京阪神
京阪神(けいはんしん、英:Keihanshin)は、京都・大阪・神戸の3都市の総称、あるいは、これら3都市を中心とした近畿(関西)の主要部及び都市圏を指す地域名称である。 概要一般的に京阪神と言えば、大阪を中心とした京阪神大都市圏を指すことが比較的多い。しかし、場合によっては下記のような例も見られる。 総称としての「京阪神」単純に三都市の名前から一文字ずつ取ったもので、「京阪神三大学(京都大学・大阪大学・神戸大学)」など三都市に限った事象や施設を一つのグループとして表現する際に使用する。
地域名称としての「京阪神」
近畿大都市圏総務省の国勢調査では、2005年まで大阪市・京都市・神戸市の3市を中心市とした絶対都市圏(1.5%都市圏)に京阪神大都市圏と名付けていた[2]。2010年の国勢調査からは政令市となった堺市を中心市に加え、近畿大都市圏の名称に変わった。範囲は右図の 部分に相当し、大阪府全域、兵庫県南部、京都府南部、奈良県北部および南部の一部、滋賀県南部および北部の一部、福井県嶺南の一部、和歌山県の和歌山市・橋本市・岩出市・かつらぎ町、三重県の名張市にまで延び、人口は約1,930万人。 近畿大都市圏は世界屈指の大都市圏とされており、日本国内においては、東京を中心とした首都圏に次ぐ規模である。三大都市圏の一つとされ、近畿大都市圏のGDPは2009年現在で世界第3位であり[3]、2010年の都市雇用圏に基づく大阪、京都、神戸各都市圏の合計の総生産額は63.9兆円となる[4]。この地域の第三次産業では、首位都市の大阪市(人口約270万人)の都心が突出しているため、同市を中心とした都市圏を近畿大都市圏と見なすこともある。一方、大阪市のほかに、京都市(同約140万人)と神戸市(同約150万人)も昼夜間人口比率が100を上回っているため、各々が中心市となって都市圏を形成しているとも考えられる。その立場に立った都市雇用圏(10%都市圏)では、大阪都市圏、京都都市圏、神戸都市圏と、独立した都市圏(相対都市圏)を設定している。これは、東京(東京都区部)の周辺に位置する横浜市・さいたま市・千葉市などの首都圏の政令指定都市がいずれも東京都区部のベッドタウン(衛星都市)としての性格が強いため昼夜間人口比率が100を下回り、独立した都市圏を持たないことに対して異なる点として挙げられる。ただ、堺市は政令指定都市ではあるものの大阪市に隣接し、かつ昼夜間人口比率が100を下回っているため、独立した都市圏を持つには至っていない。なお、近畿大都市圏の他に関西大都市圏や関西圏などの呼称があるが概ね同義である。 また、近代都市はその成長過程で工業を富の基盤とし、労働者を引き寄せて人口集中を実現する例が多い。日本でも高度経済成長期まで、大都市の都市部では第二次産業人口が最も多かった。この観点から、世界的には工業地帯に形成された人口密集地帯を1つの「都市」とする例が見られる。この伝統的な見方に沿う場合、大阪市・神戸市を中心とした阪神工業地帯を1つの都市(阪神都市圏)とし、近代重化学工業を基盤としない京都市(京都都市圏)は独立した都市圏として扱う。このように「阪神都市圏」と「京都都市圏」に分ける例は、国際連合の Urban Agglomeration やプライスウォーターハウスクーパース (PwC) 社の都市圏別 GDP[5]などに見られる。
歴史古墳時代には国内流通の中心である現在の大阪市の難波津・住吉津、中世に渡辺津などがあり、大阪市から堺市に向かう難波大道、堺市から奈良に向かう大津道・丹比道などで結ばれていた。他方、外交が重視される時期や、奈良盆地の既存勢力と距離を置きたい場合には、日本海-若狭湾-琵琶湖-淀川-大阪湾-瀬戸内海の内陸水系物流ルート沿いの琵琶湖南岸以南に都が置かれた。 大伴氏や物部氏などが本拠を置いた場所であり、大阪平野や奈良盆地に天皇(大王)がその在所を置くことが多く、日本の首都となった。難波宮・藤原宮・平城宮・平安宮などの大規模な首都整備、豪族・貴族の在地から首都への集住強制、納税や官人の往来のための官道整備(日本の古代道路)などにより、近畿地方は日本の富が集中する経済地域となっていった。 その後、公家・武家・寺家に権力が分散し、鎌倉幕府の成立によって畿内集中が弱まったこともあったが、室町幕府や南朝が置かれたり、自治都市の大阪市の平野郷や日明貿易により兵庫津や堺(現在の堺市)が伸張して富を集めた。 応仁の乱を皮切りに戦国時代の戦禍に巻き込まれたが、安土桃山時代に入ると織田信長や豊臣秀吉が当地に拠点を築いて経済改革を行い、また、城普請に伴って既に渡辺津や石山本願寺があった跡に大坂城が築かれ城下町が形成された。そして特に秀吉が淀川の改修工事を命じた際に、文禄堤が建設されたことが大坂と京を結ぶ安定した交通路たる京街道に結実し[10]、これらの結果として経済発展が見られた。 江戸時代には、上述の内陸水系物流ルート上の京・大坂(上方)に、海路では西廻海運・菱垣廻船・樽廻船が繋がり、陸路では五街道などが整備されて、近江商人などが日本各地に分散して上方を含み日本の物資の集散地および金融の中心地へと変えた。大坂の陣の被害をうけた大坂であったが、各藩の蔵屋敷が集まり、世界初の商品先物取引所たる堂島米会所が置かれ、遠隔地取引での為替手形も用いられるようになり、大坂は「天下の台所」として再び日本経済の中心地となった。京は富裕層向けを初めとした高付加価値商品生産地、すなわち工業都市として発展し、製品・職人が日本各地へと流れ、付随して京文化の影響を各地に与えた。 明治時代には大きく変容する。幕末の開国により西日本最大の港湾都市となった神戸は近在の兵庫を併呑して膨張し、京都近在の伏見や大阪近在の堺を瞬く間に上回り、さらには京都市をも上回る大都市となった。「天下の台所」と呼ばれた経済都市の大阪市は健在であったが、江戸期以来参勤交代で富裕層の集住に成功して大消費地となった江戸が、東京府となって中央集権体制を確立し、税と外貿で富を更に集めるようになった。また、明治時代、東京にあった明治政府による藩債処分などの影響で大きな打撃を与えられた大阪市であったが、1894年に勃発した日清戦争以後、大阪市は「東洋のマンチェスター」と呼ばれる日本最大の商工業都市に発展し、神戸市は東洋最大の港湾都市へ飛躍するなど、再び日本における文化・経済の中心地となった(阪神間モダニズムも参照)。さらに1923年の関東大震災後には関東からの移住者が多数あり(横浜市や名古屋市や神戸市に移住した者も多数あり)、文化・経済の更なる興隆を見た。一方、神戸市や名古屋市の台頭で三都の地位から引きずり降ろされた京都市だったが、昭和初期に伏見市などを編入して東京市・大阪市に次いで3番目の百万都市となり、面目を保った。また、関西における帝国大学は京都市に設置され、昭和天皇まで即位の礼は京都御所で行われるなど、学術・文化面での中心性は健在であった。しかし、港湾を持たないという決定的な違いから、京都市は観光都市の道を歩むこととなる。 昭和10年代、日中戦争から第二次世界大戦へ突入していく中で近衛文麿政権により戦時体制が作られ、様々な業種が国家の統制管理に置かれる状況となって、近畿や他の地域の企業が統合されて関東に本社を置くことになったり、近畿地方から関東地方へ企業や財閥・資本家の移動が相次いだ。戦後の高度経済成長期には、阪神工業地帯などでの工場・事業所の新設や拡張などで、製造業生産高が増大していくが、東京一極集中による東京への本社や事業所の移転はその後も継続している。さらに工場などの生産拠点も、昭和60年代以降は円高による海外への移転が相次いでいる(「産業空洞化」も参照)。 一方、研究設備や研究成果、教授陣が充実している大学や、関西文化学術研究都市や神戸医療産業都市構想を初めとした産学官連携研究施設が集積しており、経済面の環境が縮小している訳ではない。PwC社のリポートでは、阪神地区の GDP が世界の都市圏の7位、マスターカード社のリポートでは、世界のビジネス都市としての環境の評価で19位を格付けされるなど[11]、世界的には未だ巨大な経済圏である。 地域地理大きな都市圏を形成している京阪神ではあるが、かなり起伏の富んだ地形が広がっている。主に大阪平野を中心に、播磨平野・京都盆地・奈良盆地・近江盆地に広がっている。この点で、起伏の少ない関東平野を中心として放射状に広がっている東京圏と比べると、生駒山地や六甲山地などの山地を挟んで都市が広がっている京阪神は大きく異なっている。
気象予報などの地方区分では、近畿中部に分類される。主に平野部では瀬戸内海式気候、京都府南部・滋賀県南部・奈良県北部・三重県伊賀地方・伊賀地方などの内陸部は内陸性気候に属する。また阪神地域では六甲山から六甲颪、滋賀県湖西地域では比良山から比良おろしが吹き荒れる。また都市地域に広く覆われていることからヒートアイランドがみられ、冬の冷え込みの弱さや夏の猛暑・熱帯夜がもたらされ、その現象によって気候修飾を受ける。 郊外化京阪神では、アメリカ合衆国の例に倣ったインターアーバン(都市間電車)路線の建設が盛んとなった。阪神電気鉄道本線(1905年開業)を嚆矢とし、続く箕面有馬電気軌道(後の阪急宝塚本線、1910年開業)、阪神急行電鉄神戸本線(1920年開業)ほかの各線の開通は、神戸・北摂の未開拓な後背地であった近郊農村地帯への着目のきっかけとなり、快適な住環境創造を目的とする郊外住宅地の開発が、鉄道沿線である風光明媚な六甲山南斜面において進められた(阪神間モダニズム)。その時代の京阪神を描写した文学作品の代表例として、谷崎潤一郎の『細雪』が挙げられる。 また、京都で学び、大阪で稼ぎ、神戸に住むことが関西人の理想である、との言説は谷崎潤一郎や田辺聖子などが言及したとも言われている[12]。 京阪神周辺では、私鉄が多くの路線を敷設し、鉄道会社が中心となって沿線開発が進んでいく。泉州や南河内地域では南海本線が1885年に、南海高野線、近鉄南大阪線は共に1898年開業した。京阪地域では京阪本線が1910年、阪急京都本線が1921年に開業した。阪奈地域では関西本線が1889年に、近鉄奈良線が1914年に開業している(詳しくは関西私鉄も参照)。 昭和末期から平成期に入る頃になると、通勤圏が遠方ギリギリにまで拡大する傾向が目立っている。例えば、兵庫県丹波篠山市や加古川市、京都府園部町、奈良県大淀町、三重県青山町(現・伊賀市)、滋賀県近江八幡市や高島市、福井県若狭町や敦賀市、和歌山県橋本市までも拡大し、兵庫府民・奈良府民・滋賀府民・福井府民・三重府民・和歌山府民という俗語も登場した[要出典]。その後は、都心回帰の傾向から通勤圏の拡大は弱まっている。 経済・学術経済研究機関
京阪神には以下の研究都市が存在する。詳細については、リンク先を参照。
交通現在の京阪神は五畿七道では畿内に相当し、日本の中では他の地域に先駆けて古くから交通が発達していた。こうした交通網の発達は、明治以降鉄道建設や道路整備により京阪神を一体の地域としての性格を強めることに大きな影響を与えた。起伏のある地形や京都市・大阪市・神戸市それぞれが都市としての核であることから、東京都区部や横浜市を核とする首都圏のように、それぞれの都市を中心として環状に交通網が延び、同心円状に拡がっている。 鉄道京阪神三都市間には複数の鉄道会社が路線を敷設しており、サービスや沿線開発においてJRと私鉄、また私鉄同士による熾烈な競合区間となっている。
京阪神周辺の競合区間 道路
経路
港湾主に四つある港湾をまとめたスーパー中枢港湾には「阪神港」という名称がある。 空港脚注出典
関連項目外部リンク
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