大相撲
大相撲(おおずもう)は、 公益財団法人日本相撲協会が主催する大相撲(おおずもう)は、世界中で行われる相撲興行の中で、最も有名かつ権威のある競技興行である。東京での開催場所は国技館である(詳しくは国技館、国技#日本の国技を参照)。土俵に立つものおよび出場できるものは男性に限られる。 歴史現在の日本相撲協会の前身として、人的・組織的につながる相撲興行組織は、江戸時代の江戸および大坂における相撲の組織である。大坂の相撲組織に関しては、大坂相撲の項目を参照のこと。ここでは、江戸時代以来の江戸相撲の歴史について記述する。 江戸時代興行としての相撲が組織化されたのは、江戸時代の始め頃(17世紀)とされる。これは寺社が建立や移築のための資金を集める興行として行うものであり、これを「勧進相撲」といった。1624年、四谷塩町長禅寺(笹寺)において明石志賀之助が行ったのが最初である。しかし勝敗をめぐり喧嘩が絶えず、浪人集団との結びつきが強いという理由から、1648年から幕府によってたびたび禁止令が出されていた[2]。 ところが、1657年の明暦の大火により多数の寺社再建が急務となり、またあぶれた相撲人が生業が立たず争い事が収まらなかったため、1684年、寺社奉行の管轄下において、職業としての相撲団体の結成と、年寄による管理体制の確立を条件として勧進相撲の興行が許可された。この時、興行を願い出た者に、初代の雷権太夫がいて、それが年寄名跡の創めともなった。最初の興行は前々年に焼失し復興を急いでいた江戸深川の富岡八幡宮境内で行われた。その後興行は江戸市中の神社(富岡や本所江島杉山神社、蔵前八幡、芝神明社など)で不定期に興行していたが、1744年から季節毎に年4度行われるようになった。この頃には勧進の意味は薄れて相撲渡世が濃くなり、1733年から花火大会が催されるなど江戸の盛り場として賑わいを見せていた両国橋左岸の本所回向院で1768年に最初の大規模な興行が行われた。ここでの開催が定着したのは1833年のことである[3]。 『相撲傳書』によると、この頃は土俵はなく「人方屋」という見物人が直径7 - 9メートル(m)(4 - 5間)の人間の輪を作り、その中で取組が行われた。17世紀半ばには格闘技のリングのように柱の下へ紐などで囲った場所で行われた。それが後に俵で囲んだ四角い土俵になった。次に1670年頃に土俵の四隅に四神を表す4色の布を巻いた柱を立て、屋根を支えた方屋の下に五斗俵による3.94 m(13尺)の丸い土俵が設けられた。18世紀始めに俵を2分の1にし地中に半分に埋めた一重土俵ができた。これに外円をつけて二重土俵(これは「蛇の目土俵」とも言う)となった。これは内円に16俵、外円に20俵用いることから「36俵」と呼ばれた。 江戸の他にも、この時期には京都や大坂に相撲の集団ができた。当初は朝廷の権威、大商人の財力によって看板力士を多く抱えた京都、大坂相撲が江戸相撲をしのぐ繁栄を見せた。興行における力士の一覧と序列を定めた番付も、この頃から、相撲場への掲示用の板番付だけでなく、市中に広めるための木版刷りの形式が始まった。現存する最古の木版刷りの番付は、江戸では1757年のものであるが、京都や大坂では、それよりも古いものが残されている。 しかし江戸相撲は、1789年11月、司家の吉田追風から二代目・谷風梶之助、小野川喜三郎への横綱免許を実現。さらに征夷大将軍徳川家斉観戦の1791年上覧相撲を成功させる[4]。雷電爲右衞門の登場もあって、この頃から江戸相撲が大いに盛り上がった。やがて、「江戸で土俵をつとめてこそ本当の力士」という風潮が生まれた。 各団体間の往来は比較的自由であり、江戸相撲が京都や大阪へ出向いての合併興行(大場所)も恒例としてほぼ毎年開催された。力量も三者でそれほどの差はなく、この均衡が崩れ始めるのは幕末から明治にかけてのことである。 1827年、江戸幕府が「江戸相撲方取締」という役を江戸相撲の吉田司家に認めた。 幕末に「相撲VSレスリング」や「相撲VSボクシング」の異種試合が行われた事がある。また、アメリカ合衆国海軍のマシュー・ペリー提督が黒船で来航した1853年6月11日)に、雷權太夫や玉垣額之助ら年寄総代は文書により攘夷協力を番所に申し出している。一方、翌年ペリーが再来日して条約を締結した際には、米国へ返礼として贈られた米200俵を江戸相撲の力士たちが軽々と運び、米軍人を驚嘆させた。 1863年6月3日、大阪北新地で壬生浪士組(後の新選組)と死傷事件を起こした。大坂相撲の力士で死亡したのは中頭の熊川熊次郎(肥後出身)であった。この事件の手打ちとして京都での興行では京都、大阪の両相撲が協力した。力士の中には、後に勤皇の志士となった者もいた。 明治・大正明治維新と文明開化に伴い、欧化主義者を中心に「相撲禁止論」が唱えられた。これを払拭するために相撲会所は1876年に幕下以下から選抜した力士による「消防別手組」の設立を申し出て消火活動に参加したり[5]、九州巡業中に起きた秋月の乱では初代梅ヶ谷らが残党の捕縛を行ったりするなど土俵外での活躍を見せた[6]。1884年には自らも相撲を取ることの多かった明治天皇およびその意を受けた伊藤博文らの尽力により、天覧相撲が実現され、大相撲が社会的に公認されることにより危機を乗り越えることができた。この天覧相撲の力士は58連勝(史上3位)を記録した15代横綱初代・梅ヶ谷藤太郎であった。 東京大角力協会(1889年に東京相撲会所から改称)と大阪相撲協会ができ、組織としての形態が確立した。1890年に入幕から39連勝で大関に駆け上がった初代・小錦八十吉と横綱免許を受けた大関初代・西ノ海嘉治郎のねじれ現象の解決のため、番付に初めて〈横綱〉の表記が登場する。これはなかば偶然の産物ではあったが、これをきっかけに横綱・大関が実質的な地位として確立していくようになる。 この頃から映像が映され出し、小錦や大砲が映された貴重な映像(1900年撮影)が現存している。 20世紀の変わり目の頃には、横綱常陸山谷右エ門(1896年に名古屋相撲から大阪相撲へ、後広島相撲から東京相撲へ)と二代目・梅ヶ谷藤太郎の「梅常陸時代」による東京相撲の隆盛が生じ、東京が相撲の中心という意識が広がっていく。 1907年、常陸山が渡米した。この渡米は日本国外に相撲を本格的に紹介する最初の出来事であった。 1909年6月2日、初の常設相撲場となる両国国技館の落成。土俵入りは、東の横綱、常陸山と西の横綱、梅ヶ谷により行われた。これに並行して投げ祝儀の禁止、力士の羽織袴での場所入り、行司の烏帽子直垂着用、幟・積樽の廃止、東西制の導入などにより相撲の近代スポーツ化がすすめられた。東西制は団体優勝制度であり、優勝旗が授与された。時事新報社の優勝額贈呈により、現在の優勝制度が始まる。それまでは幕内力士の出場がなかった千秋楽にも、幕内全力士が出場するようになり、名実共に10日間興行の体裁が整った。興行日数は、1923年5月から11日間に増加した。 1910年5月の夏場所に行司の衣装がそれまでの裃、袴から烏帽子、直垂となった。 1913年2月、東京と大阪の両角力協会が和解。東西合併大相撲を東京で開催[7]。 1915年3月12日、紛争があり、興行が無期延期となる[8]。 1917年11月29日に両国国技館が火災で焼失し、一時期靖国神社境内で本場所が行われたこともあった。 興行としての相撲が定着することで、力士の待遇の近代化への要求があらわれ、いくつかの紛擾事件が起きるようになった。東京相撲では、1923年に三河島事件と呼ばれる力士待遇の改善を求めるストライキが発生し、その処理を巡って横綱大錦卯一郎が廃業する事件が起こる。大阪相撲においても同年龍神事件と呼ばれる紛擾が発生し、力士他多くの関係者が廃業し、大阪相撲の実力が低下する。1923年9月1日の関東大震災により両国国技館も屋根柱などを残して焼失。1924年1月春場所は、両国国技館再建中のために名古屋で開催された。それを不満に思った一部の力士は、本場所に出場しなかった[9]。 1925年、当時の皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)の台覧相撲に際して、皇太子の下賜金により摂政宮賜杯、現在の天皇賜杯が作られる。これを契機に、東京・大阪の両相撲協会の合同が計画され、技量審査のための合同相撲が開かれる。また、1926年1月場所から、今までは優勝掲額のみであった個人優勝者に賜杯が授与されることになり、個人優勝制度が確立する。 昭和戦前から戦後初期1927年、東京相撲協会と大阪相撲協会が解散し、大日本相撲協会が発足したのち、本場所は1月(両国)、3月(関西)、5月(両国)、10月(関西)の計4回:11日間で開催(1929年は10月でなく9月)されるようになる。ただしこの時期には、番付編成は若干の試行錯誤も伴いながらも、1月と3月、5月と10月のそれぞれを合算して行われ、関西本場所では優勝額の授与も行われなかった。 この時期、勝負に関する様々な改定が行われた。1928年からラジオ中継が始まったために[10]、仕切り線と仕切りの制限時間が設けられた。個人優勝制度確立の中で、不戦勝・不戦敗制度の全面施行、物言いのついた相撲での預かりの廃止と取り直し制度の導入、二番後取り直しによる引き分けの縮小化がこの時期に実施され、勝負を争うスポーツとしての要素が強くなった。 1931年4月の天覧相撲の際、二重土俵の内円を無くし径4.55 m(15尺)の一重土俵にした。またこの際にそれまで四本柱の下に座布団を敷いて土俵上に据わっていた勝負検査役を土俵下に降ろし現在と同じ配置の5人とした。 1932年1月に起こった春秋園事件で大規模な待遇改善要求を掲げて多くの力士が脱退したため、2月、3月は各8日間の変則興行となり、脱退組が関西角力協会を翌年作ったことで1933年から関西場所は廃止され、年2回の開催(1月、5月)となった。 69連勝を記録した双葉山の影響で興行日数は1937年5月場所より13日間となり、1939年5月場所より15日間と移り変わる。 第二次世界大戦の影響が次第に相撲界にも及び、1944年に両国国技館が大日本帝国陸軍に接収され、5月場所から本場所開催地を小石川後楽園球場に移した。そのために1月場所開催は困難になり、1944年には10月に本場所を繰り上げて開催した。1945年5月場所は晴天7日間、神宮外苑相撲場(後の明治神宮第二球場)で開催予定だったが空襲などのために6月に延期、両国国技館で傷痍将兵のみ招待しての晴天7日間非公開で開催された。今日まで唯一の本場所非公開開催である。これが戦争中最後の本場所となった。ちなみにこれらの場所の幕下以下の取組は事前に1944年の10月は神宮外苑、1945年の6月は春日野部屋で非公開で行われ、このことを記念して、春日野部屋では後々まで稽古場に当時の土を保存していた。また、兵役に就いた力士や、戦死・戦災死・捕虜として抑留された力士もいた。東京大空襲で両国国技館や相撲部屋を焼失。 戦後には、各部屋の離散状態、または本場所開催などに対して連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に許可を仰がなければならないなど様々な問題を抱えながらも大相撲の復興は始まる。1945年9月に土俵を16尺(約4.84 m)と大きくし、焼失した両国国技館を若干修復し、本場所の秋場所(11月:10日間)が開催された。土俵については力士会の反対で元の大きさ4.55 m(15尺)に戻された。1946年に両国国技館が連合国軍最高司令官総司令部によって接収されメモリアルホールとして改装された。そのこけら落としとして、同年の11場所(13日間)が行われた。連合国軍最高司令官総司令部によって本場所開催を年3回認められたが、メモリアルホールを使用することは許可されず、1947年には明治神宮外苑相撲場にて行うこととなる。青天井のこの相撲場では正月場所は行われず、6月、11月、または1948年の5月をそれぞれ執り行うに留まった。同じ年の1948年の秋場所(10月:11日間)には、戦後初の大阪場所が大阪市福島公園内に建築された仮設国技館で開催された。この時期に、優勝決定戦や三賞制度の制定、東西制から系統別総当たり制への変更が行われた。 昭和戦後1949年になり日本橋の浜町公園内に仮設国技館(木造)を建設し、ようやく1月場所(13日間)を開催する。5月場所では戦後初めて15日間行われ、以後興行期間は15日間となる。この浜町公園の仮設国技館は公園内に設置されていたことが問題となり、この2場所しか使用されず取り壊しとなった。そのため戦前に次期国技館建設用に用意していた蔵前の土地に仮設国技館を建設することとなる。ところがこの浅草蔵前仮設国技館(蔵前国技館)も消防署からの命令によって仮設であっても鉄筋造りの国技館が必要となり、蔵前仮設国技館の鉄筋化をはかり、その後5か年計画として年々充実されていった。 1950年から1952年は、本場所(1月、5月、9月)が各15日間実施(ただし1952年は大阪場所が開かれず、3場所とも東京で開催)。このうち大阪は、1950年9月場所は阿倍野橋畔に、1951年9月場所は難波(現在の大阪府立体育会館所在地)にそれぞれ仮設国技館を建て興行を行った。1952年に難波の仮設国技館を建替え、鉄骨製の大阪府立体育館(1987年から大阪府立体育会館)が竣工。翌1953年3月場所の会場となった。以後3月場所は大阪開催となり、現在に至る。 横綱の相次ぐ不成績が問題となり、1950年4月に有識者からなる横綱審議委員会が発足した。全国的にテレビが普及するに従い、NHKの相撲のテレビ中継が始まる。一時は民放各社も中継していたが、間もなく撤退した。 栃錦と初代・若乃花の栃若時代が到来し、年間の場所数が増えていく。1957年には11月場所(九州場所、福岡スポーツセンター)、1958年には7月場所(名古屋場所、名古屋市金山体育館)を行うようになり、現在のような6場所(1月、3月、5月、7月、9月、11月)、15日間という体系になった。 また、1965年1月場所から完全部屋別総当たり制が実施されたが、この年はTBSがテレビ中継を打ち切るなど人気は下降気味となっていった[11]。 国会で公益法人としての相撲協会のあり方について質疑が行われたこと(1957年3月2日の衆議院予算委員会[12]および4月3日の衆議院文教委員会[13])を受けて、相撲茶屋制度の改革、月給制の導入、相撲教習所の設立などの改革が行われた[14]。また理事長に重要事項の建議を行える運営審議委員会も発足し財界トップや政治家が名を連ねた。横綱審議委員会の内規もこの時期に充実した。 1961年には年寄の停年制が実施された(「停年」の表記については後述)。1966年には法人名を日本相撲協会に改称。1967年には前頭・十両の枚数削減も実施した。1968年には役員選挙の制度を改定、1969年には勝負判定にビデオ映像の使用を開始した。 1965年にはソ連、1973年には中国、1981年にはメキシコと海外公演が行われ、国際的な認知が始まる。 1970年頃になると、力士と暴力団とのかかわり、八百長が疑われる内容の相撲の横行、力士の健康問題等の諸問題が明らかとなり、1971年12月には再び国会で協会のあり方が取り上げられた[15][16]。これを受けた協会理事会において、中学校在籍中の入門の禁止(当時在籍していた中学生力士は、中学校卒業まで東京場所の日曜・祝日のみの出場となる)、公傷制度の導入(2003年11月場所限りで廃止されるまで続く)、相撲競技監察委員会の設置、行司の完全年功序列を廃し成績考課を導入等の改革を打ち出した[17](いずれも1972年1月場所より施行)。 1985年1月、現在の国技館が両国駅近くに完成し、再び両国に相撲が戻った。蔵前国技館は旧軍放出資材を用いて建てられたため、新しい国技館の建築が検討されていた。相撲協会など関係者は、相撲と縁の深い回向院のある両国界隈に建設地を定めた。そして約3年、総工費およそ150億円をかけ両国国技館が落成となった[18]。 平成平成初期に千代の富士貢以下横綱が相次いで引退し一時的に横綱が不在になる。この時期は大型のハワイ出身力士が台頭し、6代小錦八十吉が横綱昇進目前まで行く。その後、曙太郎、武蔵丸光洋がそれぞれ横綱昇進、優勝回数を二ケタに乗せる。また、二子山部屋が部屋師匠の11代二子山(元大関・初代貴ノ花)の息子である若乃花勝・貴乃花光司を中心に多くの関取を輩出した。若乃花・貴乃花は特に女性ファンの獲得に成功し、若貴ブームと呼ばれた。1993年頃から2000年頃にかけては、この4横綱がしのぎを削った。貴乃花は優勝22回に達し、一代年寄の資格を得た。 2000年代半ばになると二子山部屋の勢いは衰え、ハワイ出身力士は姿を消す。入れ替わって朝青龍明徳以下、スピード重視のモンゴル出身力士が登場する。朝青龍は2005年に史上初の年間全場所制覇を達成、次いで横綱になった白鵬翔は2010年に63連勝、2015年に優勝回数記録を更新するなど、ともに一時代を築いた。次いで日馬富士公平、鶴竜力三郎が横綱に昇進するなど、モンゴル出身力士が圧倒的に優位な時代が続いている。同時期にヨーロッパ出身力士も登場し、ブルガリア出身の琴欧洲勝紀とエストニア出身の把瑠都凱斗が大関にまで上った。日本人力士の中では稀勢の里寛が横綱に昇進している。 2000年後半から不祥事が相次ぎ、2007年には時津風部屋力士暴行死事件、2008年には力士による大麻取締法違反事件の責任を取る形で理事長が辞任、2010年には野球賭博問題、2011年には八百長問題が発覚してそれぞれ本場所に影響を及ぼした。その後も力士間での暴力事件、立行司によるセクシャルハラスメント行為の発覚、道路交通法違反(無免許運転)行為、「女人禁制」の問題などが存在する[19][20][21][22][23]。 2014年1月30日、公益財団法人の登記を行い、新法人としてスタートした。財団法人となった1925年以来89年ぶりの改組で、引き続き税制の優遇を受ける[24]。 令和2019年5月場所より、アメリカ大統領杯の授与が始まる。 2020年、新型コロナウイルスの感染拡大に際しては、3月場所を無観客開催[25]、5月場所を中止、7月場所は会場を名古屋から東京へ移し、観客数を制限したうえで開催した[26][27]。9月場所も観客数を制限して開催し、11月場所も福岡から東京に移して開催された[28]。また、協会員から罹患者が発生し、死者も出た[29]。 2021年3月場所13日目、三段目取組において掬い投げを食らった力士が頭から土俵上に転落、病院に搬送されて治療を受けていたが、同年4月に肺血栓による急性呼吸不全のため死亡した[30]。土俵上での取組による事故で死亡した初の事例となった。 興行大相撲の興行としては、本場所と巡業が特に大きなウェイトを占める。 本場所→詳細は「本場所」を参照
本場所は協会主催で定期的かつ公式な興行で、技量を査定し、待遇(地位と給与)を決める性質がある。1958年以降は隔月で年間6場所行われている。開催場所は2025年のもの。
地方巡業本場所のない時期には、力士一行が本場所が行われていない地方へ出向き、1日限りの相撲披露を行う。これを(相撲・大相撲) 巡業という。協会では巡業を本場所と並ぶ最重要事業として位置付けている。 →詳細は「巡業 § 大相撲における巡業」を参照
関取が所属していない部屋の取的は、巡業に参加することができず、部屋によっては合宿を行う部屋もある。 花相撲→詳細は「花相撲」を参照
勝敗が番付や給金に反映されない興行を総称して花相撲と呼ぶ。トーナメント相撲、親善相撲、奉納相撲、引退相撲などがある。巡業も広く捉えれば花相撲の一つである。 海外公演海外公演とは、日本国外から招待を受けて日本相撲協会主催で日本国外にて取組を行うことである。日本の伝統国技を日本国外で披露すると同時に、相手国との友好親善、国際文化交流に寄与することを目的にしている。力士は「裸の親善大使」などと呼ばれ、これまでに13回開催している。
海外巡業協会とは別に主催者となる地元の興行主(勧進元)がいて、日本国外の大相撲ファン拡大と収益を目的にしている。ただし、力士が土俵で取組を披露したり、国際文化交流を図ったりするなどの形態は海外公演と変わらない。海外公演より歴史は古く、これまでに16回開催している。 国威発揚のために大相撲が利用された昭和戦前期には、満州をはじめとする大陸巡業が恒例となっており、国際連盟の委任統治領であった南洋群島に巡業したこともある。しかし、これらの巡業は各部屋・一門による海外巡業であり協会全体での巡業ではなかった。戦後はハワイ巡業がしばしば行われ、元関脇・高見山大五郎もここでスカウトされた。 飛行機での移動の際は、万が一のことを考えて重量配分のために力士がいくつかの便に分乗する[32]。
横綱→詳細は「横綱」を参照
横綱(よこづな)は、大相撲の力士における最高の称号であり、現行の番付制度においては力士の最高位でもある。語源的には、横綱だけが腰に締めることを許されている白麻製の綱の名称に由来する。現在の大相撲においては、横綱は、全ての力士を代表する存在であると同時に、神の依り代であることの証とされている。それ故、横綱土俵入りは、病気・故障等の場合を除き、現役横綱の義務である。 横綱は、天下無双であるという意味を込めて「日下開山」(ひのしたかいさん)と呼ばれることもある。
番付→詳細は「番付」を参照
大相撲内での力士の地位は「番付」と呼ばれる順位表で示される。 横綱・大関・関脇・小結・前頭・十両を纏めた総称が「関取」と呼ばれ、そのうち十両を除く横綱から前頭を纏めた総称が「幕内」と呼ばれる。大相撲では、この「幕内」を最上位とし、以下、十両・幕下・三段目・序二段・序ノ口 と続く6つの階層から成り立り、幕下以下を纏めた総称は「取的」と呼ばれる。各力士は一場所ごとに自分が所属する階層内で決められた数の取り組みを行い、その成績によって各階層内での順位付けや各階層間の昇進や降格が行われる。なお、番付上においては序ノ口が最下位であるが、序ノ口で負け越しが続いたり、休場が続いたりすると序ノ口から陥落し、番付の範疇に含まれない「番付外」と呼ばれる立場になる。また、「番付外」で一定の成績を収め、次の場所で序ノ口として出場する権利を獲得した立場の者を「新序」と呼ぶが、これも番付の範疇には含まれない[注 1]。 昇進と降格ただし、同じ地位で同じ成績をあげても、場所によって昇進・降格幅が大きく異なる事例がこれまで数多く発生している。これは「番付は生き物」と称され、他の力士の成績との兼ね合いや各階層の定員が決められている事から来るものである。 それとは別に三役や横綱への昇進のかかるケースで不公平感が問題視されることがある。横綱や大関への昇進には特に優秀な成績が求められるが、その基準が定常的な基準となっていないため、昇進にあたりその都度昇進の可否を検討することとなっている[34]。その昇進の基準や条件が客観性の明らかな数値基準ではないため、物議を醸し問題となる場合が多い。背景には、出身地や人種による人気の格差や看板である横綱・大関の人数を確保したい興行上の理由があると考えられる[35]。 取組→詳細は「取組」を参照
本場所の対戦の組み合わせを取組と呼ぶ。関取は15日間すべて、取的は隔日のペースで7番とる(1960年7月場所以降)。取組は場所中に随時編成されて、原則前日午後に発表される。 優勝制度幕内最高優勝は1909年6月場所、新聞社による最高成績者への優勝額贈呈によって事実上始まった。当初は物言いがついた相撲であえて決着をつけない預りや、取り組み編成後に一方の力士が休場した場合、相手力士も休場扱いとなる制度などあって、これらが優勝争いを左右することも少なくなかった。その後、預りの廃止や不戦勝制度、同点の場合の優勝決定戦の導入などがありつつ、白星数の優劣で優勝を争う大筋は変わらぬまま現在に至っている。 →「賜杯」も参照
優勝制度の不公平同じ幕内に属して(2014年現在の定員は42名)幕内最高優勝を争う立場であっても、上位と下位で15日間の対戦相手がまったく違うことなどへの批判もあり[36]、過去に横綱・大関とまったく対戦せずに全勝した時津山仁一や、十両力士への敗戦があった佐田の山晋松の優勝が物議を醸した例がある。そのため、現在では幕内下位で優勝争いの先頭または2番手につけている力士を、終盤に横綱・大関と対戦させることで[注 2]、優勝の価値の公平化を図っている。 所属部屋ごとの対戦相手の不公平もしばしば問題視される。近年の例では、二子山部屋や武蔵川部屋の幕内力士が上位に集中していた[注 3]、1990年代後半から2000年代初頭に、個人別総当たり制の導入が話題になったことがあった。養成員(幕下以下の力士)時代は大部屋で共同生活を送るという相撲部屋のしきたりが、個人別総当たり制の実現を妨げる要因となっている。 力士の条件現行制度では、大相撲の力士を志望する者(男性限定)は、新弟子検査を受検し、体格検査及び内臓検査に合格しなければならない。国籍は不問だが、「外国出身力士は各部屋1人ずつ」という規定が存在する。2019年2月に力士(競技者)規定の一部が改正となり、入れ墨の禁止も明文化された[37][38]。 力士の報酬関取の報酬大相撲力士の報酬制度は、地位によって与えられる給与・手当と、成績給に相当する力士褒賞金(給金)と、いわゆる2階建てになっている。 (2019年1月現在)
給与十両以上の力士(関取)には、次の通りの金額が月額給与として支給される。そのため、11月場所において十両で負け越し、1月場所で幕下に陥落した場合でも12月分の給与は支給される。幕下陥落が確実になり引退の意思を固めた力士が、翌月分の給与確保のため引退届提出を番付編成会議後まで遅らせ、翌場所の番付に名を残すケースも多い。 給与額は原則として年1回、理事会において見直すこととなっている。給与額は2001年に現行の金額となって以降2018年まで据え置きだったが、2018年11月の理事会の決定により、2019年1月場所から十両以上の力士の給料が増額されている[39]。 賞与賞与は、9月と12月にそれぞれ月額給与の1カ月分が支給される。したがって、年額賞与は月額給与の2カ月分である。賞与の支給月が世間一般の6月と12月と違っているのは、以前に支給されていた巡業手当が賞与に変わったためである。 本場所特別手当本場所特別手当は、小結以上の力士に対して本場所ごとに年6回支給される。11日間以上出場した場合は全額、6日-10日間出場した場合は3分の2、5日間以下の出場の場合は3分の1が支給され、全休(不戦敗も含む)の場合は支給されない。
出張手当出張手当は、3月場所、7月場所、11月場所の年3回、各場所ごとに次の通りの1日分支給金額を35日分[注 4]支給される。
力士補助金力士補助金は、1月場所、5月場所、9月場所の年3回、髪結の補助金として支給される。
力士褒賞金場所ごとに過去に残した成績に応じて支給される。計算の基礎となる持ち給金(支給標準額)の累積は序ノ口から始まり、持ち給金を4000倍した金額が十両以上の力士(関取)に支給される。持ち給金は勝ち越し1点につき50銭ずつ累積され[注 5]、負け越しや休場などでの減額はない。金星や幕内最高優勝では大きな加算(後述)があるほか、十両・幕内(関脇と小結を含む)・大関・横綱と持ち給金の最低額が決まっており、昇進時に累積額がその金額に満たなければ番付に応じた最低額まで引き上げられる。
→詳細は「力士褒賞金」を参照
力士養成員の報酬幕下以下は「力士養成員」と呼ばれ、給与と力士褒賞金は支給されないが、場所手当と本場所の成績による幕下以下奨励金(勝ち星1つごとに支給される勝星奨励金と勝ち越した数に応じて支給される勝越金)が本場所ごとに年6回支給される。
(2019年1月現在)
成績による場所ごとの収入の計算式を示すと次のようになる。
上に示した成績の負け数には休場も含む。幕下上位及び序ノ口下位の八番相撲の場合は、負け越している場合は勝越金がないため7番取って同じ数の白星を挙げた力士と同じになるが、勝ち越している場合は上の式にそのまま当てはまらず、勝越金が偶数点分になることが起こりうる。また今後出る可能性はほぼないと思われるが、引分や痛み分けが絡んだ場合も上の式にそのまま当てはまらないことが起こりうる。 このほか、本場所における電車賃が乗車券で支給される。 力士養成員でも、寝食は各々相撲部屋でできる(費用は協会から部屋持ち親方に対して、力士養成員1人につき月額70,000円、年額840,000円が支給されている)うえに、共同の食事「ちゃんこ」もあるので、幕下以下の生活が続いても食いはぐれることはない。ただし慣習としての部屋への上納つまり「持ち出し」もあるので必ずしも全額が可処分所得になるわけではない。特に親方、部屋の看板である十両以上の力士はかなりの額を「持ち出し」せねばならないが、逆に部屋に十両以上力士がいるかいないかで部屋の生活水準、ひいては本場所成績が大きく異なってくる。 副業の制約など大相撲の力士がテレビのCMに出演することを全面禁止していた時代があった。これは1985年からで、大相撲の力士は本業の相撲でPRすることに専念するようにしてほしいという春日野理事長(当時)の方針に沿ったものであった。ただしCM禁止中の時代でも、本場所の協会指定懸賞企業および巡業を支援するスポンサーと公共の広告に限って出演することはあった。ナショナル(後のパナソニック)乾電池の小錦、日本航空の大相撲ブラジル公演PR、国民年金の貴乃花、若乃花などがある。2002年2月に一般企業のCM出演は解禁されており、その第1号は日立マクセルDVDメディアの栃東である。 各種表彰・昇給・賞金各段優勝番付の幕内・十両・幕下・三段目・序二段・序ノ口の各階級内での最高成績者が優勝となる。ただし最高成績者が複数いる場合は、優勝決定戦が行われ、それを勝ち抜いた1人のみが優勝となる。力士が番付の6階級のいずれかで優勝すると、優勝者に対して表彰が行われ、以下の賞金が授与される。
幕内最高優勝の場合、力士褒賞金の加算による昇給もあり、全勝以外の優勝は30円、全勝優勝なら50円が力士褒賞金に加算される。4000倍という倍率からすると、実質ぞれぞれ12万円、20万円の昇給となる。 三賞千秋楽には、勝ち越した関脇以下の幕内力士に対し、相撲内容等により選考を経て殊勲賞・敢闘賞・技能賞の三賞が贈られ、表彰・賞金の対象となる。三賞の賞金としては1つにつき200万円が授与される。 →詳細は「三賞」を参照
金星平幕(前頭)の力士が横綱に勝った場合、金星と呼ばれ、力士褒賞金に10円が加算される。4000倍という倍率からすると、実質4万円の昇給となる。 金星による力士褒賞金の加算(昇給)そのものは当該場所を負け越していても有効であるが、勝ち越している場合はそれとは別に三賞のうちの殊勲賞に選ばれることも多い。 →詳細は「金星 (相撲)」を参照
懸賞金幕内での取組によっては企業が懸賞金を提供するケースがあり、勝利した力士に授与される。企業から提供される懸賞金は2019年9月以降は1本につき7万円となっているが、納税充当金として3万円、協会の事務経費として1万円が天引きされ、力士の手取りは懸賞金1本当たり3万円となる。 →詳細は「懸賞 (相撲)」を参照
名誉賞横綱に昇進した力士は、名誉賞として100万円が授与される。 新大関に昇進した力士は、名誉賞として50万円が授与される。ただし大関から陥落した力士が大関に復帰(再昇進)した場合は授与されない。 また力士の例ではないが、行司の場合は、立行司に昇進すると、名誉賞として50万円が授与される。 廃止された各種表彰優勝旗手1909年6月場所から1931年10月場所までと、1940年1月場所から1947年6月場所までの期間には、優勝した片屋の関脇以下の最高成績力士が優勝旗手として表彰されていた。 →詳細は「優勝旗手」を参照
雷電賞1955年3月場所から1965年11月場所まで、関脇以下の最高成績者(三賞と異なり機械的に決まる)に与えられる表彰として、雷電賞が行われていた。 →詳細は「雷電賞」を参照
二位・三位力士に対する表彰1948年10月場所の1場所のみ、幕内から序ノ口までの各段の優勝(一位)力士の他、二位・三位力士に対する表彰が存在した。同場所は優勝が10勝1敗の西関脇増位山大志郎、二位が優勝決定戦敗者の西大関東富士欽壹、三位が9勝2敗の東大関佐賀ノ花勝巳で、佐賀ノ花勝巳は西前頭8枚目高津山芳信との三位決定戦を行って勝利していた。1949年10月場所では、幕内以外で三位まで表彰されている。 力士の退職金→詳細は「日本相撲協会 § 解雇」、および「除名 § 大相撲の除名」を参照
十両以上の力士には、現役引退時に退職金に相当する養老金および勤続加算金(いわゆる一般功労金)が支給される。資格者は幕内連続20場所以上または幕内通算25場所以上の者で、それに満たない者は非資格者となる。ただし、現役中に協会から除名処分を受けた者には支給されない。解雇処分された者については理事会の付帯決議で一部または全部の支給が見送られることがある。 養老金(2006年1月現在、単位:円)
勤続加算金番付の各地位における勤続場所数を乗じて、それぞれを加算した金額が勤続加算金の合計となる。下表の( )内の数字は、非資格者。 (2006年1月現在、単位:円)
特別功労金横綱・大関には、現役引退時に理事会の決議により養老金および勤続加算金とは別に特別功労金が支給される。 かつては、支給額は公表されていたが、2005年4月1日から個人情報保護法が施行されたことにより、同年5月場所から支給額は非公表となった。この措置に対しては公益法人たる財団法人日本相撲協会の方針として不適切であるとの意見もある。 力士の待遇力士には、地位によって以下の待遇の違いがある。
このほかにも以下のような違いがある。
待遇の歴史歴史的に見て、力士は永く薄給で酷使されてきた。江戸時代には本場所の興行収入は一部の年寄たち(江戸相撲会所。現在の日本相撲協会の前身)によって山分けされ、看板となるような人気力士、花形力士は別として、大半の力士への給与はなけなしのものだった。 三役力士ともなれば、大名家からお抱えとされ、藩士としての報償を受け取り、また贔屓客からの祝儀もあった。こうした力士は地方巡業へ出掛ければ各地の興行主(勧進元)から引く手あまたであって、むしろ懐は他の武士階級より潤っていた。一方、そうでない大半の力士は、細々と自主興行による「手相撲」で地方巡業を行い食いつないでいた。ただし、いわゆる「力人信仰」から来る善意の喜捨も多く、本当に食うに困るまで困窮する力士は少なかった。 本場所で「星を売る」、いわゆる八百長行為も横行していたと見られており、現在でも度々、八百長行為の存在が指摘されている。ただし、その真相解明は八百長行為を名指しされた者が八百長行為を認めることはないため、事情聴取も内輪の狎れ合いで済まされ、尻すぼみに終わる。これには、そもそも格闘技で年90回(十両以上は1場所15番×年6場所)もガチンコで試合を行うというのはアスリートの肉体的に不可能で、それを行おうともすれば力士の生命に対する危険はより高くなってしまうという意見もある[42]。 明治に入って以降も、大名家が藩閥政治の有力者に成り代わっただけで、こうした状況は変わらなかった。そのため力士による待遇改善要求は度々おこり、昭和における春秋園事件はその最後にして最大のものだった。相撲取りが相撲を取ることによって生計が立つようになったのは、昭和に入ってからと言って良い。1958年(昭和33年)、こうした相撲界の体質は国会で問題視され、それ以降は月給制等による力士の待遇改善の試みが進んだ。それでも、年6場所および地方巡業により一年間のほとんどを拘束される力士たちに対しては、「時給で見れば世界でもっとも可哀想なプロスポーツ選手」という声があり、横綱でも他のプロスポーツ選手のトップクラスと比べると相当に収入は安い。 また、金銭面に関しては、後援者(タニマチ)からの祝儀が大きな収入源の一つになっている。各力士によってタニマチの大小はあるが、横綱・大関などへ有力な人物がタニマチになった場合、優勝時には1,000万円以上の祝儀が集められるという。特に千代の富士の全盛時は一晩で5,000万円集まったという。これは角界では後援者からの祝儀は給与より大きな比重を占めているという現実がある。年寄株の取得資金、部屋経営の資金、有力学生相撲選手の獲得資金等も含めて、角界はタニマチなしでは成り立たない構造となっている。 力士の労働契約について一般に力士は日本相撲協会と労働契約を結び雇用される給与所得者とされており、他のプロスポーツ選手の大半が個人事業主であることに対して労働条件を異にする部分があるためこういった収入面に関する話題では一律に比較できないとも指摘される。実際に小錦は自身の大関在位時代(1987年7月場所から1993年11月場所)の月給について「100万円くらい。僕たちは着物を着るけど、安くても一つ30万円」と証言しており、地位に見合った着物など必需品を自費で購入することを考えれば安いとする主張をしたことがある。同時に「僕の時代は、どんな幕内力士でも(懸賞は)必ずあった」とも話しており、さらに「僕も200万近く貰っていた。一番いいときに」と自身の全盛期には場所の懸賞金が1ヶ月分の給料を上回っていた事実も明かした。[43][44]この時代に及んでも尚、協会から支給される月給だけでは関取個人の生活にも不足が生じる前提が生じていたのである。2001年(平成13年)に力士・年寄の給料増額が記録されてから2019年1月に力士の給料増額まで据え置きとなっていた時期があった。2008年には当時の力士会会長の朝青龍が「せめて場所入り用の交通費ぐらい何とかしてくれ」と相撲協会に賃上げを要求したが首脳陣に相手にされなかったという報告もあり、協会の財政状況があまりよくなかったとされる[45]。ただし2015年の冬季ボーナスは「もし俺に何かあったら、(給料の底上げを)頼むぞ」と北の湖が協会関係者に伝えていたことなどが影響し、2014年と比べて3割ほどアップしたという[46]。 とはいえ、力士が労働者として相撲協会に雇用されているのか、その特別な能力をプロとして提供することを委任しているのか、実は契約上曖昧である。たとえば日馬富士の貴ノ岩への傷害事件の際に白鵬や鶴竜まで減給処分になったのは、弁護士の山口元一によると「労働基準法91条が定める制裁制限の幅を超えていました。これは日本相撲協会が力士所属契約について、雇用契約たる性質を否定していることを示しています」とのこと[47]。なお、2011年の大相撲八百長問題で解雇された蒼国来が起こした訴訟における東京地裁の判決は、相撲協会と力士との間で結ばれている契約は「準委任契約」(=力士は個人事業主である)としている[48]。 一方で、福利厚生や引退時の退職金制度、税法上の取り扱い等では、他のプロスポーツより充実していて、見方によってはむしろ一般企業に勤める労働者に近い。例えば、国技館内には力士のみならず一般の診療も受け付ける診療所(公益財団法人日本相撲協会診療所。通称「相撲診療所」[49])があること、健康保険組合(日本相撲協会健康保険組合[50])を独自に運営していること、厚生年金制度を導入していること、また税金面においては給与所得や退職所得が適用されることにより、自身の報酬を事業所得として申告する他のプロスポーツ選手には無い手厚い控除が受けられること等である。1969年3月11日には国税庁が力士等に対する課税について個別通達[51]を行っていて、これにより後援会から受け取る祝儀などを含めて力士が得る有形無形の収入について適切な形で租税計算を行うことが可能となっている。[注 19]収入の無い幕下以下の力士であっても社会保険に加入することが可能であり、この場合は保険料は全額協会負担となる[52]。 一般の個人事業主の場合のように相撲部屋が銀行の融資を受けるケースもあるが、新興の部屋の場合は12代中立の中立部屋の例のように難航する場合もある。この例の場合、多くの銀行の担当者から断られた末に最後のつもりで尋ねた銀行の担当者が相撲に理解を持っていたことからようやく融資を受けられるようになった[53]。 退職力士が引退後協会に残らない時や年寄が停年を待たずに退職する場合などには廃業という言葉を用いてきたが、現役幕内力士であった旭道山和泰が衆議院議員選挙に出馬し当選したことがきっかけとなり、語感もあまり良くないことから1996年11月17日から次のように表現を改めた。
満65歳(誕生日の前日)を以って年寄は定年退職となるが、日本相撲協会では停年の表現を用いる。年を取ることをやめ、余生を楽しんでもらいたいという意をこめてのことである。なお、2014年11月16日からは停年になった年寄の再雇用制度が発足しており、この制度の適用を受けた年寄は給与が停年前より低くなり、部屋を持つことができないなどの制約はあるものの70歳までは日本相撲協会に残ることができる。 因習的な問題閉鎖性横綱審議委員会と言う諮問機関や、一部の事務職を外部から採用している以外、すべて元力士(年寄)によって運営され、その閉鎖性は繰り返し指摘される。かつてはおおむね年寄は短命であり、年寄株もむしろ余り気味なことが通例だったが、近年では空き株がほとんどない状況が続いている。結果として年寄株の高騰を招き(額面は9桁、億単位に達している)、1998年5月には「準年寄」制度の導入などで対応したが(2006年末廃止)、それでも数々のトラブルが発生している。小錦、若乃花(花田虎上)、曙といった、大関・横綱を務め人気もあった力士たちが次々協会を退職している理由としては、芸能界や格闘技、プロレスなど他分野に新天地を求めたい気持ちがあるが、親方になっても将来が保証されていない現状であり、そうした先行きの不透明感も一因としてあると言われている。 また、その閉鎖性のため旧態依然の封建的体質が色濃く残り、一部の部屋では俗に「かわいがり」と言われる(稽古名目での)私刑が横行していた。2007年には時津風部屋力士暴行死事件が発覚。愛知県警が双津竜順一らを立件する事態にまで至り、日本相撲協会北の湖敏満理事長(第55代横綱)が文部科学省より呼び出され事情を説明する騒ぎとなっている。また、時津風部屋では日本相撲協会による事情聴取についてマスメディアが駆け付けた際に時津風部屋所属力士が憤慨しカメラマンに暴行する事件も発生している。2010年9月にも、元十両・大勇武龍泉が12代芝田山(第62代横綱・大乃国)から暴行を受けたとして被害届を警視庁に提出。親方は書類送検されたが2011年1月起訴猶予となり、2012年12月に両者の間で和解が成立した。 また、力士養成員への手当金の親方による着服疑惑とそれによるトラブルも繰り返し指摘され続けているが、関取になったときに力士として認められるという慣習ゆえに、対応が取られた様子は当然ない。 出身地による参加機会の不均等理事会の申し合わせにより各部屋の外国出身者(日本国籍取得者も含む)の採用は1人までとされており、個人の出身地により参加機会が不均等になっている。 年寄の国籍要件年寄になるためには、日本国籍が必要である。運営上の閉鎖性問題もあるが、これは日本相撲協会が文部科学省所轄の公益財団法人であることが大きい。外国出身で役力士を務める者もおり、元高見山の12代東関や第67代横綱・武蔵丸の15代武蔵川など日本国籍を取得(帰化)して相撲協会に残る者もいる。 その一方、横綱・大関を務めた力士が引退後に角界を離れる場合もあるが、その事情は様々である。第64代横綱・曙は日本国籍を取得済みで、引退時に曙親方として東関部屋の部屋付きとなっている。年寄名跡の取得を希望していたが、師匠の12代東関が金銭観念の甘さ[54]を見て経営者の側面もある部屋継承者として適格と判断しなかったという[55]。第68代横綱・朝青龍は2010年1月16日未明に一般人に対する暴行事件を起こしたため、同年2月4日に相撲協会の引退勧告に従って引責引退をしている。また元大関・把瑠都は角界のしきたりや慣習に馴染めず、引退後も角界に残る意向は無かったという[56]。 女人禁制日本相撲協会主催の大相撲は土俵上への女性の立ち入りを認めていない。
この女人禁制の風習は明治期の「違式詿違条例」発令と「神道の穢れ感」を利用し「虚構の伝統」が創られたとされる[61]。 日本の相撲の歴史においては室町時代から女相撲も存在しているが、団体も違い、同一興行も行われていない[61]。1957年に大相撲の四国巡業において女相撲の大関若緑が勧進元挨拶をしたのは、第39代横綱・前田山と第二次世界大戦で相撲をやめてしまった若緑が懇意であったことからのはからいであった[62][63]。固辞する若緑に対し、前田山は「責任はとるから」と頼み込み、若緑は土俵上に立ったという[64]。 志願者の減少と意識の変容近年の日本では力士を志す人数は減少しており、2007年の名古屋場所にて行われた新弟子検査の受検者数は初めてゼロであった(2018年の名古屋場所で二度目の受検者ゼロ)[注 20]。それと併せて、大学相撲出身者および外国人による力士数の増加により、「宗教色を帯びた伝統的な儀式」よりも「一般スポーツ競技の一種」と捉えている力士数が増えている。 その他
→詳細は「相撲茶屋」を参照
本場所の観戦チケットの販売は相撲茶屋を前身とする国技館サービス株式会社が行っているが、一部の常連客への優遇が根強く、一般の観客の枡席券入手は困難な状況が続いている。
大相撲の公演中、升席では喫煙が認められていたが、健康増進法の施行に伴い、2005年(平成17年)1月場所から全館禁煙となった(室内スポーツの観覧席で唯一タバコが吸えた場所が大相撲の升席であったが、以前から他の観客や力士の健康や防災面からも異常との指摘も多く、ようやく重い腰を上げた形である)。そのため、升席で使用していた灰皿が相撲博物館に寄贈された。灰皿は陶製の物であるが、木枠に入っているなど特殊な形状をしている。
金星などの番狂わせがあった時や横綱が負けた時、観客が土俵に向かって座布団を投げる光景が見られることがある。2008年11月の大相撲九州場所からは、座布団投げ自体を危険行為とみなして厳しく取り締まることになり、マス席の座布団は、これまでの1人用の正方形4枚から2人用(縦1メートル25、横50センチ)の座布団2枚に変更し、さらに2枚をひもで結んでつなげた形に変わった。これにより、1人でも座布団に座っていれば座布団を投げられない仕組みになった。しかし、重さが2枚計4.8キロとなって投げられた場合の危険性が増したということで、同場所以降は、座布団投げが確認された場合は警察に通報するという厳罰化がなされた(詳細は「座布団の舞」の項を参照)。 外資系企業・他国からの表彰外資系企業1961年から1991年まで、パンアメリカン航空賞が優勝力士に送られていた。この贈呈にはパンアメリカン航空極東支配人のデビッド・ジョーンズが、「ヒョー、ショー、ジョォー」という独特の言い回しで始まる、方言なども取り入れた、ウィットに富んだ表彰状の読み上げを行い、好評を博していた。ジョーンズの注目度が非常に高かったため、多くの国々から友好杯などの賞が増えるきっかけともなった。しかし、1991年5月場所を最後に同賞は廃され(パンナム自体その約半年後に倒産)、ジョーンズも2005年2月2日に逝去している。 フランス共和国大統領杯・日仏友好杯「フランス共和国大統領杯」は、知日派で大の大相撲ファンと自他ともに認めていた第五共和国第五代大統領・ジャック・シラクが設けた優勝力士に対する大統領顕彰だったが、2007年5月にニコラ・サルコジが第六代大統領に就任すると、これをあっさりと廃止してしまった。シラクとの対比を自己の選挙戦の推進力としていたサルコジは、「坊主憎けりゃ袈裟まで」の方便をあらゆる分野で繰り広げた。その結果、シラクが幕内力士の名を諳んじるほどの相撲通だったものとは正反対に、サルコジは「あんなのは長い髪を結った太った男たちがやる、決して美しいとは言えないスポーツにすぎません」と大相撲を一方的にこき下ろすこととなり、これが事実上の選挙公約の一つにまでなってしまったためである。 2011年の名古屋場所から「日仏友好杯」として復活。副賞としてピエール・エルメ監修の黄金マカロン(22個)が贈呈されるが、生菓子という性質上、後日の受注製造となっているため、本場所での表彰式では巨大マカロンのオブジェが土俵に登場している[65][66]。 アメリカ合衆国大統領杯「アメリカ合衆国大統領杯」は、前々から相撲に興味を持っていた、アメリカ合衆国第四十五代大統領・ドナルド・トランプが令和元年(2019年)五月場所観戦時に設けた優勝力士に対する大統領顕彰のこと。朝乃山が受賞した[67]。なお、翌年以降も五月場所の優勝力士に贈呈する予定となっている[68]。 番付・勝敗記録等の現存状況・データベース登録情報など大相撲(この節では江戸勧進相撲や東西合併前の明治・大正時代の東京相撲等も含むものとする)の番付は、1757年(宝暦7年)10月場所の縦一枚番付から現存しているが、番付が現存する最初の5場所は勝敗等の記録が現存が確認されておらず、勝負付は1761年(宝暦11年)10月場所のものが現存最古のものとされる。江戸時代の番付が現存する場所のうち、1768年(明和5年)10月場所は唯一番付が現存せず、勝敗記録のみが現存する場所で、翌1769年(明和6年)4月場所は8日間のうち7日目の成績情報が現存していない。一方、『相撲起顕』は、1774年(安永3年)から1853年(嘉永6年)までの江戸本場所の相撲番付と、幕内から序ノ口に至るまでの勝負付を掲載しており、江戸相撲研究における基本書とされている。 明治期~昭和戦前について言えば、相撲協会が各場所後に発行する星取表は、1934年(昭和9年)5月場所から全力士の星取が掲載されるようになった。それまでは幕下の途中までしか載っていなかった。相撲レファレンスでも2024年現在幕内から序ノ口までの勝敗等の数が完全に登録されているのはこの場所からである。それ以前の明治期~昭和戦前の幕下以下の成績については2024年現在相撲レファレンス等のデータベースに登録がないため、それを調べるには図書館等で当時の雑誌を調べたり、あるいは当時の新聞記事を見るしかないことになり、それ以降と比べると調査が困難となる。またどこまで下位の勝敗記録が現存しているかであるが、明治30年代半ばまでは、勝負付の出版の際にスペースの問題でおよそ三段目中位以下の取組が省かれたため、その頃の序二段や序ノ口の力士の勝敗記録はほとんど現存していないと思われ、常陸山や2代梅ヶ谷などの生涯成績に記録が現存しない場所があるのはそのためである。1937年~1939年発行の山本義一著『相撲叢書』には1868年からの入幕力士の入門以来の星取表が掲載されているが、明治中期までの力士はおよそ三段目辺りまでは記録が現存せず不明とされている。新聞記事では、例えば万朝報では、明治34年5月より序ノ口以上の全取組結果が掲載されているようであるが、その他各社の新聞では途中からしか掲載されていないようである。また、昭和初期の地方本場所の成績は、『相撲叢書』の編纂当時には協会内に存在していたようであるが、東京大空襲の戦災で焼失した、あるいは戦後の混乱のうちに失われたと思われる。2024年現在の相撲レファレンスでは、幕下以下の勝敗記録・星取・取組等について、星の並びが全力士完全に登録されているのは1966年11月場所から、取組(対戦相手情報)が全力士完全に登録されており、なおかつそれが現在まで連続的に登録されているのは1989年1月場所から(それ以前も飛び飛びではあるが取組(対戦相手情報)が全力士完全に登録されている場所がある)、決まり手情報まで完全登録となると1991年7月場所からとなっている。 大坂相撲の場合は、勝敗記録の現存状況は江戸勧進相撲→東京相撲→現代の大相撲と比べるとかなり不完全であり、幕内ですら一部の勝敗記録の現存が確認されていない場所がある。 大相撲を主題とした作品テレビゲーム
モバイルゲーム
落語雑誌現在刊行中
かつて刊行していた雑誌
小説漫画作品
映画作品
テレビドラマ
その他
大相撲ファンの著名人→「好角家」を参照
脚注注釈
出典
関連書
関連項目外部リンク
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