江別市
江別市(えべつし)は、北海道中部(道央地方)にある石狩振興局の市。 概要江別市は、札幌市に隣接した市であり、石狩振興局では札幌市に次ぐ第二位の人口規模(11万8776人、2023年10月1日現在)の都市である。同時に日本三大河川の一つである石狩川が市内を流れ、大都市近郊で希少な大規模平地林である道立自然公園野幌森林公園があり、都市機能と自然が調和した街である[2]。 江別市やその周辺は、平坦な石狩平野の中心部に位置し、札幌市中心部までは車で約40分(一般道路利用)、札幌駅から野幌駅まで約20分と交通アクセスが良く、札幌のベッドタウンとして人口が増加した[3][4]。また、新千歳空港まで車や鉄道で約1時間の距離に位置しており[4]、市内の東西2箇所に高速道路のインターチェンジがあるなど北海道内各地へもアクセスし易い環境にある[3]。 石狩川河群には王子エフテックス江別工場があり、明治時代から操業を続けている。北部の江別第1・第2工業団地には製造業や物流施設が立地し、南部には情報技術産業が集積している[2]。また、近年食品産業の誘致を進めており、今後の発展が期待されている[2]。 1891年(明治24年)に煉瓦の製造が始まっており、窯業の歴史がある[5]。現在でも煉瓦の一大産地になっており、「江別のれんが」として「北海道遺産」[6]、「江別市の煉瓦建造物」「江別市の煉瓦の関連遺産」として「近代化産業遺産」に認定されているほか[7]、市内には煉瓦を使用した施設が現存している[8]。また、食に関する試験研究機関や大学が集積しており、札幌市などとともに「総合特別区域法」に基づく特区「北海道フード・コンプレックス国際戦略総合特区」(フード特区)に指定されている[9][10]。 江別市では稲作、酪農、畜産など多様な農業が行われ、初冬まき技術により特産となっている小麦「ハルユタカ」による「江別小麦めん」は全国的に高い評価を得ている。また、市内には酪農や獣医学に特化した酪農学園大学なども存在している[2]。 酪農学園大学のほかにも、市内には官民の大規模研究施設が立地し、4つの大学(酪農学園大学、札幌学院大学、北翔大学、北海道情報大学)・1つの短期大学(北翔大学短期大学部)がある[2][11]。近年、研究施設や大学が市内生産者・製造業と連携し地域ブランド創りへの挑戦も盛んになっている。このように、江別市は研究学園都市としての一面もある[2]。 市名の由来
市章・市旗市章(紋章)1924年(大正13年)10月24日制定[19]。江別市の開拓は、北門警備の屯田兵を配置されたことから始まった[19]。そのため、陸軍の星章で屯田兵を表現している[19]。また、周囲の円形は月を表現し、朝に星を載せて出て、夕べに月を仰いで帰れる勤労の意を示している[19]。江別の頭文字(「エ」)は星章を配り巻いて一致和協の実を挙げる意味を持っている[19]。 市旗1968年(昭和43年)5月25日制定[19]。旗面の中心に江別市の市章(紋章)を配置し先人の伝統を、それを囲む模様は市民を表わし、市民が手をとりあって伝統を継承することと、市旗(紋章)の円と模様の円との広がりで未来に向かって飛躍する無限性を表している[19]。また、色彩は白色が北海道の雪と市民による市政の清潔を、水色は母なる川石狩川の慈愛と澄んだ空の未来を、青色は先人の伝統、耐えぬかれた風雪を表わしている[19]。
市の木・花市の木「ナナカマド」1971年(昭和46年)11月制定[20][21]。ナナカマドは、山地に自生する落葉樹である[20]。「安全」「慎重」 「忍耐」を象徴するこの木は、市民憲章にうたわれる健康でたのしい家庭を築き、風雪に耐えたくましく前進する江別市民であることを願い、江別市の木と制定された[20][21]。 市の花「キク」1968年(昭和43年)5月25日制定[20][21]。気品高く優雅に咲き匂うキクは、永久の「平和」と「繁栄」 を象徴し、花ことば「誠実」「信用」を持って市民憲章の定める指標が達成されることを誓い、江別市の花と制定された[20][21]。
地理石狩平野のほぼ中央に位置しており、東西17.2 km、南北18.1 kmある[22]。市域全体は平坦な地形になっており、標高は西野幌の93.0 mが最高地点であり、豊幌の2.5 mが最低地点である[22]。河川は北東部から石狩川が流入し、夕張川、千歳川、篠津川、豊平川などの支流を合わせて石狩湾へ流れている[22]。地層は石狩川流域の沖積土、野幌丘陵の火山灰土、低地帯に広がる泥炭土などに分かれている[22]。また、火成岩による残積土と崩壊土が市街地に散在している[23]。江別市・札幌市・北広島市にかけての面積2,053 ha(うち江別市1,841 ha)にある道立自然公園野幌森林公園は大都市近郊でのまとまった面積の森林(平地林)が残されており、「森林浴の森100選」に選定されている[24]。また、林野庁による「森の巨人たち百選」に指定された推定樹齢約500年のクリの木々がある[25]。 地形河川江別市は日本三大河川の1つである石狩川が市内北東部から北西部へと貫流し、夕張川、千歳川、豊平川、篠津川などの支流河川と合流する[26]。 主な川湖沼主な湖
主な沼
主な池
気候
江別市は北海道内では比較的温暖な地域であり、平均的に夏はやや暑く冬はやや寒い準大陸性気候になっており[29][30]、冬は氷点下20度を下回ることも珍しくなくダイヤモンドダストが観測されることもあり、札幌都心部との気温差が10度に達することもある。太平洋から日本海に連なる地溝(低平地)にあるため風の通り道になっており、特に4月から5月にかけて南南東の強い風が特徴的である[30]。降水量は北海道平均とほぼ同じであるが、7月から8月に集中豪雨が多く、これまでに河川の氾濫による災害が発生したことがある[29]。降雪量は山間部に比べると少なく、降雪は概ね11月下旬から4月上旬まで続く[29]。
極値(アメダス)
地域土地改良区
地区分類江別市は大きく、江別地区・野幌地区・大麻地区に分類することができる[34]。 江別地区→詳細は「江別地区」を参照 江別地区は、野幌地区・大麻地区を除いた地域である[34]。江別駅の北側の地域は、石狩川沿いに位置し、江別発祥の地ともいわれており、明治から昭和初期にかけて舟運と鉄道の結節点として栄えた歴史があり、石造りの倉庫群をはじめ、その面影が今でも残っている[35]。一方、江別駅の南側の地域は、千歳川を挟んで両側に住宅街が広がっており、区画が広く新たな戸建て住宅の建築に人気の地域である[36]。また、この地域は水辺に親しめる空間が特徴的であり、かつて蛇行していた川の名残である三日月湖を活用して作られた泉の沼公園では1年を通してカモの姿が見られる[36]。豊幌駅周辺の地域は、江別市で最も東側に位置する地域であり、農村と都市が行き交う地域である[37]。幹線である国道12号線で江別市街、岩見沢市街の両方へアクセスも良好であり、住宅街は豊幌駅が便利である[37]。その他、角山・篠津・対雁・中島・美原・八幡などの地域は田畑が平がっている地域である。 野幌地区→詳細は「野幌地区」を参照 野幌地区は、野幌駅や高砂駅が存在し、国道12号線沿いを中心に商業施設や公共施設が集積する江別市の中心市街地である[38]。野幌駅の南口付近には高層マンションが多く、駅から離れるにつれ、北広島市や野幌森林公園方面、南幌町方面への導線上に戸建の住宅地が続いている[39]。また野幌駅前から錦山天満宮、湯川公園までは緑道「野幌グリーンモール」が続き、賑わいと潤いの調和した雰囲気が特徴的である[38]。現在、野幌駅周辺では再開発事業である「江別の顔づくり事業」が進行中であり、鉄道高架化、都市機能の充実、区画整理などの再開発が行われている[38]。 大麻地区→詳細は「大麻地区 (江別市)」を参照 大麻地区は、「江別鉄道林」や沢地を利用した公園などの自然が多くみられる。広い区画の戸建住宅が多い住宅街であり、利便性の高い地域に一戸建て空き物件も多く、新しい世代のリフォーム需要にも対応している[40]。その一方、団地も地区内には多く見られ、大麻団地の人口は1万人を超えている[40]。また、函館本線以南の地域は文京台地区と呼ばれ、酪農学園大学・札幌学院大学・北翔大学の3つの大学、多くの道立の研究機関などが集積しており、学園研究都市としての一面もある[41]。 人口概要「江別市人口ビジョン」参照 江別市の人口は、1955年(昭和30年)は約35,000人であったが、増加傾向で推移し、2005年(平成17年)には約125,000人と約3.6倍(357.0%)となった[42]。2010年(平成22年)には約123,000人と減少に転じ、社人研準拠推計では2040年(令和22年)時点で約96,000人となり、ピーク時の約76.8%まで減少すると推計されている[42]。 年齢3区分別の人口の推移は、生産年齢人口は1955年(昭和30年)の約21,000人から増加傾向で推移し、2000年(平成12年)にはピークに達して約85,000人となり1955年(昭和30年)当時の約4倍となった[43]。その後は減少に転じ、2040年(令和22年)にはピーク時の57.3%(約49,000人)に、2050年(令和32年)にはピーク時の約半分(48.9%)にまで減少すると推計されている[43]。年少人口は1980年(昭和55年)の約20,000人をピークにほぼ横ばいか減少傾向で推移し、2000年(平成12年)を境に老年人口(高齢者人口)と逆転した[43]。以降は減少を続け、2040年(令和32年)には2005年(平成17年)の約17,000人から約10,000人減少し、約7,000人になると推計されている[43]。老年人口(高齢者人口)は増加を続け、2035年(令和17年)頃にピークを迎えることが予想される[43]。2005年(平成17年)の約22,000人から、2040年(令和32年)には40,000人を超えると推計され、老年人口(高齢者人口)は約1.8倍、人口の41.5%となる[43]。 また、年齢3区分別人口割合の推移は、老年人口割合(高齢化率)が1955年(昭和30年)には3.9%であったものが、2040年(令和22年)には41.5%、2060年(令和42年)には46.6%となるなど、顕著に高くなっている[44]。一方で、年少人口割合は低下し続け、2040年(平成32年)には1割を切って7.6%となることが予想されている[44]。
人口ビジョン・創生総合戦略江別市では、国の「まち・ひと・しごと創生長期ビジョン」・「まち・ひと・しごと創生総合戦略」の策定を受け、江別市の将来展望を提示する「江別市人口ビジョン」及び今後5年の施策の方向を提示する「江別市まち・ひと・しごと創生総合戦略」を策定した[45]。「江別市人口ビジョン」は、江別市における人口の推移及び現状の分析を通じて、将来展望を提示すると位置付けている[45]。また、「江別市人口ビジョン」による分析を基礎資料としながら、「江別市まち・ひと・しごと創生総合戦略」を策定した[45]。 隣接する自治体・行政区歴史古代~近世北海道では縄文時代の後に続縄文時代・擦文時代が続くが、続縄文時代は恵山文化、江別文化、北大文化の3つの文化に大別することができる[47][信頼性要検証]。道南の恵山文化は本州の亀ヶ岡式文化の影響が見られ、道央の江別文化(続縄文時代中期)にもその影響が及んでいる。江別文化は中国の漢の大陸文化も見られ[47][信頼性要検証]、樺太南部や千島列島南部、東北地方の宮城県北部まで分布する[48]。江別式墳墓から伴出する土器は「江別式土器」(後北式土器)と呼ばれ、A型式からD型式までの編年がある[49]。「江別古墳群」は末期古墳の系譜を引くものであり、本州とのつながりを示す遺跡になっている[50]。江戸時代には場所請負制により石狩川左岸に「上ツイシカリ場所」と「下ツイシカリ場所」があった[51]。 明治期1871年(明治4年)に宮城県涌谷領から21戸76人の農民が移住して江別の開拓が始まった[52]。 1878年(明治11年)から江別太(石狩川と千歳川の合流点。現在の緑町・王子周辺)において屯田兵の入地が始まり、同年に江別村が誕生した[52]。江別太が屯田兵用地に選ばれたのは、札幌周辺の河川舟運の要地であり、後に開設する樺戸・空知の集治監の治安上において適当な地であったことによる[53]。1882年(明治15年)に官営幌内鉄道が開通して江別駅ができると、江別港(現在の新江別橋周辺)から江別駅までの通りには石狩川上流から船で運ばれてきた農産物や木材、小樽や札幌から鉄道で運ばれてきた生活物資が集まった[54][55]。篠津太では屯田兵授産のために1876年(明治9年)に養蚕室が建てられて琴似や山鼻から出張して養蚕を試みていた[53]。1881年(明治14年)には篠津太にも屯田兵が入地している[53]。1887年(明治20年)には江別に第三大隊本部が置かれ、江別と野幌の2兵村となった[53]。その後、1891年(明治24年)に予備役に編入されて滝川に本部を置く第二大隊所属となり、1895年(明治28年)から後備役になった[53]。 沿革「江別市統計書」参照[56]
政治役所本庁舎・別館・第二別館→詳細は「江別市役所」を参照
教育庁舎→詳細は「江別市役所」を参照
水道庁舎→詳細は「江別市役所水道庁舎」を参照
大麻出張所→詳細は「江別市役所大麻出張所」を参照
市長歴代首長
市民憲章・都市宣言江別市民憲章
都市宣言
議会市議会→詳細は「江別市議会」を参照
衆議院
行政組織江別市の組織・課名は以下の通りである[83]。
国家機関官公庁
道の機関
独立行政法人・地方独立行政法人・特殊法人等
施設警察
消防本部消防署
医療主な病院
郵便局集配局簡易郵便局
公共施設
運動施設
対外関係姉妹都市・提携都市海外
国内
経済江別市の産業別就業者数の構成比は第一次産業が2.85 %、第二次産業が17.95 %、第三次産業が75.03 %になっている[95]。 組合第一次産業江別市の市面積の約40%が農地を占めている[2]。大消費地の札幌市に近いことから稲作、畑作、酪農、肉用牛や施設園芸など多彩に展開しており、道内一位の収穫量を誇るブロッコリーをはじめ、多くの農畜産物が市内で作られている[2][101]。江別市の農業は、1965年(昭和40年)には約1500戸あった農家も、2012年(平成24年)には約500戸弱までに減少しているものの、農村と都市との交流促進やクリーン農業など、「都市型農業」として地域の特性を発揮した農業の実現をめざしている[101]。 第二次産業工業団地は市内に3カ所存在し[102][103]、国道275号に隣接する「江別第1工業団地」と「江別第2工業団地」は利便性に富む交通アクセス環境を活かし、製造・流通関連企業の集積を目指している[102]。西野幌などにある「江別RTNパーク」はアメリカで学術研究の開発モデルとして成功したリサーチ(R)・トライアングル(T)・パークに倣い、江別市が日本の北に位置することからN(north)をつけ、「RTNパーク」と命名された[103]。第1期第1工区には大学や各種研究機関、試薬の研究所など先端技術関連施設が集積し、現在、第1期第2工区を食品関連産業に分譲中である[103]。RTNパークは「安心」・「安全」といった企業イメージを高めるための環境が整った団地である[103]。
第三次産業商業施設
物流江別市やその周辺は、平坦な石狩平野の中央部に位置し、道内各地を結ぶ高速道路や主要国道、JR各線などが集まる交通の要衝であり、道内や全国各地と結ぶ物流施設が多数立地している[2]。 主な物流施設
金融機関
拠点を置く主な企業50音順[105]
情報・通信マスメディア新聞社
生活基盤ライフライン電気ガス
教育→詳細は「江別市の教育」を参照
大学
短期大学
専修学校
高等学校
中学校
小学校
幼児教育保育所
幼稚園
学校教育以外の施設
交通鉄道廃止した鉄道バス路線バス高速バスタクシー
道路高速道路国道道道
農道
観光文化財国指定国登録
道指定
市指定
名所・旧跡
観光スポット
文化・名物祭事・催事
名産・特産れんが→詳細は「江別のれんが」を参照
江別市でのれんが生産は、1891年(明治24年)に始まったと言われている[124]。開拓使は建築資材にれんがを奨励したことから、北海道庁赤れんが庁舎をはじめとする多くの公共建築がれんがでつくられ、大正以降、全道一の陶土地帯である江別市の野幌周辺へとれんが製造の中心が移った[124]。現在、江別市は全国有数のれんが生産地であり、江別市内には、学校・サイロ・民家・倉庫など数多くのれんが建造物が残っている[124]。また、れんがをモチーフにした「煉化もち」も有名である[124]。「江別のれんが」は2004年(平成16年)に「北海道遺産」として認定されているほか、「江別市の煉瓦建造物」が2008年(平成20年)度に「近代化産業遺産」として認定されている。 小麦江別市は小麦の石狩管内有数の産地であり、中でも高品質の「ハルユタカ」は栽培が難しい品種であったが、「初冬まき栽培」が普及して安定した収量確保に成功して有名になった[125]。江別産小麦を利用した「江別小麦めん」(ラーメン)は市内飲食店で提供しているほか、家庭用商品の販売も始めている[126]。ハルユタカの他にも「ホロシリコムギ」や「春よ恋」などのブレンドに適した小麦が生産され、パン・めん・スイーツ・ビールなど江別産小麦を加工した商品も多く販売されている[127]。 その他野菜ではブロッコリーの作付面積・収穫量がともに北海道内一になっている[128]。また、レタスの作付面積が北海道内一になっている[128]。1971年(昭和46年)から高い肉質を誇る但馬牛の系統を導入し、地域の中で改良増殖をし、黒毛和種「えぞ但馬牛」を育てている[127][129]。酒では、「瑞穂のしずく」が有名であり、瑞穂のしずくは江別産の酒造好適米「彗星」を100%使用している。収穫された「彗星」は栗山町にある小林酒造にて特別純米酒「瑞穂のしずく」として醸造されている[127]。石狩川ではヤツメウナギが獲れるが、漁獲量は減少傾向にある[130]。 出身・関連著名人名誉市民・市民栄誉賞名誉市民 特別栄誉賞 市民栄誉賞 出身人物50音順
ゆかりのある人物50音順
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク行政 産業 観光
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