藤沢幾之輔
藤沢 幾之輔(ふじさわ いくのすけ[1][2]、1859年3月20日(安政6年2月16日)[1] - 1940年(昭和15年)4月3日[1][3])は、明治、大正、昭和期の日本の政治家、弁護士。衆議院議員、衆議院議長[1][4]、第1次若槻禮次郎内閣の商工大臣[1][4]、貴族院議員を歴任した[4]。号は成天[1][4]。 来歴・人物1859年3月20日(安政6年2月16日)陸奥国仙台(現・宮城県仙台市)に生まれる[1][4]。明治維新後、宮城英語学校[1][4]、茂松法学舎で学ぶ[1]。1879年(明治12年)司法試験に合格し、弁護士を開業する[1][4]。1889年(明治22年)仙台市会議員に当選し、政界入りする[1][4]。その後仙台市会参事会員[1]、仙台市会議長[1][4]、宮城県会議員[1][4]、宮城県会常置委員[1]、宮城県会議長を経て[1][4]、1892年(明治25年)衆議院議員総選挙に立候補し当選する[1][4]。当選回数13回[1][4]。 藤沢は立憲改進党系の政党に身を置き[1][4]、憲政本党常議員[1][4]、立憲同志会総務、憲政会総務[1][4]、立憲民政党総務[1][4]、衆議院予算委員長を歴任した。1915年(大正4年)逓信省・内務省各参政官に就任[1]、1926年(大正15年)第1次若槻内閣の商工大臣として入閣する[1][4]。1930年(昭和5年)衆議院議長に選出される[1][4]。1931年(昭和6年)4月13日には貴族院議員に勅選され[4][5]、同成会に所属し1934年(昭和9年)6月20日まで在任し[5]、同年、枢密顧問官に勅選された[1][4]。 栄典
逸話伝記脚注・出典
参考文献
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