苗木城
苗木城(なえぎじょう)は、岐阜県中津川市苗木にあった日本の城。 別名は霞ケ城。苗木藩の藩庁が置かれた。国の史跡に指定されている。 概要苗木城の城域は、城郭の主要部である内郭部分が約2万㎡、外郭部も含めると約35万㎡に達し、その内156.774㎡が、昭和56年(1981年)に国の史跡に指定された。城跡は中津川市内を東西に流れる木曽川の北岸に聳える城山(432m)にある。木曽川から山頂の天守跡までの標高差は約170mあり、自然の岩山の地形を有効に生かして造られた山城であった。 苗木城の特徴として、岩山という地形に制約されて利用できる平坦な土地の確保が困難であったため、巨岩等を利用した上での建物の建築方法(懸造)であったこと、また石垣には多種類の積み方が見られることが挙げられる。 歴史背景築城背景
武田氏、織田氏、森氏の苗木城攻め
安土桃山期
明治以降
遺構
伝説「赤壁城」の別名があり、城の壁は白漆喰ではなく赤土がむき出しになっていたと伝えられる。その理由については、木曽川に住む竜が白い色を嫌い、何度漆喰を塗り直しても嵐を起こしてはぎ取ってしまったという話が残されている。 また、中部日本新聞(後の中日新聞)夕刊に1960年代前半に掲載されていた「ふるさとの童話」という記事にも同じような物語が紹介された。苗木城は美しい白壁の城として完成したが、一夜明けると漆喰が全部落ちて赤土が露出している。何度塗りなおしても、朝になると同じことであった。殿様は、犯人を見届けてやろうと、一人で夜の天守閣で見張っていた。すると、夜空が掻き曇って雨風が出て来たかと思うと、恐ろしい大きな竜が現われ、熱い息を城に吐きかけると、たちまち壁が落ちてしまったという。実際には、苗木藩が経済的に弱体で漆喰を塗る経費が捻出できなかったとされる(幕末期に1万石で城持ちの藩は苗木藩のみである)。 城下町城山の北麓に存在していた。濃陽徇行記に、「町屋四町ほど続き、北より入り又東へ曲がり上町、下町という。東の町はづれに城門あり、上地にゆくには城門へ入り、直に天守台の下を通る坂をつづら折りに下る。四十八曲とあるといふ。坂の下り口に城の南門あり、門さきの渓流に欄干橋あり、此あたり勝景なり」と記されている。 苗木の武士の住居については、遠山家に残る士族屋敷の分布地図でみる限りでは、城を中心に城域内外に点在していたことがわかる。従って他領でみられるように、家臣を強制的に城下へ集める移住策はとっていないと考えられる。 遠山家の史料で見る限りでは、町は大別して上町門から上町、新町、下モ丁(町)、鉄砲町と町屋を作っていたことがうかがえる。そしてこの町屋の中に士族屋敷も混在し、下モ丁に多く見られる。 城下の町屋の発展については、詳細は不明だが、1883年に書かれた「苗木村旧上地村明細記幷遠山家年中行事藩士旦下々迠役名掟其外雑書名産荒増記」(新田家蔵-以下「苗木村明細記」-)によってみると、 (上町) 元禄の頃までは町屋が九軒であったが、追々町屋が建並び新町、本町、柳町と発展した。上町は明治以降上之町と改称された。 (新町) 北溪から梛(なぎ)へ行く四つ辻のところを広小路という。寛政年中は町屋があってせまい所であったが出火し、類焼してより火除地となり、広小路と呼ぶようになった。明治以後は本町と改称された。 (鉄砲町・足軽町) 本町の角を曲がった所から昔は鉄砲町・足軽町といい、足軽等が住んでいたが、年月を追うに従って町屋になって来た。鈴垣外への分れ道より下手の方は、三・四軒あって片側町であったが、文政年中建続き両側の町屋となった。 (柳町) 本町二丁目(明治一六年)折れ曲がった下の方を柳町という。文政二己卯年、高山村住居の木屋吉右衛門という者が遠山家に願い出て織屋を始めようと町屋を建てたので町名も卯年の卯に木屋の木を組み合わせて柳町とつけた。 武士と町屋との行き来については、前述「苗木村明細記」によると、武士は町屋へ自由に出入りすることは許可されていなかったと言うことで、買物等で出入りすることは苦しからずということであった。また城下町で芝居興行などがあり、村々での芝居狂言がある場合でも武士は勿論家族までも見物してはいけないという達しがあった。しかし遠山家奥方が見物される時は、武士もその家族も見物勝手という達しがあった。 関連画像
脚注参考文献
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