小城得達
小城 得達(おぎ ありたつ、1942年12月10日 - )は、広島県広島市千田町(現・中区)出身[1]の元サッカー選手(FW、MF、DF)・コーチ・監督。 昭和40年代を代表する名選手の1人であり、釜本邦茂・杉山隆一・宮本輝紀と共に当時のスタープレイヤーの一人[3]。現役時代はフォワードもミッドフィルダーもディフェンダーもこなしたオールラウンドプレーヤーで、日本代表として東京五輪およびメキシコ五輪でフル出場を果たし、メキシコでは銅メダル獲得に貢献。 前広島県サッカー協会会長。 来歴実家は材木店[1][4]を営んでいたが、2歳の夏に爆心地に近い千田町で被爆[1]。倒れた柱と柱が隙間を作り、母と姉と共に助かる[1]。広島大学附属小学校時代はサッカーを楽しむ程度であり、ちょうど広島カープが誕生したため野球が大好きになり、体もひ弱であったため野球に興じる[1]。広大附属中学へ進学すると軟式野球部に入部し、内野や外野どこでも守っていた[5]。1958年に広大附属高校に進学すると当時野球部が無かったため、サッカー部へ入部[5][6]。当時の広大附属は、3年先輩に鬼武健二・大島治男、2年先輩に丹羽洋介、1年先輩に桑田隆幸・野村尊敬、同級に桑原楽之・溝手顕正・船本幸路らがいて、長沼健らを擁した戦後すぐ以来の黄金期と呼べる時代であった[1]。高校に進むと背がぐっと伸びて数人の先輩が卒業すると1年生からレギュラーを掴み、MFとして高校サッカーに出場して山城に1-2で準優勝。2年次の1959年の国体でも浦和市立に0-1で準優勝、3年次の1960年にも高校サッカーに出場して優勝候補と見られていたものの、秋田商に0-1で準々決勝敗退したが大会優秀選手の一人に選ばれる[5]。高校時代に国体、選手権と4度も全国大会に出場するも優勝は無かったが[1]、1960年にソ連の強豪チーム・FCロコモティフ・モスクワが来日して広島市民球場で全広島選抜と対戦することになり、その社会人を含めた全広島選抜のメンバーに高校3年ながら選ばれ、後半から途中出場[7]。一部メディアでは天才少年と評価され[8]、同年には岡野俊一郎監督率いるアジアユース代表に選出されてAFCユース選手権1961に出場[5]。高校卒業後の1961年には桑原と共に中央大学へ進学し、2年次の1962年からレギュラーを掴む[5]。同世代の先輩に野村六彦・片伯部延弘・岡光龍三、同期に桑原、後輩に山口芳忠・水口洋次がいた。1962年には関東大学サッカーリーグ戦・東西学生王者・インカレ・天皇杯の4冠を達成して公式戦無敗を記録し[9]、特に天皇杯での決勝は長沼健・平木隆三・川淵三郎・宮本征勝・鎌田光夫・保坂司と代表選手を揃え3連覇を狙った古河電工を相手にしたものであった[5]。この時の活躍が認められて長沼が率いるA代表に定着し[5]、1963年6月9日の西ドイツ・ジュニア代表戦で代表デビューを果たすと、東京オリンピック直前の合宿で代表レギュラーを掴んだ[5]。1964年の東京オリンピックでは10番を付けたMFであったが、主に相手のエースをマンマークする仕事を与えられ全試合出場を果たし、グループリーグのアルゼンチン戦では決勝ゴールを決めベスト8進出に貢献[5]。177cmと当時としては長身でパワフルと際立った特徴を持ち、デットマール・クラマーから代表の中心選手として指名された[10]。38mも投げるスローインは代表の攻撃パターンの一つであった[10]。 大学卒業後の1965年は多くのチームからの勧誘のある中、故郷の広島に戻って東洋工業に入社[11]。この年からJSLが始まり、山崎芳樹部長、小畑実総監督、下村幸男監督を含めほとんど広島出身者[注 1]という東洋工業は、強い結束力と縦横無尽のパスワークで攻撃的サッカーを展開する[12]。初年度の同年を12勝2分無敗で優勝し、1966年にかけて23連勝とチームは無敵を誇る。1968年までリーグ4連覇の金字塔を樹立し、JSL27回の歴史で最多の5回の優勝を飾った。更に3度の天皇杯制覇(1965年・1967年・1969年)と黄金時代を築いた[12]。その中で小城は主にMFとしてプレーし、高い身体能力を持ち合わせロングパスを駆使するゲームメーカーで、プレースキックやPKの名手とも言われた[5][12][13]。相手チームから小城にはボールを絶対に渡すなとマークされ[14]、1970年には下村にスイーパー(リベロ)にコンバートされる。1965年と1970年には2度の日本年間最優秀選手賞を受賞し、1966年にはリーグ得点王(14うちPK10)で[12]、1971年から1976年まではキャプテンを務めた[6]。1968年メキシコシティオリンピックで、日本は酸素の薄い高地・メキシコに合わせた省エネ作戦を行い、4DFの後ろにスイーパーを置いて5人ないし6人で守り、釜本邦茂・杉山隆一コンビの速攻を生かす作戦で銅メダルを獲得[12]。その中で小城はセンターバックとして活躍、攻撃面でも質の高いロングフィードを前線へ送った[12]。PKの名手としても知られ、1966年JSL2年目のリーグ得点王は、14点のうち10本がPKだった。代表戦でもPKを蹴り百発百中で、相手キーパーの動作を巧みに読み取り失敗することはなかった[1][12][15]。代表では主にDFとしてプレーし、その恵まれた身体能力で相手FWのマークを担当[5][12]。代表戦の出場数は213、うち国際Aマッチは62試合出場で11得点、Cマッチまで合わせると39得点であり、これはメキシコ五世代では釜本や宮本に次ぐ数字である。日本代表史上最強のゲームメーカーとも称されたほか[1]、気性の激しい選手としても知られ、負けん気の強さと地道な努力で、フィジカル・トレーニングを真剣に取り組み強靭な体を作り上げた[5]。「ヤツは重量挙げの選手に転向したんじゃないか」という冗談が囁かれたこともあり、「釜本がキレたら小城が抑えるが、小城がキレたら誰も抑えられない」という逸話も残っている。1976年には1年だけコーチを兼任し、同年に現役を引退。 引退後の1977年には監督として東洋工業を率い、オイルショックの影響による親会社の業績不振に伴ってチームは全盛期から衰退しつつあったが、就任直後にリーグ4位と久しぶりにAクラス入りを果たす。1978年には天皇杯準優勝など一時的に建て直しに成功し、退任後も東洋工業→マツダにそのまま勤務する傍ら、地元のサッカー教室で指導にあたっていた。定年退職後は再びサッカー界に戻り、2007年まで日本サッカーリーグマッチコミッショナーを務めた。2003年より広島市立己斐上中学校でコーチとして活躍している[16]。2005年、野村尊敬のあとを受け広島県サッカー協会会長に就任した[17]。2006年、日本サッカー殿堂入り[18]。2017年、旭日双光章を受章した[19]。 略歴
個人成績
個人タイトル
代表歴出場大会
試合数
出場
得点数
監督成績
脚注
参考資料
関連項目
外部リンク
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