バレーボール
バレーボール(英語: Volleyball)は、ネット越しにボールを打ち合うチームスポーツである。3回以内で相手コートに返球しあうことで点数を競う。大抵は1チーム6人で行われる[注釈 1]。略称はバレー[1]。なお、ビーチバレーボールに対して「インドアバレー」と呼ばれることがある。しかしながらルール上は屋外でも可能であり、1950年代までは屋外コートが一般的であった。 使われる用語については「バレーボールの用語一覧」参照。 概要バレーボールは、1895年に子供、女性、高齢者でも楽しめるスポーツとして、アメリカ合衆国の体育教師ウィリアム・G・モーガンによって考案されたとされている。 試合では9メートルと18メートルのエリアを、中央をネットで分けたコートを使う。ネットの高さは年齢や性別などによって異なるが、大体2メートルから2.43メートルの間で設定される。このネットには試合中いかなる部分も触れてはならない。チームの人数は6人制や9人制があるが、6人制が主流である。 バレーボールは球技のうち唯一ボールを床や地面に落としてはならないスポーツであり、またボールを持つことや同一プレイヤーが2回連続で触ることはできない(ブロックを除く)。これらの基本的なルールのもとラリーは行われる。ラリーはボールを打つこと(サーブまたはサービス)から始まり、サーブを受けるチームが3回以内に相手コート内に返球し、以後コート内に落ちるかコート外に落ちる、もしくはいずれかのチームが反則を犯すまでラリーは続く。ラリーが終わるとラリーを制したチームに1点が加算され、ほとんどの場合25点を先に得たチームがセットを取る。先に3セット先取したチームがその試合に勝つ。(5セットマッチの場合) 歴史バレーボールを1895年に考案したウィリアム・G・モーガンは当時25歳で、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ホルヨークのキリスト教青年会(YMCA)のアスレティックディレクターであった。子供、女性、高齢者も気軽に楽しめる室内スポーツとして考え出した。 発祥の日は特定されていないが、元になった「ミントン」が1895年の夏にYMCAキャンプ研修会で初めて紹介されていること、モーガンのホルヨーク着任が長男ルフス誕生(8月29日)より後とされていること、モーガンのホルヨークへの転任が報じられているのが1895年10月のYMCA会報であること、10月23日の地元紙『ホルヨーク・デイリー・エクスプレス』にはモーガンの活動のことが掲載されていること、積雪により屋外で野球やアメリカンフットボールがプレーできない冬季向けのゲームとして考案されたことから、秋から冬と考えられる。 当初の名称はMintonette(ミントネット)。これは1895年、英領インド帝国に派遣されていたマッコノーイによって紹介されたミントン(羽毛球を使った5人制のバドミントン)に由来する。バスケットボールはモーガンをYMCAに誘ったジェームズ・ネイスミスが1891年に冬期の屋内スポーツとして考案し、ラグビーなどで見られるタックルなどのラフプレーを防ぐためボールを保持したまま走れないようにするなどレクリエーション要素を考慮していた。しかしバスケットボールは主に男子学生向けの競技であり、身体的な接触による激しいプレーが好まれる風潮もあって、モーガンが受け持っていたホルヨークYMCAビジネスマンクラス(25歳から40歳)には不向きな競技となっていた。YMCAでは大人数で気軽に楽しむことができ、身体接触がない安全なゲームを必要としていた。 モーガンは学生がバスケットボール用のボールの中にある軽量なチューブで遊んでいる姿をヒントに、バドミントンのほか、テニスなどネットで対戦相手と区切られているスポーツのルールを参考にしたスポーツを考案した[2]。このころのルールは非常に単純で、試合に集まった人たちを同じ数の2チームに分けて、相手コートに返す際の回数は決まっておらず、ボールを打ち合い、ボールを落としたほうが負けというものであった。しかしながら、当初から得点が入るのはサーブ権があるときのみ(サイドアウト制)であり、バドミントンの影響が大きい。この時点では、「味方にパスが可能、素手、ポールを使う」というミントン系のスポーツだった。 翌1896年7月、モーガンはこの新ゲームをスプリングフィールドで開催されたYMCA体育指導者会議の際に公開した。モーガンは当初このゲームをミントネット(Mintonette、ミントンもどき)と名付けたが、YMCAトレーニングスクール教官であるハルステッド博士の提案を受け、名称をバレー・ボール(ボレー・ボール、volley ball)に改めた。バレーボールのバレーというのは、テニスのボレー(ボールを地面につく前に打ち返すこと)からきている[2]。1952年に現在のようにバレーボール(volleyball)と1語で表すようになった。 ネットの高さは当初6フィート6インチ(198センチメートル)だったが、1900年に7フィート6インチ(229センチメートル)となった。 バレーボールは各地に点在するYMCAを通じてアメリカ全土に広まっていき、1900年にカナダ、1906年にキューバに紹介された。また、YMCAの指導者により1910年に米領フィリピンに、1913年に中華民国に紹介された。 1912年、アメリカでローテーションルールが導入された。 バレーボールの歴史において最大無二のルール変更は1912年にフィリピンで導入された「3回以内(ブロックを除く)で相手コートに返球」というルールであり、これによりバレーボールはレクリエーションから競技スポーツに進化した。このルールはアメリカでも1917年、フィリピンに派遣されていたE.ブラウンにより提案され、1922年までには導入された。また、今日あらゆるチームが実施している「セット&スパイク」戦術は1916年にフィリピンで初めて実行された。 最初の公式大会は1913年、フィリピンのマニラで行われた「東洋オリンピック」(極東選手権競技大会の第一回呼称)においてであり、16人制で行われ、フィリピンと中華民国が参加した。 1922年、アメリカで最初の公式大会「全米YMCA選手権」が開催された。発明後27年も経っているのは「3回以内返球」ルールにより、バレーボールが初めて競技スポーツになったことを示している。このときには人数は6人制、15点制、ネットの高さは8フィート(244センチメートル)となっていた。 日本にバレーボールが紹介されたのは1913年(大正2年)で、YMCA体育主事のF・H・ブラウンによってもたらされた。 YMCAの外部に広まったのは1917年の極東選手権競技大会を多くの体育指導者が観戦したことによる。大会を見てきた指導者たちが主に女子を熱心に指導し、1919年(大正8年)には最初の単独大会である「兵庫県女子中等学校排球競技会」が開催された。1921年(大正10年)には男子のみだが、「全日本排球選手権大会」が開催された。 1917年の極東選手権競技大会の際は、参加はしたが他競技とかけもちの選手ばかりであり、戦術にも劣り惨敗した。男子は低調で、1919年は不参加、第5回は12人制で実施されたが、このときはバスケットボールの選手が出発前に一度だけ指導を受けての形式的な参加だった。 1923年(大正12年)に大阪で開かれた第6回極東選手権大会では日本はセットアンドスパイク戦術を未だに実施しておらず男子は惨敗したが、エキシビジョンの女子の部で日本の旧制姫路高女が優勝し、女子バレーボールの普及に多大な影響を与え、各地で女子バレーボール大会が開催されていく。 1925年(大正14年)の明治神宮競技大会からは9人制となり、1927年からは極東選手権競技大会も9人制となった。 日本では1930年(昭和5年)からサイドアウト制が廃止され、ラリーポイント制が導入された。極東選手権競技大会でも1934年にラリーポイント制となったが、満洲国加盟問題で紛糾し、極東選手権競技大会はこの1934年第10回大会をもって廃止となった。 ヨーロッパにバレーボールが紹介されたのは1920年ごろで、第一次世界大戦で渡欧したアメリカ軍兵士によってフランスからイタリア、チェコスロバキア、ポーランド、ソビエト連邦(ソ連)へと普及していった。このころにはチームの人数も6人と決まっており、既に現在の6人制バレーボールに近いものができあがっていた。ソ連では1925年にロシア共産党の中央委員会が「100万人のバレーボール」のスローガンを掲げてソ連バレーボール協会を設立し、本格的にバレーボールの発展に取り組んだ。 バレーボールは世界各国のYMCAを通じて国際的に普及し、1924年パリオリンピック(パリ五輪)ではアメリカのスポーツとして紹介された。 第二次世界大戦後の1947年には国際バレーボール連盟が結成され、アメリカ式のルールを修正し国際ルールができあがった。 1949年に第1回バレーボール世界選手権(男子)がチェコスロバキアで行われた。日本が国際バレーボール連盟に加盟したのは1951年であった。当時、日本のバレーボールの主流は9人制であり、国際試合で使われる6人制バレーボールはまだよく知られていなかった。 1950年代に入ると、東欧諸国ではソ連の高さとパワーに対抗するために技術開発が進められるようになった。特にチェコスロバキアは次々と新しい技術の開発に着手し、速攻、フェイント、ブロックアウトなどの戦術を編み出した。 1952年、女子の第1回バレーボール世界選手権がソ連で行われた。 1957年、日本で国内初の6人制選手権開催。その後も9人制極東ルールが主流であり、全日本総合選手権においても1958年に6人制が導入されるが、9人制との併用が続く。 1960年、ブラジルで開催された世界選手権に日本男女が初参加。女子2位、男子8位。 1961年、日本男女チーム欧州遠征。女子チーム(日紡貝塚)はソ連戦を含めて22連勝し「東洋の魔女」と呼ばれる。 1962年、都市対抗、国体、全日本インカレ(男子)が9人制を廃し、6人制に切り替えた。翌年からインターハイも切り替えた。世界選手権(ソ連)で日本女子が優勝した。 1964年東京オリンピック(東京五輪)からバレーボールが正式種目に加わった。コンビネーション・バレーが確立されたのはこのころからで、回転レシーブ、時間差攻撃など日本独特の技術が編み出された。 日本では部活動としても盛んに行われている。 →「日本のバレーボール」も参照
規則(ルール)バレーボールという言葉は誰でも自由に定義できるが、本稿では国際バレーボール連盟(FIVB)が定めたルール(6人制と呼ばれるもの)を説明する。それ以外のルールとしては日本バレーボール協会が定めた9人制のルールなどがある。 日本語公式ルールブックはウェブでは公開されていない。FIVBのルールブックはウェブで公開されており、第一部「ルールとレフェリングの哲学」と第二部(具体的なルール)で構成されている[3]が、日本語公式ルールブック『バレーボール6人制競技規則2024年度版』(日本バレーボール協会)は第一部が削除されている。なお、第一部と第二部のうち大部分(第一編「試合」)の訳はブログ「vlastos」に掲載されている[4]。 日本では、小学生は1セット21点(3セットマッチ、3セット目は15点まで)、中高生は1セット25点(3セットマッチ、3セット目も25点まで)で行われている。なお春高、国体の準決勝以上、インターハイ決勝、春高都道府県予選決勝のほとんど、インターハイ予選決勝の一部はルール通り5セットマッチである。 競技場長辺18メートル、短辺9メートルの長方形のラインが引かれたコートを用いる。その中央にはコートを二分する形で幅1メートル、長さ約10メートルのネットが張られている。ネットの高さは成人男子が2.43メートル、成人女子が2.24メートルと定められている。ネットからそれぞれ3メートルにはアタックラインと呼ばれるラインがある。日本の高校バレーの都道府県大会では男子2.40メートル、女子2.20メートルである。中学生は男子が2.30メートル、女子は2.15メートルと定められている。1989年(平成元年)までは全国大会でも同様であった。これは9人制(男子2.25メートル、女子2.10メートル)の名残である。 コートの外には3メートル以上の空間(フリーゾーン)、天井までの高さは7メートル以上が必要とされる。国際バレーボール連盟および日本バレーボール協会主催の競技会では、フリーゾーンは最小限サイドラインから5メートル、エンドラインから6.5メートル、天井の高さは12.5メートル必要と定められている。また最低気温(10℃以上)や照度(1,000 - 1,500ルクス)なども規定がある。 ボール
ユニフォームシャツ、パンツ、ソックスの色とデザインリベロ以外の全員がそろっていることが条件。リベロ・プレーヤーは対照的な色のユニフォームでないといけない。ユニフォームのナンバーは1番から20番を原則としているが、やむをえない事情があれば、99番まで使用することができる。数字の大きさは胸部が15センチメートル以上、背部は20センチメートル以上、字幅は2センチメートル以上でなければならない。チームキャプテンは、胸のナンバーの下に長さ8センチメートル、幅2センチメートルのマークをつける。 チーム1チームは、6人以上12人以内のベンチ入りプレーヤー、監督1人、アシスタントコーチ最大2人、チームセラピスト1人、医師1人で構成される。前衛・後衛それぞれ3人、計6人で競技を行う。プレーヤーのうち2人をリベロプレーヤーとして登録することができる。 ただし、国内大会の競技要項により、部長、マネージャーなどがベンチスタッフとして認められることがある。現在、全国大会やそれに準じる大会では、監督を含むベンチスタッフを置くには、コーチや指導者としての公認資格の有資格者がいることを条件としている。 国際バレーボール連盟および日本バレーボール協会主催のシニア競技会(公式戦)においてはリベロを2人登録した場合は最大14名のプレーヤーで構成できる。高校、大学の大会もほとんどこれに準じており、ルールブックどおり12名以内なのはインターハイ本戦、国体少年の部くらいである。なおVリーグは2018/19シーズンからリベロ1人でも13〜14名ベンチ入り可能となっている。 キャプテン上記プレーヤーのうち、1名がチームキャプテンとなり、試合中コート内でプレーしている間はゲームキャプテンとして行動する。チームキャプテンがコート外にいるときはコート上のほかのプレーヤーがゲームキャプテンとなる。リベロもキャプテンになれる。 ゲームキャプテンは試合中断中のとき、競技規則の適用などについて審判員に説明を求めることができる。ゲームキャプテンは監督不在のとき、タイムアウトや選手交代の権限が与えられる。
タイムアウト各チームは1回につき30秒間のタイムアウトをとることができる。各チームはこの間に作戦を練ったり、選手を休憩させたりしている。タイムアウトの回数制限は両チームとも各セット2回ずつで、たとえ使わなくても、次のセットに持ち越すことはできない。 また、国際試合などでは、第5セット以外にどちらかのチームが8点と16点を先取した場合、自動的に「テクニカルタイムアウト」となっていたが、現在では廃止されている。Vリーグでは12点先取時に残っている。テクニカルタイムアウトの休憩時間は60秒間[注釈 2] 選手交代先発選手は1セットにつき1回だけ交代によりコートを離れることができ、1回だけ元のポジションに戻ることができる。交代選手は1セットにつき1回だけ先発全集と交代して試合に出ることができる。先に交代した選手とだけ代わってベンチに戻ることができる。 1セットにつき6回までの選手交代を要求できる。2人以上の選手を同時に交代させることができる。 以上は正規の選手交代であるが、負傷、病気、退場でプレーを続行できなくなった場合は例外的な選手交代を行うことができる。 プレー中の動作チームはネットを越えてボールを返すために最大で3回ボールに触れることができる。1人の競技者は連続してボールに触れることができない。ただし、6人制の場合、正当なブロックは1回として数えない(このため、6人制の場合は同一の競技者が正当なブロック後にレシーブなどで触ることができる。その結果、チームで3回を越えて触ることになるがルール違反ではない)。また、チームの最初のヒットでは、1つの動作中であれば、ボールは身体のさまざまな部分に連続した接触をしてもよい。よってレシーブの際には基本的にはダブルコンタクト(ドリブル)は取られない。現行のルールではボールを返す際に体のどの部位を用いてもよい。これらは審判による主観的な判定を廃し、プレーの連続性を重視するためである。 ポジションとローテーション
各プレーヤーはそれぞれ次に示すポジションにつく。
後衛のプレーヤーはネット際でのスパイクやブロックを禁止されるなど、ポジションに応じてプレーに制限がある。 ポジションはサーブ権を獲得するごとに時計回りに入れ替わり(これをローテーションという)、新たにバックライトにつくことになったプレーヤーがサーブを打つ。ローテーションの順序は、バックライト→バックセンター→バックレフト→フロントレフト→フロントセンター→フロントライトの順。 また、後衛のプレーヤーと何度でも入れ替わることができる選手リベロプレーヤーを置くことができる。リベロプレーヤーは、後衛のプレーヤーと入れ替わってコートに入り、ローテーションが進行して前衛にまわる前に元のプレーヤーと交代してゲームを離れる。リベロプレーヤーの入替(リベロリプレイスメント)は、ラリーが完了した時に特にゲームを中断せずに行われる。リベロプレーヤーには、後衛に課せられるプレー上の制限に加えてフロントゾーンでのネットより上方のトスや、ネットよりも上方でボールに触れて相手コートに返球することも禁止される。リベロプレーヤーはほかのプレーヤーと異なる色のユニフォームを着用する。 主な反則行為
6人制と9人制の共通点と違い9人制はおもに「ママさんバレー」として日本では行われているが、世界的には普及しておらず、国際試合は6人制で行われている。9人制では、6人制と比較して、次のような違いがある。
技術・戦術の変遷前述のように当初はレクリエーション要素の強いスポーツだったが、ルールが改正されるたびに競技が高度化したため、選手にはジャンプ力と短距離ではあるが前後左右に素早く移動する俊敏性、それを反復するスタミナ、アタックやサーブに必要な筋力、空中での姿勢を維持するバランス力、ボールを跳ね返す一瞬で方向をコントロールする技術、複数の選手の動きを瞬時に把握する思考力が必要となり、接触は無いが身体に負荷がかかる激しい競技に変容していった。 戦術面でも、ボールを保持できず3回以内に返すという制約から時間的猶予が少ないため、あらかじめ決めた作戦パターンから選択するようになった[6][7]。相手のブロックを欺くためのフェイント動作、ブロックに止められることを想定し落下地点に移動するなど、攻撃に参加していない選手も考えながら常に動き続ける競技になっている。また故意にブロック当てブロックアウトを狙うスパイクに対し、ブロック中に指を伸ばさずに通過させアウトにするなど、空中にいる僅かな時間での心理戦も展開されている[8]。 戦略面でも、プロや国の代表チームには技術スタッフとして専門のアナリストが帯同し、対戦相手に合わせた作戦を考案するなど高度化している[6]。 試合中はローテーションや相手の調子などを考慮し、事前に練習した複数のプランから監督が選択する[7]。試合中は個々の選手に声で指示すると間に合わないため、サインや作戦名によって伝達される。多くの場合、セッターが司令塔を務める。戦術を実行するためには、レシーブしたボールをセッターがトスを上げやすい状態で送ることが重要となるため、相手から返ってきたボールをいかに上手く処理するかが重要視される。逆に攻撃側はトスを上げにくくするため、どのようにレシーブを崩すかを重視する。 ルールの変遷当初はレクリエーションとして考案されたことから、ボールを落とさないようにネット越しに打ち合う以外には特にルールはなく、返球までの回数も無制限だった。元になった「ミントン」を踏襲し、サイドアウト制が採用され、これは極東を除いて1998年まで続いた。ネット高は当初6フィート6インチが1900年に7フィート6インチ(229センチメートル)に引き上げられた。 1910年ごろに日本に伝えられたときには、4人×4人の16人、21点制で行われており、1913年の東洋オリンピック、その後の極東選手権大会も同様であった。日本独自のルールとして、12人制ののち、9人制が普及した。これは日本の提案で1923年、1927年に極東選手権にも取り入れられた。アメリカでは1922年までには6人制、15点制、ネット高244センチメートルとなっていた。1930年に日本で導入されたラリーポイント制は1934年の極東選手権でも採用された。 大きな変更は1912年、フィリピンで導入された「3回以内返球」ルールであり、これによりレクリエーションとして考案されたバレーボールは競技スポーツに進化した。このルールはアメリカでも、フィリピンに派遣されていたE.ブラウンの提案により1922年までには導入された。このルールの導入により、初めて公式大会が開催されるようになった。 極東ではネットの高さは初めから230センチメートルであった。女子はほとんど不明だが1931年時点の日本では200センチメートルだった。国際大会と無縁となった日本では1941年、ネット高は225センチメートルに引き下げられた。1955年から1962年まで行われたアジア選手権の極東ルール(9人制)ゲームにおいては230センチメートルで行われた。 国際バレーボール連盟(FIVB)では1947年に6人制の国際ルールを制定した。 FIVB主催の大会における主なルール改正としては、以下のものが挙げられる[9][10][11]。従来はオリンピックのたびに4年ごとのルール変更だったが、1994年からは変更頻度が上がった。 →「ラリーポイント制」も参照
用語→「バレーボールの用語一覧」も参照
技術に関するもの
戦術に関するもの
その他
派生してできたスポーツ屋外
軟式ボールを使用したバレーボールパラバレーボール
ローカルバレーボール
大人数類似スポーツほかにもインディアカは、ネットを介したラリー競技で、素手で行うノーバウンドルールという共通点がある。羽根のついたボールを使用し、4人制など、相違点もある。 バレーボールを題材とする漫画・アニメ・ドラマ
バレーボールを題材とするビデオゲーム
専用体育館2015年、岩手県紫波町に日本初のバレーボール専用体育館ができた[24]。 脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク
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