館林市(たてばやしし)は、群馬県南東部にある市。昭和の大合併(1954年)に旧邑楽郡の1町7村が合併して市制施行。上毛かるたで「ツル舞う形」と喩えられた群馬県の「ツルの頭」に位置する。
関東大都市圏に属する[1]。また近隣の町などから労働人口流入があり、本市を中心とする館林都市圏を形成している。
概況
今から約2万年前に館林に最初に人々が住み始めた事が確認されている。中世になると赤井氏、長尾氏、由良氏などが館林を本拠地とし、最終的には1590年に徳川四天王の一人である榊原康政が関東以北への押さえとして館林城に入り城下町を整備した。江戸時代の第五代将軍徳川綱吉が城主だった時期(25万石)もある。近隣農村からの農産物の集積地であったことや水が豊富であったことから明治維新後に近代的設備の加工業が興り、いちはやく近代化が進んで栄えた[2]。
農業では米や麦のほか、キュウリ、トマト、ナス等の野菜の生産が盛んである[3]。特に小麦が多く取れたことから、うどんなど小麦粉に関する食文化が発展し、食品会社の工場も多く立地している[4]。
ツツジの名勝・つつじが岡公園や、全国的に有名な分福茶釜の物語で知られる茂林寺、日本遺産「里沼」などの観光地がある[4]。
群馬県の平成の大合併以前からあった市としては、唯一市町村合併を行わなかった市であるが、邑楽郡大泉町を除く邑楽郡4町との合併に向けた研究会を設置していた。七五三は、館林城主徳川徳松の健康回復を願って1681年に始まったものが全国に広がった。
地理
東毛地域と呼ばれる群馬県の東部に位置し、市域の北部は渡良瀬川を隔てて栃木県佐野市及び足利市、東部は群馬県邑楽郡板倉町、南部は明和町及び千代田町に、西部は邑楽町に接する。
南北を渡良瀬川、利根川の2大河川に挟まれ、鶴生田川が市街地を東西に、市西部を多々良川、近藤川が南北に流れ、茂林寺川、新堀川、新谷田川、谷田川が市南部を貫流している。城沼、多々良沼、近藤沼、茂林寺沼などの沼が点在する低湿地帯と台地(大宮台地から切り離された館林台地、主に低台地)から成り立っている。
人口
館林市の総人口は2005年(平成17年)に79,454人となったのをピークに減少傾向が続いている[3]。
2020年の令和2年国勢調査によると、館林市の人口は75,309人、総世帯数は31,643世帯である[5]。
(2007年7月1日現在)
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館林市と全国の年齢別人口分布(2005年)
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館林市の年齢・男女別人口分布(2005年)
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■紫色 ― 館林市 ■緑色 ― 日本全国
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■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性
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館林市(に相当する地域)の人口の推移
1970年(昭和45年)
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61,130人
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1975年(昭和50年)
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66,410人
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1980年(昭和55年)
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70,245人
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1985年(昭和60年)
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75,141人
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1990年(平成2年)
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76,221人
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1995年(平成7年)
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76,857人
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2000年(平成12年)
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79,371人
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2005年(平成17年)
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79,454人
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2010年(平成22年)
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78,608人
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2015年(平成27年)
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76,667人
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2020年(令和2年)
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75,309人
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総務省統計局 国勢調査より
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気候
冬から春先にかけて北風(からっ風、赤城おろし)が吹き、夏は雷が多く発生する。
また、他県境付近の市(埼玉県熊谷市、群馬県前橋市など)と同様、夏の時期には40°C近い猛暑に見舞われることがある。
これらの猛暑の発生は、発達した太平洋高気圧がもたらす温かい大気が、当市の北西にある赤城山方面から、熱風となって吹き降りるフェーン現象のためである。
2001年から市民一斉気温測定を行い、市内の気温分布を調査している。アメダスの記録と比べ、露場が広く、芝生である館林城跡地では0.0〜0.4°C低く、交通量の多い道路沿いでは2〜3°C高い。館林市中心部では1〜2°C高く、郊外の森林や水辺では市街地より3〜5°C低いことから、高温は市街地で発生することが分かった(ヒートアイランド現象)。市民は打ち水や緑のカーテンなどで気温を下げる活動を行っている。2008年6月に「暑さ対策本部」(本部長は市長)を設置し、市民、企業、行政が一体となって暑さ対策に取り組むことになった。
アメダス観測所は2018年6月11日まで館林消防署(美園町)敷地内にあった。土の上に防草シートを敷いて設置されている他、周辺の立地条件などから温度が上がりやすいのではないかとインターネット上で指摘され、挙句の果てに「ズル林」などとも揶揄されてきた[12]。そんな中、観測所が6月12日群馬県立館林高等学校(富士原町)敷地内に移転された。温度に関する指摘の声を認識していた気象庁は、既存設備撤去後の消防署内の跡地に簡易観測装置を設置、新旧観測場所の観測結果を7月2日から10月1日まで公開、比較できるようにしている[6]。
館林市(館林地域気象観測所)の気候
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月 |
1月 |
2月 |
3月 |
4月 |
5月 |
6月 |
7月 |
8月 |
9月 |
10月 |
11月 |
12月 |
年
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最高気温記録 °C (°F)
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18.9 (66)
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24.0 (75.2)
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27.1 (80.8)
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33.2 (91.8)
|
35.4 (95.7)
|
39.4 (102.9)
|
39.9 (103.8)
|
40.3 (104.5)
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39.3 (102.7)
|
33.9 (93)
|
25.4 (77.7)
|
25.2 (77.4)
|
40.3 (104.5)
|
平均最高気温 °C (°F)
|
9.6 (49.3)
|
10.6 (51.1)
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14.3 (57.7)
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20.2 (68.4)
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24.8 (76.6)
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27.4 (81.3)
|
31.2 (88.2)
|
32.7 (90.9)
|
28.3 (82.9)
|
22.4 (72.3)
|
16.8 (62.2)
|
11.8 (53.2)
|
20.8 (69.4)
|
日平均気温 °C (°F)
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4.0 (39.2)
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4.9 (40.8)
|
8.5 (47.3)
|
14.0 (57.2)
|
18.9 (66)
|
22.4 (72.3)
|
26.1 (79)
|
27.3 (81.1)
|
23.4 (74.1)
|
17.6 (63.7)
|
11.5 (52.7)
|
6.2 (43.2)
|
15.4 (59.7)
|
平均最低気温 °C (°F)
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−0.7 (30.7)
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0.1 (32.2)
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3.4 (38.1)
|
8.6 (47.5)
|
14.0 (57.2)
|
18.5 (65.3)
|
22.4 (72.3)
|
23.5 (74.3)
|
19.8 (67.6)
|
13.7 (56.7)
|
6.9 (44.4)
|
1.5 (34.7)
|
11.0 (51.8)
|
最低気温記録 °C (°F)
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−8.8 (16.2)
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−7.0 (19.4)
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−4.7 (23.5)
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−1.0 (30.2)
|
3.6 (38.5)
|
11.0 (51.8)
|
14.6 (58.3)
|
15.9 (60.6)
|
10.2 (50.4)
|
2.8 (37)
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−2.0 (28.4)
|
−5.9 (21.4)
|
−8.8 (16.2)
|
降水量 mm (inch)
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37.2 (1.465)
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34.2 (1.346)
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70.1 (2.76)
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84.6 (3.331)
|
114.2 (4.496)
|
142.3 (5.602)
|
158.6 (6.244)
|
143.9 (5.665)
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167.9 (6.61)
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160.6 (6.323)
|
56.0 (2.205)
|
33.0 (1.299)
|
1,202.6 (47.346)
|
平均降水日数 (≥1.0 mm)
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3.8
|
4.4
|
8.3
|
8.9
|
10.3
|
12.1
|
12.6
|
9.6
|
11.8
|
9.7
|
6.0
|
3.8
|
101.2
|
平均月間日照時間
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212.3
|
194.9
|
196.9
|
196.4
|
189.6
|
131.1
|
152.7
|
175.5
|
133.5
|
142.4
|
168.6
|
193.8
|
2,087.6
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出典:気象庁 (平均値:1991年-2020年、極値:1978年-現在)[13][14]
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町丁名
地区分類は国勢調査における町丁字コードによる[15]。
館林地区
- 本町1-4丁目
- 千代田町
- 富士見町
- 栄町
- 仲町
- 西本町
- 代官町
- 台宿町
- 広内町
- 朝日町
- 大手町
- 城町
- 尾曳町
郷谷地区
- 加法師町
- 当郷町
- 若宮町
- 瀬戸谷町
- 坂下町
- 東広内町
- 細内町
- 千塚町
- 田谷町
- 四ツ谷町
大島地区
赤羽地区
- 上赤生田町
- 赤生田本町
- 赤生田町
- 羽附町
- 花山町
- 楠町
- 羽附旭町
六郷地区
- 新宿1-2丁目
- 緑町1-2丁目
- 松原1-3丁目
- つつじ町
- 美園町
- 堀工町
- 分福町
- 南美園町
- 近藤町
- 青柳町
- 苗木町
- 諏訪町
- 東美園町
- 西美園町
- 小桑原町
- 富士原町
三野谷地区
多々良地区
- 高根町
- 新栄町
- 松沼町
- 木戸町
- 日向町
- 大街道1-3丁目
- 西高根町
- 成島町
- 大谷町
- 赤土町
- 北成島町
渡瀬地区
- 下早川田町
- 上早川田町
- 傍示塚町
- 足次町
- 岡野町
- 大新田町
地名
館林の地名が出てくる古いものに15世紀の歴史を記した『鎌倉大草紙』があり、応永22年(1415年)11月の終わりの條に、上杉禅秀が館林を討って上野国の過半を従えたと出てくる[16][17]。その後表記は館林、立林の両方が見られ、読みもたてばやし、たちばやしの両方があったが、永禄以降に現在の言い方に定まったと思われる[16]。
歴史
- 旧石器時代・縄文時代
- 紀元前2万年~1万年 - 石器の発見により館林に旧石器時代(2万年前)から人々が住み始めたことが分かった。またそれより後の縄文時代の竪穴建物跡、石器、土器も発見された。当時はこの辺りまでが海であり館林は海への玄関口であった。
- 弥生時代・古墳時代
- 紀元前300年ころ - 伝衛門遺跡・北近藤第一地点遺跡など150以上の地点で弥生時代の建物跡が発見されている。古墳時代になると天神双子古墳、山王山古墳、淵の上古墳など多数の古墳が作られた。調査の結果この地方は当時の中央政権の勢力下であったようである。
- 奈良時代・平安時代
- 769年 - 書物『続日本紀』に「邑楽郡」(当時の館林も含むこの地方一帯の名前で、読みはヲハラキ又はオホアラキ)が登場する。ちなみに現在も館林以外の東毛地方を邑楽郡(オウラグン)と言う。
- 927年 - 書物『延喜式』にも「邑楽郡」が登場する。この当時の邑楽郡内の地名には「長柄・疋田・池田・八田」があると記されている。
- 1108年 - この時代中世の所領が形成され館林・邑楽一体には藤原氏系譜の佐貫荘が成立した。その後1184年の一ノ谷の戦い後、佐貫荘の佐貫広綱は頼朝の御家人となる。
- 鎌倉時代・室町時代
- 1199年 - 頼朝が没し実権が北条氏に移ると佐貫荘など最有力の御家人を次々滅ぼし所領を没収。
- 1333年 - 南朝の新田義貞と北朝の足利尊氏の対立が激化。館林一帯の佐貫荘は足利、新田両軍に分裂した。
- 1338年 - 足利尊氏が室町幕府を開く。新田方の佐貫荘は所領を没収された。この頃館林一帯に足利方の佐貫荘の一族、舞木氏が頭角を現す。
- 1416年 - 関東管領上杉禅秀が、足利持氏と対立。上杉方に舞木氏、岩松氏(新田一族)が加わり参戦する。しかしこの上杉禅秀の乱は鎮圧され禅秀は自害。翌1417年、今度は岩松氏が蜂起するが、この時は舞木氏は足利方として戦い、岩松満純を討ち取りその首を鎌倉へ差し出した。
- 1454年 - 羽継原合戦が勃発。佐貫荘舞木氏の被官赤井氏が台頭を表す。(赤井、舞木両氏とも足利成氏に重用される。)
- 1471年 - 幕府・上杉方が足利荘と佐貫荘に侵攻。赤井文三、赤井文六が館林城に籠城して上杉勢と戦う。しかし、館林城は落城。上杉方は古河へ進撃、成氏は敗走した。当時の館林城は上杉方・足利方の中間に位置し両陣営攻防の拠点であった。
- 1562年 - 上杉謙信(長尾景虎)が館林城を攻める。城主赤井文六は降伏し、忍城(現在の埼玉県行田市)へ落ちのびる。上杉謙信は館林城を長尾景長に与える。景長の没後、長尾家を金山城主次男(現在の群馬県太田市)由良顕長が継ぐ。長尾・由良陣営は「新田・館林・足利」にまたがる一大勢力になった。
- 1574年 - 長尾・由良陣営は北条氏との関係強化に踏み出す。これに反発した上杉謙信は新田・館林・足利各所に大々的に放火。これを長尾・由良陣営は防戦。
- 安土桃山時代
- 1578年 - 長尾氏の下で東毛地域の勧農開拓の為の植林、用水路事業を行い多大なる貢献をした大谷休泊(大谷新左衛門)が没する。
- 1584年 - 北条氏直が館林城を攻める。翌年落城し館林城は北条氏規に与えられる。館林領は北条氏の直轄領となる。
- 1590年 - 豊臣秀吉が北条氏討伐のため出兵。石田三成を将とする軍勢2万人を館林城に向かわせる(その他関東の北条氏の城にも攻撃)。館林城側は6千人が篭城。5月22日、石田勢は軍勢を三手に分け総攻撃するも4ヶ月たっても城が落ちなかった。石田勢は館林城東南の大沼(城沼)からの侵攻を計画するも、城攻め用に調達した大量の大木が消失する。北条氏勝から稲荷が館林城の鎮守として祭られていることを知ると、狐の霊験を恐れ開城交渉を申し入れた。城側もこれを受け入れ5月末退散した。この年徳川家康の江戸御打入り。江戸の総奉行で徳川四天王の一人榊原康政が館林城主となり、10万石を領する。康政は8月19日、領内茂林寺に対し寺中への狼藉・竹木伐採・放牛馬についての禁制を下す。
- 1591年 - 榊原康政が竜興寺に対し寺中への禁制を下す。
- 1595年 - 榊原康政が利根川、渡良瀬川の両川に計54キロに及ぶ堤防を築く大工事を行う。これにより河川の氾濫が大幅に低下した。
- 1597年 - 館林城城下町に南北通り(日光脇往還)が完成。また、館林内の薬師堂、善導寺、天神宮、観音堂などを城の西側に移設。その後、成島、当郷、小桑原、谷越、足次の5村の農民を新設の城下町に移住させ町民とする(新町人は地税免除)。館林城を中心に城下町、寺社を配置しその周囲を塀で囲み5つの門を設ける。館林城を江戸にいる徳川の防戦砦として整備した。
- 1600年 - 関ヶ原の戦いが起こる。榊原康政は徳川家康の子徳川秀忠について参戦する。資金不足で戦いに間に合わなかった秀忠に家康は会おうともしなかったが、康政は身をもって家康に侘び父子の仲直りが実現した。以後秀忠は家康没後も榊原康政に殊遇を忘れなかった。
- 江戸時代
- 1605年 - 榊原康政の愛妾お辻が他の側室の妬みに耐えかねて、城沼に身を投げて自殺。これを知った村の人々がお辻の死を哀れみ生前に愛したツツジの木を1本、城沼の南岸、龍灯の松のかたわらに植え、その霊を慰めた。
- 1606年 - 5月14日、榊原康政が館林城内で死去し善導寺に葬られる。遺領は三男の康勝が継ぐ。
- 1617年 - 徳川家康の遺骸が日光山改葬のため、館林城下を通過。
- 1627年 - 榊原忠次が城沼の南丘にツツジの名木808株を多数移植。領民遊覧のため拡張する。(現在のつつじが岡公園)
- 1661年 - 後の徳川5代将軍徳川綱吉が館林城主となる(館林宰相とよばれた)。館林城は25万石の城となり、また大改築も実施されたため、大変壮大な名城となった。本丸・二の丸・三の丸・屋敷百家・旗本など大名小路は多くの人々で満ち溢れ、館林の繁栄はまるで「江戸の全盛期」のようであったと書物『館林記』に記されている。この時、館林城に近い下野国2郡7村が邑楽郡に編入し、綱吉の新領地に加わる。また、館林城鐘もこの年に鋳造。
- 1676年 - 過重な年貢に苦しむ名主小沼庄左衛門ら18名が越訴の罪で処刑される(日向義民)
- 1680年 - 徳川綱吉が徳川幕府第5代の将軍に任ぜられ権大納言となる。綱吉の子徳川徳松(当時2歳)が館林城主になる。
- 1681年 - 病弱な徳川徳松の健康回復を願って儀式(現在の七五三)が行われる。
- 1683年 - 5月28日午後8時、徳松が病死し、館林城が廃城になる。以後館林は代官が支配する。
- 1707年 - 徳川綱重の次男越智松平氏松平清武が館林城主になる。館林城の再築に着手。再築費3万1千両。
- 1718年 - 再築や米価暴落により藩政困窮し、増税を割り当てられた領民が享保の館林一揆(館林騒動[18])を起こす。翌年、首謀者の田谷村名主小池藤左衛門ら3人が処刑される(享保の三義人)。
- 1837年 - 館林出身の生田万が越後国柏崎で乱を起こす(生田万の乱)。襲撃の際の重症をうけ切腹をとげる。享年37。
- 1845年 - 山形藩より秋元志朝が館林城に入封。幕府の権力衰退の中、江戸の大地震をきっかけに藩政の大改革を断行。多くの江戸の家臣を館林に移した。また、館林藩校の求道館を整備拡充し、造士書院と改称。優秀なものを江戸に遊学させる。
- 1863年 - 館林藩が雄略天皇陵の修理を完了する。
- 1868年 - 館林藩は官軍として戊辰戦争を戦う。東北各地の戦功により永世1万石を下賜される。
- 令和時代
- 2019年 - 5月20日、市内にある沼とそこで暮らしてきた人びとが沼と共生することによって育まれた沼辺文化が「里沼(SATO-NUMA)-『祈り』『実り』『守り』の沼が磨き上げた館林の沼辺文化―」として、令和元年度文化庁「日本遺産」に認定される[19]。
行政
歴代市長
代 |
氏名 |
就任 |
退任 |
備考
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1 |
遠藤仁之輔 |
1954年(昭和29年)5月15日 |
1970年(昭和45年)5月14日 |
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2 |
岩上泰治 |
1970年(昭和45年)5月15日 |
1977年(昭和52年)11月14日 |
|
3 |
山本達司 |
1977年(昭和52年)12月25日 |
1997年(平成9年)12月24日 |
|
4 |
中島勝敬 |
1997年(平成9年)12月25日 |
2007年(平成19年)2月28日 |
|
5 |
安樂岡一雄 |
2007年(平成19年)4月22日 |
2017年(平成29年)2月12日 |
|
6 |
須藤和臣 |
2017年(平成29年)4月2日 |
2021年(令和3年)4月1日 |
|
7 |
多田善洋 |
2021年(令和3年)4月2日 |
|
|
立法
市議会
県議会
- 選挙区:館林市選挙区
- 定数:2名
- 任期:2023年(令和5年)4月30日 - 2027年(令和9年)4月29日[21]
衆議院
- 任期 : 2024年(令和6年)10月27日 - 2028年(令和10年)10月26日(「第50回衆議院議員総選挙」参照)
警察・消防
経済
地元企業
本拠を置く企業
その他
商業施設
金融機関
など
特産品
姉妹都市・提携都市
館林市が交流を持つ都市は以下の通り[24]。
海外
- 1995年、それぞれ姉妹都市を探す館林市とマルーチー市が交渉を持ち、翌年提携[24]。2008年にマルーチー市は自治体合併によりサンシャインコースト市となった。市民団や中学生などの相互交流が行われている[24]。
- 2001年、中国駐日大使館参事官が館林を訪問したことを契機に各種相互訪問が始まる[25]。
国内
- 榊原康政公ゆかりの都市
豊田市・姫路市・上越市とは、1985年より榊原康政(館林城初代城主)に縁のある「榊原公ゆかり都市」として「四市市長懇談会」(「榊原サミット」)を開催する関係にある[24][26]。1996年5月29日には、災害時相互応援協定(「榊原公ゆかり都市災害時相互応援に関する協定」)を結んでいる[27]。
- その他の交流都市
また、次の都市が館林市ウェブサイトでは交流都市に挙げられている[24]。交流名義は館林市ウェブサイトによる。
- 江戸時代幕末期、館林藩(秋元家)の領地の飛び地が天童市域にあった縁[24]。観光・物産での交流が行われている[24]。
- 1987年(昭和62年)以来、両市の少年サッカーチームが交流を持っていることから[24]。
- 「日本花いっぱい大会」など、花を通じた都市間交流が展開されている[24]。
- 災害時相互応援協定
「大規模災害時における相互応援に関する協定書」を、桐生市・太田市・みどり市(以上群馬県)、足利市・佐野市(以上栃木県)、志木市と行田市
(以下埼玉県)、昭島市・練馬区(以上東京都)、龍ケ崎市(茨城県)との間で締結している[29]。このほか、各種の災害時相互応援協定を近隣自治体や上述「榊原康政公ゆかり都市」などと結んでいる。
教育
高等学校
中学校
小学校
幼稚園
- 館林市立東幼稚園(大島町)
- 館林市立西幼稚園(近藤町)
- 館林市立南幼稚園(本町三丁目)
- 館林市立北幼稚園(台宿町)
- 館林市立杉並幼稚園(新宿二丁目)
- 私立常楽幼稚園(木戸町)
保育園
公立
- 館林市立長良保育園(台宿町)
- 館林市立東保育園(瀬戸谷町)
- 館林市立南保育園(本町三丁目)
- 館林市立六郷保育園(新宿二丁目)
- 館林市立多々良保育園(日向町)
- 館林市立渡瀬保育園(足次町)
- 館林市立美園保育園(美園町)
- 館林市立高根保育園(北成島町)
- 館林市立松波保育園(高根町)
私立
- ルンビニ保育園(赤生田本町)
- 聖ルカ保育園(大街道三丁目)
- 双葉保育園(松原一丁目)
- ももの木保育園(花山町)
- 青柳保育園(青柳町)
認定こども園
- 認定富士こども園(富士見町)
- 認定こども園MINOYA(上三林町)
特別支援学校
- 群馬県立館林特別支援学校(上三林町)
- 群馬県立館林高等特別支援学校 (上三林町)
学校教育以外の施設
- 館林地区高等職業訓練校(館林地区職業訓練運営会が運営する認定職業訓練施設)
交通
主要都市までの距離
県境付近に位置するため、半径25km圏内に群馬県(太田市)、栃木県(佐野市、足利市、栃木市の一部)、茨城県(古河市)、埼玉県(羽生市、加須市、行田市、熊谷市、久喜市、鴻巣市)のそれぞれ4県の市がある。
鉄道
市の中心・館林駅は関東北部に広がる東武鉄道の鉄道路線網の核的存在の一つ。東京(北千住・浅草)方面と両毛地域3方面(太田・佐野・小泉)が分かれる。東京の浅草駅から館林駅まで特急列車「りょうもう」で58 - 65分。伊勢崎線の普通列車は館林駅を境に運行形態が異なっており、館林駅以北では全ての普通列車がワンマン運転を行うほか、系統も館林駅以南とは分断されているため、乗り換えが必要である[30]。
路線バス
コミュニティバス
コミュニティバス「広域公共路線バス (館林市外四町)」を館林市および邑楽郡邑楽町・千代田町・明和町・板倉町の1市4町で共同運営している。単に「路線バス」とも呼ばれ、系統名も多用される。路線は館林駅を中心に市内各地・周辺市町へ伸び、また一部の系統を除き館林厚生病院を発着する。
館林市の「広域公共路線バス」の特徴は「広域・独占・低運賃・簡単」である。これは極力民営バスにありがちなデメリット(運行の偏り・事業者毎の分断・高い運賃・系統などのわかりにくさ)を取り除いたためである。この背景にあるのは「路線バスが存在しない市」の経験である。
1970年代頃までは、東武鉄道(現:東武バス)を含めて民間3社が市内や周辺自治体への路線バスを運行していたが、モータリゼーションの進行に加えて比較的平坦な土地だったことから自転車が普及し[31]、路線バス利用者が減少したため、1980年頃から路線の廃止が進み、1986年12月31日限りで茨城県古河市・栃木県下都賀郡藤岡町(現・栃木市)を結ぶ2路線が廃止された[31]。これにより、当時日本に653あった市のなかで唯一「路線バスが存在しない市」となった[31]。
その後、高齢者へのタクシーチケット配布の時期を経て、1993年から地元事業者2社に委託する形で広域公共路線バスの運行を開始。完全自治体主導による全市的かつ都市圏内共同の路線バス再構築が行われた。「路線バスが存在しない市」を経験した経緯を踏まえて利用しやすい特徴を持たせたため、地域の足として維持しようという意識も高く利用が多い。
各路線の詳細については「広域公共路線バス (館林市外四町)」の記事を参照。
高速バス
日本中央バスが運行する高速バスが、館林市役所と同社の館林バスセンター(赤生田町·2017年3月閉鎖)に停車する。
道路
名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
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東武トレジャーガーデン
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狩野ぼたん園
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製粉ミュージアム
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向井千秋記念子ども科学館
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鶴生田川のこいのぼり
著名な出身者
政治・経済
学術
文化・芸能
スポーツ
その他
館林市ゆかりの人
館林市に関連する作品
アニメ
脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク
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