ヴィエンヌ県
ヴィエンヌ県(ヴィエンヌけん、仏: Vienne、フランス語発音: [vjɛn])は、フランスのヌーヴェル=アキテーヌ地域圏にある県である。県名はヴィエンヌ川に由来する。 地理地域圏の北東部を占め、ドゥー=セーヴル県、シャラント県、メーヌ=エ=ロワール県、アンドル=エ=ロワール県、オート=ヴィエンヌ県と接する。 ヴィエンヌの気候は海洋性気候が支配的である。実際にヨーロッパ大陸の西側にあって大西洋に近く、夏は涼しく冬は穏やかである。県の年間平均気温が14.4℃であることで、上記の理由が証明される。降水量については、県の北部と南部の地理的状況に応じて、600mmから850mmの範囲である。平均年間日照時間は1900時間近い。 歴史フランス革命期の1790年3月4日に設置された83県のひとつで、それまでのポワトゥー、トゥーレーヌ、ラ・マルシュの各州の一部を合併して生まれた。 第二次世界大戦中、1939年9月からモゼル県出身の54,000人の避難民(メスの師範学校の学生も含む)をヴィエンヌ県は受け入れた[1]。加えて、リモージュからポワティエに至る道路沿いには、スペイン内戦を逃れてきた難民を収容する収容所が設置された。さらには1941年にはジロンド県の避難民、1942年にはセーヌ=エ=オワーズ県から疎開した子供たち、1943年のナント地域爆撃の被害者3万人[2]、そして1944年にはシャラント=マリティーム県沿岸地域から強制的に退去させられた人々をも受け入れた[3]。1940年の5月から6月の間、ベルギー政府がポワティエに移転し、議会がリモージュに置かれていた[4]。6月下旬、県は14世紀以来初めて、外国からの侵略の対象になった。県は線で二分され、ドイツ兵2万人が駐留することになったのである[5]。 国道147号線途上、ポワティエ近郊にある流浪者収容所は、1939年よりスペイン難民を受け入れるようになった。また、1940年終わりにはポワティエ駐留のドイツ軍コマンダントゥールにも使われ、ロマの人々が閉じ込められていた。ドランシー収容所へ送られる前のユダヤ人たちを収容していたこともある。コマンダントゥールと県がよく協力していたため、ごく少数のユダヤ人が助かっただけだった。合計で1600人近く(アウシュビッツ強制収容所で殺害されたラビ、エリー・ブロシュも含まれる)がここからドランシ収容所へ送られた。この収容所には共産主義活動家、レジスタンス活動家の配偶者も入れられていた。 戦後、戦争捕虜を県内各地で収容することになり、一部はかつてのドイツの収容所に入れられた[6]。 経済1819年に創業した兵器工場は1968年に閉鎖された。以降、建物は軍事アーカイブの博物館、そしてアイスリンクとして使われている。 人口統計
ギャラリー
出身者
脚注出典
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