田中小実昌田中 小実昌(たなか こみまさ、1925年(大正14年)4月29日 - 2000年(平成12年)2月26日)は、日本の小説家、翻訳家、随筆家。直木賞・谷崎潤一郎賞受賞[1][2]。 来歴・人物東京市千駄ヶ谷生まれ[1][3]。父・田中種助はバプテストの神学校を出た東京市民教会の牧師[2][4]。40歳の種助と46歳の母・マサ子の長男として生まれる[5][6]。父の転勤で4歳から広島県呉市東三津田町で育つ[1][2][3][4][7][8]。7歳のとき、父が呉三津田の山に「アサ会」という十字架のない独自のキリスト教教会を創立[5][6][9]。 実家近くの広島県立呉第一中学(現・呉三津田高校)を受験するが失敗し、旧制西南学院中学に入学[4]。母親の意向で一年後に呉第一中学の編入試験を受け2年から転校した[4]。同級に井上忠[10][11]。同校四年修了で旧制福岡高校に入学[12]、在学中、1944年12月、19歳で出征し山口県の連隊に入営[3][4]。中国の湖北省と湖南省の境で、粤漢線鉄道警備の部隊に編入され、苦しい行軍の中でアメーバ赤痢、マラリア、コレラに罹る[1][4]。特徴的なツルツル頭はその後遺症ともいわれる[4]。敗戦直前にアメーバ赤痢の疑いで野戦病院に移送となり終戦。1946年に呉市に戻り旧制福岡高校を繰上げ卒業、同年東京大学文学部哲学科に無試験入学するもほとんど出席せず、米軍基地の兵舎のストーブマンなどをしたあと、1952年に除籍となる。 大学在学中から渋谷の東横デパートの4階にあった軽演劇の劇場「東京フォリーズ」[注釈 1]の文芸部員として働き、ここが火事で解散になった後はバーテンダー、啖呵売、易者などの職業を転々とする[1]。この間、香具師の体験を綴った「やくざアルバイト」が「二人の東京大學生の手記」として『文藝春秋』に掲載されたこともある[15]。また進駐軍用将校クラブでバーテンダーをしていた時、酒瓶がなくなる事件があり、窃盗容疑で起訴された。当人は勝手に酒瓶を開けて飲んではいたが、持ち出してはいないと主張したが、簡易裁判所で罰金刑を受けた。 1950年に進駐軍横田基地で職を得る。1954年からは丸の内の三菱仲7号館にあった米軍の406医学研究所の生化学部の仕事に従事。そんな中、1956年からは旧制福岡高校の先輩に当たる中村能三の紹介で早川書房で推理小説の翻訳を担当。最初に手がけたのはジェームズ・M・ケインの「冷蔵庫の中の赤ん坊」だった。その後はいわゆる「軽ハードボイルド」を中心にハードボイルド作品を多数、翻訳[1]。レイモンド・チャンドラーの翻訳は、主に清水俊二が手がけていて「定番」となっているが、田中も一部の作品を訳しており、田中訳の方が誤訳が少ないとの評価もある[注釈 2]。米軍を辞職して後は、ほとんど翻訳はしていない。 1952年『新潮』に「上陸」を発表、66年に「どうでもいいこと」を『文學界』に発表しているが、1967年以降、『オール讀物』『小説現代』などに大衆小説を発表し始め本格的に作家活動に入る。1971年、『自動巻時計の一日』で直木賞候補。1979年、「ミミのこと」「浪曲師朝日丸の話」の2作品で直木賞を受賞。ただしこの2作品を雑誌に発表したのは1971年で、単行本『香具師の旅』に入ったため候補になったもので、異例である。同年、戦争体験や父の姿に題材を取った短編集『ポロポロ』(表題作は77年発表)で谷崎潤一郎賞も受賞した[1]。 禿げ頭に手編みの半円形の帽子をかぶり、夏には半ズボンにサンダル履きというラフな格好を好み、「コミさん」の愛称で親しまれる。すっとんきょうな表情で、またウィットに富んだユーモアで場を和まし、往年の深夜番組『11PM』をはじめとして、テレビドラマ、映画、CMといった様々な場面で活躍。ピンク映画でカラミを演じた事もある。 赤ちょうちんがぶら下がる酒場を庭とするような庶民派で、新宿ゴールデン街(東京都)の常連としてならした[注釈 3]。午前中に原稿を書き、午後は映画会社の試写室で映画をみて、夜は家か飲み屋で飲む、という日常を送っていた。ゴールデン街では、10軒は飲み歩いたという[4]。孫の田中開が2016年にゴールデン街にレモンサワーに特化したバー「The OPEN BOOK」を開店した[19][注釈 4][20]。家ではブドウ酒、外で飲むのは、もっぱらジンのソーダ割り[4]。映画の試写会がない週末には、目的もなくバスに乗っていた。海外に滞在したときも、毎日バスに乗っていた。1986年から逝去した2000年まで、東京都練馬区早宮で暮らした[21]。 2000年2月26日(日本時間2月27日)、滞在先のアメリカ・ロサンゼルスにて心臓発作で入院し、肝不全で客死した[5]。74歳没。 「ボチボチ書いているだけ。いいかげんな男なんです」と、飄々としていながら自虐的ともとれるような独特の醒めた味わいの言葉を残す。作風のほうもそうしたスタンスに準じたものであった。毛糸で編んだ帽子がトレードマークであった。 親族
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出典
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