皆川博子
1929年12月8日[3]あるいは1930年1月2日[1][4][5] -)は、日本の小説家。様々なジャンルにわたる創作活動を行うが、中井英夫や赤江瀑などの作家への敬愛から生まれた幻想文学、または幻想的なミステリにおいて知られる。 (みながわ ひろこ、来歴朝鮮京城に生まれるが、京城帝国大学医学部助教授だった父親が東京渋谷に医院を開業したのを機に、生後3か月で東京に移る[1][5]。東京女子大学外国語科英文学専攻に入学するが、1949年(昭和24年)、病気のため2年で中退する[5][1]。1952年(昭和27年)に結婚する[5]。 幼いころからの読書好きで、主婦業のかたわらミステリー小説を濫読していたが[5]、高校生の娘が交換留学で1年間オーストラリアへ行くことになり、突如執筆意欲が湧いて物語を書き始め、1970年(昭和45年)、「川人」で学研児童文学賞を受賞する[6][7]。 1972年(昭和47年)、『海と十字架』で児童文学作家としてデビューする[1]。また江戸川乱歩賞に作品を応募し最終選考に残るが落選したものの、そのときの選考委員の一人の南條範夫が「普通の小説が書けそうだから」と『小説現代』の編集長に皆川を推薦し、編集長から小説現代新人賞に応募するように言われる[6]。最初の応募作は最終候補どまりだったが、1973年(昭和48年)、「アルカディアの夏」で小説現代新人賞を受賞する[8]。受賞後第一作として発表した「トマト・ゲーム」が1973年の直木賞候補となり、1976年(昭和51年)に書き下ろし歴史長編『夏至祭の果て』も直木賞候補となった[5]。 1985年(昭和60年)、『壁・旅芝居殺人事件』で第38回日本推理作家協会賞を受賞、1986年(昭和61年)、『恋紅』で第95回直木賞を受賞する[5]。1990年(平成2年)、短編集『薔薇忌』で柴田錬三郎賞を受賞、1998年(平成10年)には『死の泉』で吉川英治文学賞を受賞する[5]。 2012年(平成24年)、『開かせていただき光栄です』で第12回本格ミステリ大賞を受賞、2013年(平成25年)、第16回日本ミステリー文学大賞を受賞する[9]。 2015年(平成27年)には文化功労者に選出される[10]。2022年(令和4年)には第63回毎日芸術賞を受賞した[11]。2024年(令和6年)、『風配図 WIND ROSE』で第34回紫式部文学賞を受賞した[12]。 人物父は正心調息法の創始者の医師で、心霊研究者でもあった塩谷信男。父の影響で幼少期に霊媒をさせられたこともあるという。弟に北里大学医学部名誉教授の塩谷信幸、伝奇・SF作家の塩谷隆志、 再従弟に脚本家・演出家の福田陽一郎がいる。木崎さと子は従妹(母の兄の次女)で、少女時代に文学教育をほどこした。 作風『海と十字架』で児童文学作家としてデビューした後、推理小説・サスペンスに転向。当初は男女の奇縁を現代的な道具立てを用いてサスペンスフルに描く作風だったが、『光の廃墟』で浪漫的な異国譚、『花の旅 夜の旅』でトリッキーな本格ミステリに挑むなど、後年の作品に続く志向もみせている。 80年代は幻想文学にも創作をひろげているが、編集者にノベルスブームへの迎合を依頼されて、一般的な「ミステリー」の創作をおこなうこともあった。 新本格ミステリのムーヴメント以降再評価が始まり、千街晶之・東雅夫・日下三蔵の三名によってアンソロジーが編まれたり、文庫での再版も行われている。同時に新作の執筆も活発化し、80代とは思えぬペースでの発表が続いている。 受賞・候補歴太字が受賞したもの
作品リスト著書1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
アンソロジー「」内が皆川博子の作品
映像化作品映画テレビドラマ
解説角川書店 文藝春秋 中央公論新社 集英社 講談社
光文社
新潮社
祥伝社
東京創元社 白泉社文庫
ハヤカワ文庫―クリスティー文庫
本の雑誌社
徳間書店
龜鳴屋
河出書房新社
アスペクト
出典
参考文献
関連項目外部リンク |