村上城
村上城(むらかみじょう)は、新潟県村上市にあった日本の城(平山城)。別名舞鶴城(まいづるじょう)、本庄城(ほんじょうじょう)。村上市街地東端にそびえる臥牛山(標高135メートル)の頂に築城され、歴代の村上藩主の居城であった。国の史跡に指定されている。 概要臥牛山に初めて城が築かれた年代は定かではないが、戦国時代(16世紀初頭)に、越後揚北衆の本庄時長あるいは息子の本庄房長によって築城されたとみられている。当時は本庄城と呼ばれており、木柵で防御された中世式の城郭であった。永禄11年(1568年)、城主本庄繁長は上杉謙信に反旗を翻す。1年に亘り籠城し、謙信に抵抗した繁長であったが、伊達氏、蘆名氏の斡旋を受け入れ、嫡子顕長を人質に出し、所領を一部没収されることで講和を受け入れた。 慶長3年(1598年)、本庄氏の会津転封にともなって、堀秀治の家臣・村上頼勝が領主となる。村上氏によって始められた近世城郭への改築工事は、堀直寄の時代に完成を見た。堀氏の時代には3重の天守が建てられ、また城下町の構えや町割りも整備された。 慶安2年(1649年)に姫路から松平直矩が入城。寛文年間に村上城は大規模に改修された。天守・櫓等が新たに造り直されたが、ほどなく寛文7年(1667年)の落雷により天守等を焼失。以後、城主が転々と変わったこともあり、天守が再建されることはなかった。天保年間(1830年-1844年)に居館が解体され長法寺本堂に再利用されている。 幕末の戊辰戦争では、内藤家の村上藩は親幕府派と新政府派で意見が分かれて分裂状態となり、慶応4年(1868年)、官軍に抗しきれないとみた親幕府派の藩士が山麓居館に火を放って庄内方面へ脱出。庄内藩兵と合流し、新政府軍と羽越国境で交戦した。 明治3年(1870年)新たに成立した「村上県(後に新潟県に合併)」知事となった内藤信美は、焼け残っていた城郭の破却を政府に届出し、受理された。この時点ではまだ城下の諸門や石垣はほとんど無傷で残っていたというが、それも明治8年までに解体・売却された。今でも村上市内には、このときに売り払われたと見られる石垣の一部が、民家の庭石や塀の礎石として残っている。 第二次世界大戦後の高度成長期には城下の土塁や堀は損なわれ、市中も区画整理されて城下町の面影が薄くなった。 現在の臥牛山は、小学校の遠足で登られる程度の場所で、それ自体は観光の対象とはなっていないが、城山に関しては、旧藩士の子孫らによって発足された「村上城跡保存育英会」が長年維持、管理に当たってきた。村上城跡は1960年(昭和35年)に新潟県指定史跡、1993年(平成5年)には国の史跡に指定され、現在では行政の手も借りて維持、管理が進められている。 歴史・沿革
観光所在地
アクセス
脚注
関連項目外部リンク
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