河野多惠子
河野 多惠子(こうの たえこ、1926年(大正15年)4月30日 - 2015年(平成27年)1月29日)は、日本の小説家。本名・市川多惠子(旧姓・河野)。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階は従三位。 心身の被虐をテーマにした『幼児狩り』(1962年)で認められ、『蟹』(1963年)で芥川賞を受賞。以後、自身の性を客観視できる作家として、文壇的地歩を固めた。ほかに『不意の声』(1968年)、『回転扉』(1970年)など。 来歴・人物生い立ち大阪府生まれ。西道頓堀の椎茸問屋の娘[1]。1947年(昭和22年)旧制大阪府女子専門学校経済科(新制大阪女子大学の前身、現大阪府立大学)卒業[2]。1950年(昭和25年)、丹羽文雄主宰の『文学者』同人となる。1961年(昭和36年)『幼児狩り』で注目され、1963年(昭和38年)『蟹』で芥川賞を受賞する。1989年(平成元年)、日本芸術院会員。大庭みな子と共に女性初の芥川賞選考委員となり、1987年から2007年まで務めた。 小説家として谷崎潤一郎の衣鉢を継ぎ、マゾヒズム、異常性愛などを主題とする。また『谷崎文学と肯定の欲望』(1976)で読売文学賞を受賞するなど谷崎の読み手としても知られ、『谷崎文学の愉しみ』などの評論を書き継ぐほか谷崎潤一郎賞選考委員を務めた経験もある。また平林たい子を高く評価し[3]、平林たい子記念会理事長を務めた。 夫は洋画家の市川泰(洋画家)(別名・ヘンリー市川、1925 - 2012)。 最晩年の谷崎が文京区関口の目白台アパートという高級マンションに住んでいた時、瀬戸内晴美が同じ階にいたので河野が来て、これが谷崎先生の部屋だと教えられてドアに口づけしたら、部屋を間違えていたなどということもあった[4]。 『男友達』を出した時、「ベッドシーンだらけだ」と批判され、計算したら20%だったので反論文を書こうとして瀬戸内に相談すると、竹西寛子にも相談したらいいと言われ、竹西は、作家としてそういうことをしていいのは三回だけ、と言ったのでやめにした[5]。 1990年、永山則夫が日本文芸家協会に入会しようとした際反対し、「そんな人が入ってきたら、あたし、怖いわよ」と言ったとされる[6]。 2015年1月29日、都内の病院で呼吸不全のため死去[7][8]。88歳没。没後に従三位を追叙された[9]。 略年譜[10]
賞詞
著書
共著外国語訳
脚注
関連項目 |