石川要三
石川 要三(いしかわ ようぞう、1925年〈大正14年〉7月6日[1] - 2014年〈平成26年〉6月21日)は、日本の政治家。位階は従三位。勲章は勲一等瑞宝章。 防衛庁長官(第49代)、衆議院議員(8期)、衆議院内閣委員長、東京都青梅市長(2期)、青梅市議会議員を務めた。 概要東京府西多摩郡(現東京都青梅市)生まれ。旧制府立第二中学校(現東京都立立川高等学校)を経て1951年早稲田大学政治経済学部卒業後、西東京バス株式会社取締役、青梅市議会議員などを経て、1967年に青梅市長選挙で初当選した。1975年まで市長を2期務め、1976年に第34回衆議院議員総選挙に旧東京11区から出馬し、当選した(当選同期に愛知和男・鳩山邦夫・中村喜四郎・中島衛・西田司・池田行彦・堀内光雄・相澤英之・津島雄二・鹿野道彦・塚原俊平・中西啓介・与謝野馨・渡辺秀央・中川秀直・甘利正らがいる)。福田派を経て、鈴木派に所属。 1981年、鈴木善幸改造内閣で環境政務次官。1982年、第1次中曽根内閣で外務政務次官に就任。自民党国際局長、衆議院内閣委員長などを経て1990年、第2次海部内閣で防衛庁長官に任命され、初入閣[2]。防衛庁長官在任中、私邸が放火による火事で全焼する被害に見舞われた。 1993年の第40回衆議院議員総選挙では次点で落選する。1996年、小選挙区比例代表並立制の導入に伴い、東京都第25区から出馬し、当選。1998年、宮澤派会長の宮澤喜一元首相は加藤紘一に派閥を禅譲したが、これに反発した河野洋平らが宮澤派を離脱し、大勇会を結成。石川も宮澤派を退会し、大勇会に参加した。2000年の第42回衆議院議員総選挙では東京25区で民主党の島田久を破り、再選を果たした。2003年の第43回衆議院議員総選挙には出馬せず、政界を引退した(東京25区の地盤は井上信治が継承)。 2014年6月21日午前6時15分、肺炎による急性呼吸不全のため東京都青梅市内の病院で死去した。88歳没[4]。叙従三位。 世界連邦運動推進団体である世界連邦日本国会委員会の会長(第12代)および事務総長(第8代)を務めた。 関連項目脚注
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