金山城 (美濃国)
金山城(かねやまじょう)は、岐阜県可児市(美濃国可児郡兼山)にあった日本の城(山城)。城跡は「美濃金山城跡」(みのかねやまじょうあと)として、2013年(平成25年)に国の史跡に指定されている[1]。 概要城郭の形式は梯郭式山城。「兼山城」と表記されることが多い。1967年(昭和42年)に岐阜県指定史跡に指定され[2]、2013年(平成25年)に国の史跡に指定された。 標高約277メートルの古城山の山頂に築かれ、天守台を山頂に配置し、本丸を中心に二の丸、三の丸、南腰曲輪、西腰曲輪が連郭式に配され、天守台北東側に東腰曲輪と称する一郭がある。 歴史築城天文6年(1537年)、斎藤道三の養子である斎藤正義が、烏ヶ峰に築城を行った[3](烏ヶ峰城[3]、 天文17年(1548年)、斎藤正義は近隣の久々利城主土岐悪五郎によって討たれた[4]。その後は土岐十郎左衛門が留守代を務めたという[4]。 森家の居城永禄8年(1565年)、織田信長は烏ヶ峰城を奪取し、家臣の森可成を城主に据えた[3][4][5]。森可成はこの城を金山城と改称し[3][4][5]、城下町の建設に着手した[3]。 元亀元年(1570年)に近江宇佐山城の戦いで可成が戦死した[4]。その直前に長男の可隆も戦死を遂げていたため、次男の長可が13歳で跡を継ぎ城主となった[4]。長可は、塩や海魚を扱う市場である「魚屋町」、諸商人を集めた「下モ町」(現在の常盤町)、諸職人を集めた「古町」(現在の下町)、船頭・仲仕や船宿を集めた船着場渡り町(現在の下町)を設けるなど、城下町を整備した[3]。 天正10年(1582年)、長可が信濃国川中島(北信地方)に転封されると、弟の森成利が入る。しかし成利は同年中に本能寺の変により討死し、また長可も情勢不安の川中島を捨てて戻って来たため、再び長可の領地となる。天正12年(1584年)に長可が小牧・長久手の戦いで戦死すると、可成の六男の忠政が城主となる[4]。 関ヶ原の合戦前の慶長5年(1600年)、森忠政は川中島藩に転封された[4][5]。 関ヶ原前後→「金山藩」も参照
森氏が去った後、金山城は犬山城主石川貞清が兼帯して支配することとなった[4][5]。津田正房『正事記』などには[5]、金山城の建物が解体され、天守は犬山城の天守として移築されたという伝承(「金山越」という[5])が載せられていたが[5]、1961年(昭和36年)の犬山城天守の解体修理の際に調査が行われた結果、移築の痕跡がまったく発見されなかったため、移築説は現在は否定されている。 関ヶ原の合戦後、西軍に与した石川貞清は除封された。松平忠頼(武蔵松山藩主、1万石)が犬山城番となり、金山城の在番も務めた。この際、金山領1万5000石が忠頼に与えられており[6]、「金山藩」2万5000石が成立したと見なす見解もある。忠頼は慶長6年(1601年)に遠江浜松藩に移された[6]。 廃城松平忠頼が去ったのち、金山城は犬山城主・小笠原吉次の所有となった[4]。慶長6年(1601年)頃に金山城は破却されたとされる[4][5]。 金山村はその後、幕府領を経て、元和元年(1615年)より尾張藩領となったた[7][5]。城跡は留山となった[5]。明暦2年(1656年)、「金山村」は「兼山村」と改められた[7]。 近現代明治以後、城跡一帯は国有地(官有林)となった[5]。1953年(昭和28年)に兼山町に払い下げが行われた[5]。山上部は岐阜県史跡に指定された[5]。 2006年(平成18年)可児市が約5年かけて兼山城の発掘調査を行った。当時の茶碗や瓦等の多くの遺物が出土した。 2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(143番)に選定された。 遺構遺構には曲輪、土塁、井戸、堀、石垣などの一部が残り、本丸には石碑が建てられている。城の建造物は慶長5年(1600年)に解体され、麓の兼山湊から木曽川を通じて犬山まで運び犬山城の改修工事に利用されてしまったが、犬山市の瑞泉寺に二の門が、可児市兼山に裏城戸門が移築現存している。
構造本丸(天守台)古城山の山頂部に位置し、兼山城の中枢となっていた。周囲は土塀に囲まれ、北側に天守を設け、隣接して南東側に小天守、さらに小天守の南西側に袖櫓が隣接していた。そして、中央部に本丸御殿、南西側に西南隅櫓を設けていた。天守と本丸御殿の間に建物の礎石が見つかっているが、詳細は不明である。現在は鳥竜神社となり、本丸の北西側には石碑が建てられている。
なお、かつては金山城の天守が犬山城に移築されたとの説があったが、そのような痕跡はないことが近年の調査でわかった。
大手枡形二の丸から本丸へ登る途中にある門や土塀に囲まれた空間。南側正面に大手門、大手門を過ぎて右手の石段「3段」の上に二の門が設けられていた。規模は南北約9メートル、東西約12メートル。普段は武士達への威厳を示す場所であり、ここまで来た武士は呼吸を整えながら、本丸へ登るために衣紋の乱れなどを直していた。
二の丸南腰曲輪の南側に位置する郭。家臣団の屋敷(侍屋敷)が設けられ、南側に見張櫓、北側に二の丸門が設けられていた。
三の丸西腰曲輪の南側に位置している郭。厩などが設けられていたと考えられており、中央部に見張櫓、南側に三の丸門が設けられていた。
出丸兼山城の第一防衛線のため大手口に築かれた曲輪。城内で唯一独立している郭で、規模は東西約50メートル、南北約43メートルで城内で最も広い曲輪である。北側は高さ約3メートルの土塁で築かれ、南側は高さは約3.4メートルの石垣で築造されている。出丸の石垣は城内で現存する石垣の中で最も古いといわれている。現在は近くに駐車場があるため他の郭と比べて比較的整備されている。
南腰曲輪本丸の南側に位置している郭。規模は320平方メートルで中央部に武器櫓が設けられていた。南側に共同アンテナが建てられている。
西腰曲輪三の丸の北東側に位置している郭。規模は約265平方メートルで三の丸見張櫓の石垣の残石などが散乱している。三の丸見張櫓との間に水手門が存在した。
東腰曲輪本丸の東隣に位置している郭。北側には東西約10メートル、高さ約3メートルの石垣を構築し、石積手法は野面積で出丸の石垣とともに城内で最も古いといわれている。面積は東西約21メートルの330平方メートルで天守台の石垣の隣に天水井戸が設けられていた。
帯曲輪本丸の南側に位置している郭。南東隅に搦手門が設けられていた。規模は長さ約20メートル、幅約5.6メートル。
その他
現地情報所在地交通アクセス(登城口)
脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク
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