宮本輝紀
宮本 輝紀(みやもと てるき、1940年12月26日 - 2000年2月2日)は、広島県広島市宇品(現・南区宇品)出身[2](広島市段原山崎町生まれ[3])の元サッカー選手(MF)・コーチ・監督。日本代表の攻撃的ミッドフィールダーとしてメキシコ五輪銅メダル獲得に貢献し、日本最初のゲームメーカーとも呼ばれる[4][5]。 来歴1945年8月6日、4歳の夏に爆心地から約2kmの段原山崎町で被爆し[3]、一緒に遊んでいた弟を亡くした。張本勲も近所で被爆している。終戦後は宇品に引越して広島市立千田小学校に入学し、千田小の同期に岡光龍三、一学年上に後に山陽高→八幡→新日鐵と同じ道を歩む大石信幸がいた。広島市立国泰寺中学校時代に大学生にサッカーを教えてもらったことがきっかけでサッカー部に転部し[4]、国泰寺中の一学年上に野村六彦、同期に今西和男がいた。宮本と野村は、後の1960年代に「日本を代表する二人のテクニシャン」と称されて誰もが認める存在となるが、その源流は国泰寺中にあった[6]。国泰寺中サッカー部は、当時今西が入部できないほど希望者が多い状況であったが、その中でも宮本の才能は際立っており、広大付属の桑田隆幸とともに地元では有名な選手となっていた[4]。国泰寺中は隣接する国泰寺高校の付属校ではないが、OBが多数進んでいたことから、レギュラークラスを全国有数の名門である国泰寺高校の練習に参加させた[6]。今でいう、Jクラブの一貫教育を昭和30年代に、それも全国レベルの選手たちによって体験させていた[6]。また、国泰寺高校では「全広島対全関西」などの試合が行われ、全日本選手のプレーを身近に見る機会があった[6]。 中学卒業後は野村が進んだ舟入高校へ行く予定であったが、受験制度が変わり、宮本の住む地域からは入りづらくなったため、大石が進んだ創部3年目の新興勢力・広島山陽高校に進学[6]。渡部英麿の厳しい指導を受け、2年次の1957年と3年次の1958年には国体準優勝を果たし、特に1958年は2年連続で決勝対決となった杉山隆一のいた静岡代表・清水東との雨中の死闘は有名である[4][7]。 広島高師出身で東福岡高コーチとしても知られる名将・寺西忠成監督の目に留まり、寺西からの熱心な要望により1959年に八幡製鉄へ入部[3][6]。寺西は広島一中で渡部の1年後輩にあたり旧知の間柄であった関係から、当時の八幡は山陽の一学年先輩の大石をはじめ、主力は広島出身者であった[8]。1959年はクアラルンプールで開催された第1回アジアユースサッカー日本代表にも選出されて3位に貢献し、1960年には19歳11ヵ月でA代表入りを果たす。八幡でもエースとして活躍し、1963年と1964年には全日本実業団選手権2連覇、1964年の天皇杯では古河電工との両チーム優勝に導く。1965年から始まったJSLでも主力選手としてチームを引っ張り、対戦相手はまず宮本をどう抑えるかに苦心した。初年度から2年連続2位の好成績を挙げるなど通算139試合に出場し、通算68得点は歴代6位にランクインしている。この記録は年間14試合しか行われていない時代に残した記録であり、歴代でも上位を争う価値のあるものである[9]。ベストイレブンには6度選出されているが、八幡は社業の悪化で、JSLが発足した1965年直後から新人補強で苦戦。ライバルチームとの差が開き、この後はチームとしてのタイトル獲得はならなかった。1967年には日本年間最優秀選手賞にも選ばれ、1970年にはJSLアシスト王に輝いた[10]。代表では1960年代から1970年代にかけて国内最高のテクニシャンで[11]、そのテクニックは当時の代表の中でも群を抜いていた[4]。東京五輪から代表の頭脳となってゲームを組み立てるようになり、「天才パサー」と呼ばれた[4]。パス1本で相手を窮地に追い込む「元祖キラーパス」は、後の代表司令塔・中田英寿、中村俊輔をも凌ぐと評される[4][12]。前線の釜本邦茂や杉山にパスを供給するのが日本の攻撃パターンであり、当時「パワーの釜本、スピードの杉山、テクニックの宮本」と呼ばれたトライアングルはサッカー選手を志す少年達の憧れであった[4]。表に出ることが好きでない性格で、派手なパフォーマンスは嫌いで口数も少なく[4]、自らゴールを決めた直後も周囲が歓喜する中でつまらなそうにペッと唾を吐き、一人憮然としていたといわれる[4]。北九州市出身の本間勇輔も大ファンだったと話しているほか[13]、後藤健生や国吉好弘らも宮本のプレーを見て感銘を受けたのが、サッカージャーナリストになったきっかけと話している[14]。パスもさる事ながらゴールにも迫りシュートも連発し、振り幅の小さいシュートでゴールを量産してMFながら国際Aマッチ18得点は歴代8位、代表での全試合では歴代4位の47得点(出場192試合、歴代3位)を挙げている。いずれもメキシコ五輪世代では釜本に次ぐ数字であり、そのメキシコ五輪では、中盤の守備の要で主将の八重樫茂生が初戦で負傷。そのため宮本は司令塔でありながら八重樫の代役も兼ねたが、パスを出しながら必死に守備をして縦横無尽に走り回り、メキシコとの3位決定戦では精根尽き果て倒れ込んだ[4][15]。1974年から1975年には選手兼任コーチとして渡辺正監督を支え、渡辺が総監督となった1976年からは渡辺の後任でプレイングマネージャーとなり、1年目のリーグ戦は9位に終わるが、同年の天皇杯でベスト4に導く。1部・2部入替戦では読売クラブの昇格を阻んで残留を決め、現役を引退。 引退後も新日鐵の監督(1977年 - 1979年)を務め、オイルショック後でさらに補強が厳しくチームは低迷したが、JSLカップでは1977年にベスト8、1978年にベスト4と好成績を残す。派手嫌いで実直な人柄で知られ、選手として頂点を極めて引退した後も勤務地である北九州にとどまった。中央に出てくることは無く[4]、国体福岡県代表監督(1981年 - 1985年)・九州共立大学監督(1996年 - 1999年)を務め、九州共立大学では僅か2年で九州大学リーグ1部に昇格させた[10]。1993年からスタートしたJリーグに新日鐵は、地域性から参加を要請されたが参加しなかった。 2000年2月2日、北九州市八幡東区の病院で心不全のため死去[16]。59歳没。2006年に高卒の選手経験者では最初の日本サッカー殿堂入りを果たし、母校・山陽高校の正門に入ると右手に宮本の功績を讃える記念碑がある[3]。 所属クラブ
個人成績
代表歴
出場大会など
試合数
出場
得点数
(誤差は不明) 指導歴
註
関連項目参考文献
外部リンク
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