川村丈夫
川村 丈夫(かわむら たけお、1972年4月30日 - )は、神奈川県大和市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)、野球指導者。 現役時代は横浜ベイスターズ(現:横浜DeNAベイスターズ)にて先発・中継ぎ投手として活躍し、1998年シーズンには先発投手として同球団の38年ぶりセントラル・リーグ(セ・リーグ)優勝と日本一に貢献した。2022年シーズンからはDeNA在籍のまま神奈川フューチャードリームスの監督を務める。アトランタオリンピック野球競技の銀メダリスト。 経歴プロ入り前1990年、神奈川県立厚木高等学校3年生の時に、神奈川県高等学校野球春季大会でベスト4進出。全国高等学校野球選手権神奈川大会には第1シードで臨み、強豪私立ぞろいの厳しい状況下でエースとしてチームをベスト8まで導く大黒柱となった。準々決勝では川崎北高の河原純一と延長16回の投手戦を演じるが敗退。立教大学へ一般入試で現役合格[1]。大学時代は腰痛に悩まされたが[2]、東京六大学リーグ通算63試合登板、21勝27敗、防御率2.65、317奪三振。1993年アジア選手権・日米大学野球の両野球日本代表に選出。大学卒業後は日本石油(現:ENEOS)に入社し、日本石油硬式野球部時代の1995年には第66回都市対抗野球大会で優勝。 1996年にはアトランタオリンピック野球日本代表に選出され、日本代表の銀メダル獲得に貢献した[3]。準決勝のアメリカ戦では先発の杉浦正則をリリーフし3回1/3イニングを無失点に抑えた。また、第67回都市対抗野球大会でも2勝を挙げて日本石油硬式野球部のベスト4入りを果たし、同年の社会人ベストナインに選出された[3]。プロ野球ドラフト会議を前に、地元球団の横浜ベイスターズ[2]が早くから1位指名に名乗りを上げた一方、中日ドラゴンズ・日本ハムファイターズ[注 1]も金銭的な条件を提示[2]。横浜・日本ハムは1位指名選手として、井口忠仁(青山学院大学硬式野球部)の1位指名を狙っていた中日も2位指名を狙っていたが、本人は在京球団を希望しており、横浜を逆指名[2]。同球団から1位指名を受け、入団[3]。同年11月26日には同じく横浜を逆指名し、ドラフト2位指名を受けた森中聖雄(東海大学硬式野球部)とともに契約金1億円+出来高払い5000万円・年俸1300万円(金額は推定)で契約を結んだ[4]。 プロ入り後1997年は球速140 km/hの直球と高い制球力から即戦力として期待され[3]、先発投手が著しく不足する中、シーズン開幕当初から先発ローテーションの一角を担い10勝7敗・147奪三振。防御率3.32の好成績を挙げる。しかし、新人王は12勝を挙げた広島東洋カープの澤崎俊和に軍配が上がった。同年のシーズンオフには年俸3,300万円[5](前年比2000万円増額)となった。 1998年は開幕投手に抜擢される。監督就任1年目の権藤博はインタビューで川村について「高校は進学校、大学も一般入試で現役合格し、自分の力で掴み取っている、あいつのインテリジェンスに賭けたから」と語っている。結果、史上3人目の1安打完封勝利を挙げる。前半戦では7月18日の広島戦までに8勝を挙げ[6]、オールスターゲームにも選出されたが、後半戦は0勝に終わった。しかし、日本シリーズでは最終戦(第6戦)で先発し、日本一に貢献[6]。同年のシーズンオフには年俸5,000万円で契約更改した[6]。 1999年は新たに習得したチェンジアップを駆使し、自己最多の17勝を挙げた[注 2]。勝利数は上原浩治(巨人)の20勝、野口茂樹(中日)の19勝[8]に次ぐリーグ3位で[9]、防御率3.00も規定投球回到達者では上原(2.09)・野口(2.65)・山本昌(中日 / 2.96)に次ぐリーグ4位だった[8]。6月には5戦全勝し、月間MVPを獲得、2年連続オールスターゲームにも選出された。同年のシーズンオフには年俸が1億円(前年比5000万円増額)に到達したが、プロ4年目での年俸1億円到達は当時、球界最速タイ記録だった[10]。 2000年は年間を通じて調子があまり良くなかったものの、先発としてシーズンを通して登板し続けた結果、リーグ最多敗戦(12敗)を記録。最終的に26試合に登板して7勝12敗、防御率5.06に終わり、同年のシーズンオフには年俸8200万円(前年比1800万円減額)で契約を更改した[11]。 2001年は序盤に2試合続けて中継ぎで大量失点し、二軍の湘南シーレックス[注 3](イースタン・リーグ)に降格する。6月に先発として一軍に復帰するものの9月以降は再び中継ぎに回ることになる。 2002年は故障により、わずか3試合の登板で未勝利に終わり、10月には背中の滑液胞炎の摘出手術を受ける。 2003年は5月6日の広島戦(横浜スタジアム)で593日ぶりの勝利を挙げたが、5勝にとどまる。 2004年はスタミナ面を考慮し、中継ぎに転向。4月は大車輪の活躍でチームを首位に押し上げた。しかし、登板過多による疲労から精彩を欠き、7月1日には一軍登録を抹消。後半戦からは復帰し、58試合に登板して防御率こそ3.07を記録したが、複数イニングに登板すると打たれることが多く、8敗を喫した。 2005年は1イニング限定の登板起用がこれまた当たり、56試合に登板して防御率は2.31を記録。しかも夏場までは防御率0点台であった。木塚敦志と共に、抑えのマーク・クルーンに繋ぐセットアッパーとしてチームの躍進に貢献し、阪神のJFKに匹敵する活躍を見せた。 2006年は二段モーション禁止によるフォーム改造の影響により、シーズン序盤は打ち込まれ、防御率も2桁の時期が続き、セットアッパーの役目も加藤武治に譲ることになった。それでも5月以降は持ち直して川村-加藤-クルーンの勝利リレーを確立。この年は木塚、加藤、クルーンと形成した救援投手陣はクアトロKと呼称された。シーズン終盤にクルーンが故障で登録抹消されると抑えの役目を任され、プロ10年目でプロ入り初セーブを挙げた。最終的に57試合に登板して防御率こそ3点台(3.86)を確保したが、この年優勝した中日を相手に大量失点するシーンが目立ち、数字以上に打たれるイメージを与えることになった。 2007年は中継ぎでの3年間にわたる登板過多気味の状況や先発投手が不足しているチーム事情を考慮し、大矢明彦新監督の意向で先発に配置転換された。しかしキャンプ中に故障し、調整不足のままシーズンを迎えることになる。何とか先発ローテーションの6番手に名を連ねたが5回未満で降板することが多く、開幕から約1か月で中継ぎに戻る。中継ぎとしてはまずまずの投球内容ではあったが、オールスター明けに調子を崩し、8月・9月と二軍落ちした。 2008年はシーズンの大半を二軍で過ごし、9月28日に同年のシーズン限りで現役引退と一部で報道され、10月1日に球団より公式に現役引退が発表された。引退の理由について本人は「投げるのが怖くなるときがあり、精神的に厳しいものがあった」と語っている。10月5日の広島23回戦(横浜)で先発登板し、先頭打者の東出輝裕を3球三振に打ち取り降板。試合後には引退セレモニーが執り行われた。 引退後2009年シーズンは1年間、湘南シーレックス[注 3]の投手コーチを務め、山口俊の育成に貢献。2010年シーズンも1年間、スコアラーを務めた後、2011年から2012年までは2度目の二軍投手コーチ、2013年シーズンは一軍投手コーチ(ブルペン)、2014年シーズンから2015年シーズンまでは一軍投手コーチ(ベンチ)を5年間務めた。 2016年シーズンからは2年間勤務した球団職員(野球振興担当)として少年たちの野球指導を担当し[12][13]、2017年シーズンは横浜DeNAベイスターズジュニアチームの監督を務めた[14]。 2018年シーズンより3年ぶりにコーチへ現場復帰[注 4]、二軍投手コーチを務める[16]。2020年シーズンからは一軍投手コーチに異動。 2021年シーズン終了後の11月7日、2022年シーズンからベースボール・チャレンジ・リーグ(ルートインBCリーグ)の神奈川フューチャードリームスで監督に就任することが発表された。DeNAからの派遣扱い[17][18]。就任3年目の2024年シーズンは4年ぶり2度目となるリーグ優勝を達成した。2024年10月3日に退任が発表された[19]。 選手としての特徴・人物投球フォームはオーバースロー[20]。エースとして活躍した1999年はキレのあるストレートとチェンジアップ・フォークを得意とし、カーブも投げていた[20]。
詳細情報年度別投手成績
表彰
記録
背番号
脚注注釈出典
参考文献関連項目外部リンク
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