野島裕史
野島 裕史(のじま ひろふみ、1973年4月16日[14] - )は、日本の男性声優、ナレーター[7]。東京都杉並区、田無市(現:西東京市)出身[4][5]。青二プロダクション所属[8]。 父の野島昭生、弟の野島健児は共に声優[2][4]。三人兄弟の末弟は作家の野島智司[2][9]。甥(健児の長男)は俳優の野島透也[10]。母はナチュラリスト[15]。 略歴小学生時代は田無市(現:西東京市)に住んでいた[5]。幼い頃は、今とは逆で虚弱な体であったという[注 1][16]。 自分なりに深く考えて、悩んだ挙句、学校中退を選ぶ[17]。その頃から「好奇心が異常に旺盛だった」という[18]。学校を中退する決断は色々な意味で「たいへんな道」であったといい、両親にはめちゃくちゃ怒られていた[17]。野島家は兄弟3人[16]共に、育った環境のせいなのか、元々DNDに備わった部分なのかはわからないが、少しアグレッシブな人生を歩いてきたという[17]。母は学校に行かない裕史ら兄弟を積極的に色々な場所に連れて行ったといい、美術館にもずいぶん連れて行ってもらっていた[17]。また、子供の頃からファンタジーの世界観は好きであったという[19]。 14歳の時に家族全員で引っ越した[14]大分県竹田市荻町[20]の自然の中の生活で田植えをしたりして、体が良くなったという。『ぼいすた!』出演時には、特技に「田植え」と書いて経緯を話していた。 学生時代は作曲家・編曲家になるのを夢見ていた時期もあった[21]。ピアノを5歳頃から始めており、中学生になる頃に辞めたという[22]。1980年代の半ば頃には、シンセサイザーをしていた[23]。その後中学生時代に友人とバンドを組み、キーボードを担当して、音楽の楽しさに改めて目覚めたという[22]。農作業を終えて家に戻ってからはピアノの演奏をしていたが、根っから機械好きだったこともあり、機械を使用して音作りのほうが好きだった[14]。農作業をしながら米屋のアルバイトをして機材を集めていたという[14]。高校生の頃には、映画やアニメのサウンドトラックに熱中し、CDをコレクションするようになった[22]。久石譲、坂本龍一、菅野よう子の曲が好きで、よく聞いていた[22]。海外のハリウッド映画のサウンドトラックにも好きなものがたくさんあるという[22]。健児に裕史が持ってきたZABADAKを聴かせたりもしていた[23]。 その後、19歳まで家族総出で農業をしていた[14]。父・昭生にも「声優になれ」と言われたことはなく、当初は裕史自身もそれほど声優には興味がなかったという[14]。音楽が好きだが、機械で音を操ることが好きだったことから、20歳の時に2年間、大分県の放送制作会社に就職した[14][12][18][24][25]。職種はミキサーで[14]、音効、映像編集、CG制作もしていた[24]。一度、CMの企画書から絵コンテ、CG制作、コメント書き、ナレーション、映像編集まで納品したこともあった[26]。その会社でCM曲を作曲し、放送で流れたことがあったという[22]。 元々パソコンや機械いじりが好きであったため仕事自体は楽しかったが、ハードスケジュールであった[24]。直属の上司は職人気質で、新人でも技術的な事は殆ど教えてくれず、仕事はひたすら見て覚えていたという[24]。締め切り間際の仕事に追われて3日間完全徹夜でフラフラな状態でも、ミスをすれば胸倉を掴まれ、厳しく咎められる事もあったという[24]。 その制作会社は人手不足で、ナレーターなどの声の仕事をする人が少なくCM制作をする時に若い人の声が必要となり、上司から「お前は親が声優だし、東京出身だからやってみろ」と言われた[14]。そうして行ったナレーターの仕事が上手くできたことから、自社制作では声を担当する機会が増え、オンエアを聴いていた他の制作会社から「あのナレーターを使いたい」とオファーが来るようになった[14]。ナレーションを付けたりしていくうちに「声の仕事もクリエイトなんだ」と感じ、熱中し始めたという[18]。その頃既に弟の健児が声優としてデビューしていたことから、「今の仕事は楽しいけど、弟ができて僕ができるわけがない」、「ダメもとでやってみよう」と声優を目指して22歳の頃、会社を退職して上京[12][14][18][25]。その頃に学んだ事は、仕事のみならず沢山あり、2007年時点の裕史の大きな糧になっていると語る[24]。 理解ある会社で「東京で声優をしたい」と告げると「東京に行ってうまくいかなかったら、戻って来いよ」と温かく送り出してくれたといい、2016年に受けたインタビューでは感謝の気持ちを示している[14]。 当時は役者、音楽といった世界で2世が活躍することは珍しくなかったが、声優はあまり聞いたことがなく、父・昭生のコネクションはあるが、コネで生きる世界ではなかったという[14]。のちに所属することになるシグマ・セブンのオーディションを初めて受けていた時、当時の社長から「そもそも2世声優は好きじゃないんだよね」とキツい一言を言われたという[14]。ただし、養成所には入れるということで入所した[14]。 1998年に青年座研究所を卒業後、Doaフレッシュに所属[27]。この間にNHKの教育番組のナレーションの仕事を貰い、レギュラーだったこともあって繰り上げの形で[14]、1999年にシグマ・セブンに所属[28]。「養成期間中に仕事を得るとは、DNAが受け継がれているんですね。」という質問に対して、「少し遠回りはしたものの、制作会社での経験や演技の勉強が声優としての屋台骨を支えている」と語っている[14]。2000年に『ブギーポップは笑わない』の菅沼洋次役でアニメデビュー[13]。2002年、『OVERMANキングゲイナー』ゲイナー・サンガ役で初主役を務めた[13]。 2018年5月1日付けでシグマ・セブンを離れ、青二プロダクションの所属になったことを自身のTwitterにて報告した[29]。 人物特色・役柄音域はlowE - hiC[8]。心地良い声質に定評があり、数多くの役どころをこなすほか、ナレーションでも心に染み渡る清涼感あふれる声質で魅了されている[14]。師匠、先生的な立ち位置のキャラクターも数多く演じている[19]。 ナレーターとしては、多くのテレビに出演している[30]。その他、アニメの声優、外画の吹き替えとしても活躍している[30]。 役を演じている時には「(野島さんが)声を当てているとは思いませんでした」と言われるのは少し嬉しいが、「あー野島さんがやっているんだ」と言われるより、「このキャラクターが喋っているように聴いてくれたら嬉しい」という[14]。「表に野島を出さずに、キャラクターと一体になっている」という評価を受けた時に「声優をやっていて良かったな」と感じている[14]。一方、「役者はいろいろな役に扮して演技をしますが、声だけだと役者よりも制約されると思います。」という質問に対しても、声もそれなりに変えることはできるが、基本的には声優自体の個性に近いキャラクターを演じることになるものの、中学生から大人、宇宙人の声まで演じるため、「そういう意味では役者より幅が広い」とも言えるという[14]。 喉が強く、自転車に乗り始めてからは、風邪をひかなくなったという[31]。自転車に乗ることが、仕事に入る前のよいウォーミングアップになっているといい、冬の寒い時期でも、自転車に乗れば身体が温まった[32]。その時に肺活量も増え、以前よりも健康的になったと感じていたという[32]。また「声優として喉を気遣うこともありますか。例えばボトルの飲み物を何か特別なものにしているとか…」という質問に対しては「何もやっていません」と回答している[31]。 趣味・嗜好資格・免許は普通自動車免許[8]。趣味は自転車、ゴルフ、カメラ[8]。特技はデザイン[8]、造形[33]。断捨離の必要に迫られているほど趣味が豊富で[18]、物作り系の趣味が多い[19]。 2007年時点では楽器に熱中しており、前述の通り作曲家・編曲家になるのを夢見るなど、元々楽器が好きだったため、幅広くチャレンジをしていた[21]。声優を始めてから一時期は遠のいていたが、トークライブにゲスト出演する際に楽器を持ってくるように言われ、何か購入しようと銀座にある楽器店に立ち寄った[21]。そこで徐々に昔の想いが蘇り始め、色々な楽器を見て触れて回ったという[21]。2007年時点で所有している楽器は、電子ピアノ、シンセサイザー2台、アコーディオン、アコースティックギター、エレキウクレレ、ピアニカ、リコーダー[21]。 父・昭生とバンドのスラップスティックを組んでいた古谷徹とは、裕史が生まれた頃から知っている仲であり、裕史自身は古谷の大ファンである[2]。お互いの家にも遊びに行くことがあり、裕史が古谷の家に遊びに行った際は、古谷からお下がりのパソコンをプレゼントされたこともあったという[2]。パソコンにのめり込み、雑誌にプログラミングを投稿して賞をもらったり、音響制作会社に勤めていた頃にもPCスキルが役に立ち、2023年時点では「あのときにもらったPCが自分の人生に大きな影響を与えてくれた」と述べていた[2]。 伊藤健太郎とは、生まれ年は1年違いだが同学年で、昔から趣味も合うという[34]。2016年時点では伊藤と1、2を争うほど自転車に夢中だという[34]。 自転車との関わりアウトドア派で、2007年頃から自転車の趣味に目覚めたという[31]。自転車に関しては、声優業界の先駆者で[35]、「声優界の自転車伝道師」の異名を持つ[14][32][36]。皆に「自転車屋もやったら」と言われているという[37]。自転車競技を題材とした『弱虫ペダル』では石垣光太郎役を演じている[38]。自転車に乗り始めたきっかけは、声優の間で自転車が話題になっていたこと、身体を動かしたかったことであり、自転車に乗るまではジムで走ったり筋トレをしたりしていた[32][37]。山奥育ちであることから、元々身体を動かすことが好きであったが、声優の仕事は頭は使うもののあまり身体を動かせず、1日が終わると身体がムズムズしてしまった[14]。このサイクルにぴったり熱中するのが、自転車であったという[14]。その時の主な移動手段は電車と徒歩で、スケジュールが詰まっていた時は、タクシーを利用することも多かった[32]。しかし忙しくなるとジムにも行けなくなり、「都内を自転車で移動したらどうか」と思った[37]。その時に総合ディスカウントストアで売っていたトーキョーバイクを買って乗っていたところ、10km圏内ならどこでも行けるようになり、その後は毎日自転車に乗るようになったという[37][36]。 本格的なクロスバイクに乗り始めたのは、2019年から13年くらい前のことである[37]。ある日、街を走っていた時、格好良いクロスバイクが目に飛び込んだが、5万円くらいするため「高い」と思っていた[37]。しかし「自転車は楽しいし…」と思い、クロスバイクに乗り始めたという[37]。都内23区内のスタジオなら自転車移動が向いており、乗っていくうちに体力もついたという[37]。チネリのロードバイク「スーパーコルサ」をメインの愛車とし、仕事の移動以外に趣味やスポーツとしても愛用[32]。ロードバイクに乗り始めたきっかけは加戸誉夫に勧められたのがきっかけである[32][37]。ある時、加戸に「ロードバイクの方が良いよ。うちに余っているパーツで1台できるから」と言われ、出来上がったクロモリのロードバイクに乗っていたところ、今まで以上に楽に進むため、感銘を受ける[37]。以降、この素晴らしさを知ってから、自転車に乗り続けているという[37]。初めてロードバイクを買ったのは2009年頃である[37]。ショップでフレームが吊るされているのを見て「こんなスタイリッシュで格好良いロードバイクがあったんだ」と思い、納車まで待たされる間にピストバイクも買ったりしていたという[37]。その後、しばらくは買っていたロードバイクに乗り続けていたという[37]。そのバイクで旅先まで自走したり、ヒルクライムレースに挑戦する等している[32][37]。ロードに乗り始めてから1年くらい経った時、アニメの打ち上げで軽井沢旅行があり、どこまでいけるか試したくなり、「現地まで自転車で行く!」と宣言していた[36]。裕史だけ都内から軽井沢までロードバイクで自走したが、距離にして170kmほどであった[32]。 その時の行きは登りで、最後の30kmの碓氷峠がかなりキツく、8時間位かかったものの、走っていることが楽しく達成感が大きかった[32][36]。その達成感を味わって以来、自転車の魅力に熱中しぱなしで、自分でもピストやロードバイクを組み立てられるほど、自転車の関する知識も増えた[36]。自転車は2019年時点では自宅の屋根裏の倉庫に保管している[37]。 2019年時点では、人物にあげたりバラしたりしているものもあるが、自転車を始めて3年くらいの時点では、4台くらい集まっていたという[37]。2019年時点で主に乗っているのは2台で、1台はカスタムで作り上げた裕史曰く「究極の街乗りロード」と語る[37]。国内のチタン専門加工会社にフレームのオーダーをかけて、パーツなどにも徹底的にこだわり海外のサイトからネジを個人輸入したりして1年かけて、本体6.8kgのチタンロードを組み立てたという[37]。もう1台は、2018年から使っているレース、ロングライドに乗るためのカーボンバイクと語っている[37]。自分仕様にカスタマイズでき、組み合わせ次第で世界のどこにもない自転車ができ、好きなパーツだけを集めていた自転車ができると愛着が強くなるという[37]。 ロードバイクチーム「VOICYCLE」を主催している[39][40]。それまでは個々人が楽しんでいるだけであったが、声優にも自転車に乗る人物が増えてきて「一緒にレースに出たいね」という話になり、「せっかくだからチームにしちゃおうよ」となったという[37]。 自転車に乗っている時は、長距離の時は無心で、通勤の時は仕事のことを考えているという[41]。ギヤチェンジの音、走行時に聞こえるタイヤからの音などの自転車の音を聞いており、ギヤチェンジの音、ホイールのラチェット音は好きだという[41]。 自転車で転び仕事に穴を開けるわけにはいかないことから、安全には気を遣っているという[32]。出かける前に特に気にするのは天気であるといい、雨の日は乗らないことにしているため、毎朝テレビの天気予報とネット上の天気予報、大雨の接近を知らせる防災情報などを活用している[32]。出先で雨に降った時は、駐輪してタクシーで移動することもあるという[32]。 自転車に乗ることができない状況になった時、出先で急に、「みんなで飲みに行こう!」となることもあるため、輪行袋を持っている[32]。電車でもタクシーでも乗ることができることから、200gくらいの軽い輪行袋を使っているという[32]。 その他のよく持ち歩いているのは、身だしなみ関係で着替え、タオル、デオドラントスプレーは持ち歩いている[32]。コマーシャルの仕事などで、クライアントがいる時は早めに現場につき、着替えて身だしなみを整えてから仕事に入るようにしている[32]。夏は熱中症予防に保冷剤を持って行き、出先で首筋の動脈のあたりに当てたりすることもあるという[32]。 山道は自然の音が気持ち良く、そういった場所の空気感も好きだという[32]。体型的には小柄で軽量のため、ヒルクライムには向いていると語る[32]。2012年時点では自転車に熱中することで、メディアの中で自転車について話すことも多くなっていたが[32]、『弱虫ペダル』に出演して以来、裕史が自転車好きなことがより多くの人物に広まったと感じていた[36]。自転車のイベント、ヒルクライムレースに招待してくれたり、自転車関連のメディアからも取材のオファーをくれるようになった[36]。その時に「まさか自転車が仕事につながる」とは思っていなかったため、自分の思い描いていたビジョンというよりも現実の方が先に追い越してしまい驚いている状態であったという[36]。 これらの縁もあり、2017年からJ SPORTS cycle road raceの一部のレースで実況を担当している。夢は「いつか自分で溶接したロードバイクを作ること」と語っている[37]。あくまで趣味だが、趣味に熱中過ぎるタイプであり、レンチを回しているだけでも楽しいという[37]。「自転車整備士の資格が欲しい」と思い、専門学校から資料を取り寄せて内容を見ていたが、その時は時間的に声優との両立が難しそうだったため断念した[37]。しかし「夜間なら行ける」と考え、2019年時点ではフレームを繋ぐラグを買ったり、パイプにも興味を持つなど未だに興味は尽きない様子を見せている[37]。 デスクワークなど、集中力を高めながら頭を働かせる仕事をしていると、疲労はするが身体は動かしておらず、夜眠れなくなるという[42]。頭が疲れ、身体が疲れていないアンバランスな状態で、自転車で1日2〜30kmを走ったところ、夜はスッと眠れ、翌朝は頭も身体もシャキッとしているという[42]。その時に自転車通勤を始めれば、良い感じに身体が疲れてくれるはずだと語っている[42]。 街を走り、「野島さんですよね」と声をかけられることはたまにあった[43]。「この自転車、すごい格好良いですよね」と呼び止められた時が特に嬉しく、ピストバイクに乗っていた時、外国人に「これ、どこに行ったら売っているんですか」と声をかけられ、自分で組み立てたことを伝えていた[43]。ほかにもコンビニに駐輪し、戻ってきたところ写真を撮っている人物もいたという[43]。 車の運転が荒い人物がおり、ヒヤっとすることは1年に数回あった[44]。10年以上乗っているが、転んで右の二の腕を擦ったくらいで、大きい事故はなかった[44]。その時は、家まで残り1kmくらい手前で前輪がパンクし、ゆっくり行けば大丈夫そうだったため、乗って帰ることにした[44]。しかしゲリラ豪雨にあい、下り坂でスピードが出てしまい、マンホールに乗っかり、一気にズルっと滑ってしまったという[44]。 自転車仲間も徐々に増え、同じ事務所に所属していた自転車好きの吉野裕行らとロングライドに出かけるなど、より自転車ライフを楽しむようになった[36]。そんな姿を見て、周囲の声優仲間から自転車について質問を受けることが多くなっていった[36]。スタジオ用に、「ちょっと速い自転車に乗りたいな」と思っている人物が相談に来るようになり、7〜8人はロードかクロスバイクを購入したようであった[36]。自転車移動はトレーニングにもなるため、その後は皆乗り続けているという[36]。冬の朝早くから仕事の場合、体をあたためてからではないと、なかなか声が出なかったりするが、自転車で行けばウォーミングアップができ肺活量も上がり声優向きの乗り物だと語る[36]。 阿部敦は裕史から自転車の話を聞き、店を紹介されて自転車を買ったという[35]。 竹本英史とは自転車の趣味が似ていることから仲が良い[45]。 2010年、レギュラーが竹本と一緒で話をする機会も多った時期に、裕史が「竹本さんも自転車どうですか?」と勧めたのがきっかけで竹本は自転車を始めたという[45]。 裕史が小野坂昌也と共に、お目当てのフレームを買おうかどうしようか相談していた現場に竹本もおり、その時に小野坂が「これはいいフレームだから、俺と色違いを買うといいよ!」と勧め、竹本は翌日に買ったという[45]。竹本のロードバイクはイタリアのメーカーのデローザであり、シーズンオフだったことからバーゲン価格で買い得だったこともあり、小野坂と裕史が勧めるのであったことから、「間違いないだろう」と思ったと語る[45]。 竹本はそれまで裕史に「ロードバイクは怖いからミニベロにしようか、クロスバイクにしようか」と相談していた[45]。その時に裕史から「自転車の醍醐味は、やっぱり最後はロードバイクに行き着く」と言われ、竹本は思い切って買ってしまったという[45]。その後、竹本は裕史がお薦めしていたパーツを集め、3ヶ月後、2010年の12月には組み上がったと語っている[45]。 家族との関係幼少期、弟の健児と一緒に北海道をヒッチハイクなどで旅行していた[46]。兄弟3人でコンピュータ雑誌『MSX・FAN』にペンネームF.I.Sで常連として投稿していたことがある[46]。 一方、昔は健児とは喧嘩ばかりだったが、前述の通り、裕史が大分県の放送制作会社に就職したことで健児は一気に裕史のことを尊敬するようになったという[15]。その頃、父・昭生が九州のローカル局でアナウンサーの講師をしており、前述の通り裕史が番組を制作しながら地方局のCMナレーションを読んだりしており、健児はテレビをつけていたところ父か裕史の声ばかり聞こえており、裕史を尊敬する反面「すごく悔しいな、負けてるな」と思っていたという[15][47]。当時、健児は電車で1時間ぐらい離れたところに住んでいたが、裕史の家に遊びに来て「どういう仕事してるの?」、「会社ってどうなの?」、「番組ってどうやって作るの?」といったことを聞いていたという[15]。健児が「働いている!一人暮らししてる!社会人すげえ!」と思っていた瞬間から、喧嘩することは無くなったという[15]。 幼少期の智司とは健児とともに当初は仲良く遊んでいたが、その後は裕史たちが帰ってくると智司は大喜びで飛び込んでいき、ひとかたまりになり喧嘩していたという[16]。 父・昭生は何か思うところがあり、次弟・健児と末弟・智司は上京したが、裕史は前述のとおり、放送制作会社の仕事があるため、九州に残っていた[26]。 健児とは『エンジェル・ハート』で双児の兄弟役、『灼眼のシャナ』ではクラスメイト役などで共演している。主役を演じた『スケアクロウマン』では、第4話で父の昭生がゲストキャラクターの「シュタイン」、弟の健児が「シュタイン」の青年時の声を担当したことから、親子三人の共演が実現した。『スケートリーディング☆スターズ』では健児と双子の兄弟役で共演し、更にその父親役である昭生も含めて親子三人での共演を果たしている。 出演太字はメインキャラクター。 テレビアニメ
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