画
海外ドラマ海外アニメ
ラジオ
テレビドラマ
映画
オリジナルビデオ
CMCD
ナレーション
音声解説(アイパートナー)テレビドラマ
その他コンテンツ
ディスコグラフィアルバムオリジナル・アルバム
ミニ・アルバム
ライブ・アルバム
歌手参加楽曲
キャラクターソング
脚注注釈
シリーズ一覧ユニットメンバー
出典
外部リンク |