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藤沢幾之輔

藤沢 幾之輔ふじさわ いくのすけ
藤沢幾之輔
生年月日 (1859-03-20) 1859年3月20日
出生地 日本の旗 日本 陸奥国仙台
没年月日 (1940-04-03) 1940年4月3日(81歳没)
出身校 宮城英語学校
茂松法学舎
所属政党 立憲改進党
進歩党
憲政本党
立憲国民党
立憲同志会
憲政会
立憲民政党
称号 勲四等旭日小綬章(1906年)
大礼記念章(1915年)
勲三等旭日中綬章(1916年)
勲二等瑞宝章(1926年)
勲一等瑞宝章(1931年)
旭日大綬章(1940年)

日本の旗 第28代 衆議院議長
在任期間 1930年4月21日 - 1931年4月13日
天皇 昭和天皇

日本の旗 第4代 商工大臣
内閣 第1次若槻内閣
在任期間 1926年9月14日 - 1927年4月20日

在任期間 1931年4月13日 - 1934年6月20日

当選回数 13回
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藤沢 幾之輔(ふじさわ いくのすけ[1][2]1859年3月20日安政6年2月16日[1] - 1940年昭和15年)4月3日[1][3])は、明治大正、昭和期の日本政治家弁護士衆議院議員衆議院議長[1][4]、第1次若槻禮次郎内閣の商工大臣[1][4]貴族院議員を歴任した[4]。号は成天[1][4]

来歴・人物

1859年3月20日(安政6年2月16日)陸奥国仙台(現・宮城県仙台市)に生まれる[1][4]明治維新後、宮城英語学校[1][4]、茂松法学舎で学ぶ[1]1879年(明治12年)司法試験に合格し、弁護士を開業する[1][4]1889年(明治22年)仙台市会議員に当選し、政界入りする[1][4]。その後仙台市会参事会員[1]、仙台市会議長[1][4]、宮城県会議員[1][4]、宮城県会常置委員[1]、宮城県会議長を経て[1][4]1892年(明治25年)衆議院議員総選挙に立候補し当選する[1][4]。当選回数13回[1][4]

藤沢は立憲改進党系の政党に身を置き[1][4]憲政本党常議員[1][4]立憲同志会総務、憲政会総務[1][4]立憲民政党総務[1][4]、衆議院予算委員長を歴任した。1915年(大正4年)逓信省内務省各参政官に就任[1]1926年(大正15年)第1次若槻内閣商工大臣として入閣する[1][4]1930年(昭和5年)衆議院議長に選出される[1][4]1931年(昭和6年)4月13日には貴族院議員に勅選され[4][5]同成会に所属し1934年(昭和9年)6月20日まで在任し[5]、同年、枢密顧問官に勅選された[1][4]

栄典

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

逸話

  • 石川啄木歌集悲しき玩具』に収められている「藤沢といふ代議士を/弟のごとく思ひて、/泣いてやりしかな。」という短歌は、幾之輔をモデルとしている。

伝記

脚注・出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 『日本人名大事典 現代』、673頁。
  2. ^ 『コンサイス日本人名事典 第4版』、1123頁。
  3. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』158頁。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『コンサイス日本人名事典 第4版』、1124頁。
  5. ^ a b 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、43頁。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 藤沢幾之輔」 アジア歴史資料センター Ref.A06051180700 
  7. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」大正5年12月13日。

参考文献

  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 『日本人名大事典 現代』平凡社、1979年(昭和54年)7月10日初版第1刷発行、ISBN 4-582-12200-0
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 三省堂編修所編 『コンサイス日本人名事典 第4版』三省堂、2001年(平成13年)9月10日第1刷発行、ISBN 4-385-15803-7


議会
先代
堀切善兵衛
日本の旗 衆議院議長
第28代:1930 - 1931
次代
中村啓次郎
公職
先代
片岡直温
日本の旗 商工大臣
第4代:1926 - 1927
次代
中橋德五郎
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