玄蕃尾城
玄蕃尾城(げんばおじょう)は、福井県敦賀市刀根と滋賀県長浜市余呉町柳ヶ瀬の県境にあった日本の城(山城)。内中尾山の山頂にあり内中尾山城ともいう[1]。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいて、柴田勝家の本陣が置かれた[1]。平成11年(1999年)7月13日に「玄藩尾城(内中尾山城)跡」として国の史跡に指定されている[2]。また2017年(平成29年)4月6日、「続日本100名城」(140番)に選定された。 概要湖北から北庄への北国街道(現在の国道365号)と、そこから分岐する刀根越の道の双方を抑える要所に位置している[1]。すぐ南に位置する刀根越(倉坂、久々坂ともいう)は織田軍と朝倉軍が戦った刀根坂の戦いの舞台である。さらに南側には行市山がある。 築城時期は諸説あり、本能寺の変後に柴田勝家が豊臣秀吉との戦いに備えて築城したとされるが、天正6年(1578年)頃に越前衆を動員して築城されたともいう[1]。 勝家の本陣となった城は「玄蕃尾城」と呼ばれているが、史料にこの名があるわけではない[1]。『近江国與地志略』によると勝家の陣から行市峯(行市山)までの一里半にわたって幅三間の作道が整備されたといい、地元では勝家の家臣・佐久間玄蕃允盛政によって連絡のために開かれた尾根道と伝わる[1]。この尾根道は「玄蕃ヶ尾」と呼ばれ、転じて本陣の城の名も「玄蕃尾城」と呼ばれるようになった[1]。 各郭の機能分化や配置、馬出(城門前の土塁)の完成度などから、織豊系山城の最高水準と評価されており、勝家の撤退後は手付かずだったため遺構が良好に保存されている[1]。一方で史料の少なさから長らく位置は不明となり、帝国陸軍が陸戦の参考に現地を調査しようとしたが発見できなかった[1]。のちに東愛発小学校に赴任し、敦賀市史の編纂に加わった教員が伝承を頼りに山中を探索して城跡を発見した[1]。 山城の構造基本構造は南北に並んだ主要な4つの郭であり、土橋で連結され、その広がりは南北約250m、東西約150mに及ぶ。すべての郭を高土塁で囲み、主要な部分は土塁と空堀の多重防御を施している。また、主郭には2つの馬出郭、1つの張出郭が備わっており、腰郭も近傍に位置する。主郭の北東隅には、方形の一段高くなった箇所があり、櫓もしくは天守のような建造物があったと推定される。主郭部の南側には、食い違いや曲がった隘路を設けた虎口郭が2つ直列しており、刀根越からの敵を迎え撃つ造りとなっている。主郭部北側の搦手の郭は最大の広さを持ち、兵糧などの物資や兵の駐屯のためのスペースであったと考えられる。全体として完成度が高く、山城の最高水準の到達点の一つであるといえる。 歴史
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脚注参考文献
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