1960年のロードレース世界選手権
1960年のロードレース世界選手権は、FIMロードレース世界選手権の第12回大会である。5月にクレルモン=フェランで開催されたフランスGPで開幕し、モンツァの最終戦イタリアGPまで、全7戦で争われた。 シーズン概要スウェーデンGPがカレンダーから外れ、この年の選手権は全7戦で争われた。ドイツGPの舞台はソリチュード・サーキットに戻り、以後しばらくの間はソリチュードとホッケンハイムリンクで交互に開催されることになる。 1960年はMVアグスタの強さがピークとなったシーズンだった。全てのクラスの全てのレースの中で、MVアグスタのマシンが勝てなかったのは僅か2レースしかなかったのである。その内のひとつであるアルスターGP500ccクラスでのジョン・ハートルのノートンの優勝はMVアグスタのマシントラブルによるものであり、実質的にこの年MVアグスタに勝ったと言えるのはベルギーGP125ccクラスのエルンスト・デグナーが乗るMZが唯一だった[1]。しかし、ライバル不在で2輪レースに対するモチベーションが薄れつつあったMVアグスタのエースライダー、ジョン・サーティースとカルロ・ウビアリが共にこの年限りで2輪レースから引退し、シーズンオフにはアグスタ伯爵がワークス活動からの撤退を決定した。ウビアリはビジネスの世界に転身し、この年ついに「楽に勝てた」と漏らすまでになったサーティースは4輪レースに活躍の場を移し、やがて2輪と同様に大きな成功を収めることになる[2][3]。 参戦2年目のホンダは早くも小排気量クラスで一大勢力になりつつあった。前年のマン島でグランプリデビューを果たしたばかりのホンダは、2年目のこの年には125ccと250ccクラスにフルエントリーして表彰台に上るほどの進歩を見せたのである。その一方でダッチTTではトム・フィリスや谷口尚己が負傷、アルスターGPでは田中健二郎が重傷を負った上に練習中の事故でボブ・ブラウンが命を落とすという、ホンダにとっては新たな課題ができたシーズンでもあった[4]。 ホンダに続いてこの年のマン島に出場したのが日本のスズキである。2ストロークエンジンというホンダとは異なるアプローチで125ccクラスに挑戦したスズキだが、エースの伊藤光夫が練習中のクラッシュで決勝不出場となり、決勝を走った3台のマシンも完走こそ果たしたものの15、16、18位と前年のホンダに比べて惨憺たる結果に終わった。しかし、この時スズキチームが宿泊したホテルには同じ2ストロークで既に成功を収めていたMZチームとエースライダーのエルンスト・デグナーも泊まっており、この両者の出会いは後に大きな意味を持つことになった[5]。 500ccクラス前年に全勝でタイトルを獲ったジョン・サーティースは開幕から2連勝を飾り、1958年から続く500ccクラスの連勝記録を11とした。第2戦のマン島では、初めてレース全体の平均速度100mph以上を記録している。しかし第3戦のオランダでサーティースはクラッシュしてしまい、連勝記録は途切れることになった。オランダで勝ったのはサーティースのチームメイトのレモ・ベンチューリで、これがベンチューリにとってはグランプリで唯一の勝利である。連勝が途切れたサーティースだったが続く第4戦ベルギーと第5戦ドイツで連勝し、このクラスで3年連続4回目となるタイトルを決めた[6]。 開幕戦のフランスGPには伊藤史朗がプライベーターとしてBMWのマシンで出場して6位入賞し、初めて500ccクラスのポイントを獲得した日本人となった。 350ccクラスこの年MVアグスタが350ccクラスに持ち込んだのは、それまでの500ccをスケールダウンしたマシンではなく、250ccの2気筒エンジンを286ccにスケールアップした機動性を重視したマシンだった[7]。このマシンを駆るディフェンディングチャンピオンのジョン・サーティースは開幕戦フランスでエンジントラブルによって後退し、3位に終わった。350ccと500ccの両クラスを通じて、サーティースが出場したレースに勝てなかったのは1957年以来のことだった。代わって開幕戦を制したのはサーティースのチームメイトのゲイリー・ホッキングで、ホッキングは2周目に転倒したにもかかわらずヤワのシャフトドライブDOHC2気筒に乗るフランタ・スタストニィを押さえて優勝した[1]。サーティースは第2戦のマン島でも同じMVアグスタに乗るジョン・ハートルに勝ちを譲ったが、続くオランダ、アルスターと連勝してかろうじてタイトルの防衛に成功した。サーティースは3年連続で500ccクラスとのダブルタイトルだった[8]。 250ccクラス第4戦までMVアグスタに乗るカルロ・ウビアリとゲイリー・ホッキングのふたりが優勝2回と2位2回と全く互角だったが、終盤の2戦に連勝したウビアリが2年連続となる250ccクラスのタイトルを獲得した[9]。前年ウビアリとタイトルを争ったタルクィニオ・プロヴィーニは、移籍したモト・モリーニの新型マシンの開発のためにイタリア選手権に専念し、この年はグランプリに出場していない[1]。 この年から250ccクラスに参戦を開始したホンダは、DOHCをギアで駆動させる4気筒のマシンを投入した[10]。ホンダはシーズン後半になるにしたがって調子を上げ、第4戦のドイツでは練習中の事故でボブ・ブラウンを亡くすというアクシデントがあったものの田中健二郎がホンダにとっても日本人としても初めてとなる3位表彰台を獲得。アルスターGPではトム・フィリスとジム・レッドマンが2位・3位と揃って表彰台に上り、レッドマンは最終戦のイタリアでも2位に入ってMVアグスタの3人に次ぐランキング4位を獲得した[11]。 125ccクラスMVアグスタのカルロ・ウビアリが全5戦中4勝を挙げ、このクラスでは6度目となるタイトルを獲得した。ランキング2位にはウビアリと同じマシンに乗るゲイリー・ホッキングが入ったがホッキングは125ccクラスでは勝利を挙げることができず、ウビアリが唯一勝利を逃したベルギーで勝ったのは進境著しいMZのエルンスト・デグナーだった[12]。 ホンダは前年から更に進化させたDOHC4バルブ2気筒のマシンで参戦してコンスタントに入賞する速さを見せたが、250ccクラスのような表彰台に上るほどの活躍はできずコンストラクターズポイントではMZの後塵を拝してランキング3位に終わった。しかし今シーズンのマシンRC143はシーズン終了後も開発が続けられ、その努力は翌シーズンの開幕戦で実を結ぶことになる[13]。 グランプリ
最終成績
500ccクラス順位
350ccクラス順位
250ccクラス順位
125ccクラス順位
脚注
参考文献
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