元勰元 勰(げん きょう、473年 - 508年)は、北魏の皇族。彭城王。献文帝の六男で、孝文帝の弟、孝荘帝の父。字は彦和。諡号は武宣。 生涯473年、献文帝と潘貴人のあいだの子として生まれた。485年、始平王に封ぜられ、侍中・征西大将軍に任ぜられた。後に侍中のまま中書令に任ぜられ、彭城王に改封された。中軍大将軍・都督南征諸軍事として、南朝斉を討伐した。引き続き、新野・南陽に進出し、南朝斉の蕭衍と崔慧景の軍勢を撃破する功績を立てた。499年、孝文帝が病に倒れると、元勰は北魏の国政を総覧し、侍中のまま司徒・太子太傅となった。南朝斉の陳顕達が侵攻してくると、元勰は持節・都督中外諸軍事として北魏の六軍を統率した。孝文帝が死去すると、任城王元澄らとともに宣武帝を擁立した。500年、南朝斉の豫州刺史裴叔業が亡命してくると、元勰は寿春でこれを迎えた。司徒・揚州刺史となり、大司馬となった。諸軍を分遣して南朝斉の陳伯之や胡松を討ち、淮南を平定した。また高皇后の立后に反対し、高肇の恨みを買った。508年、京兆王元愉が乱を起こすと、元勰の母の兄弟の潘僧固が参加したため、元勰は元愉と通じていると高肇に誣告され、毒酒を飲まされて殺された。 後に孝荘帝が即位すると、元勰に文穆皇帝の諡と粛祖の廟号を贈った[1]。しかしさらに後の節閔帝の代になると、諡号と廟号を剥奪され位牌を宗廟から取り除かれた[2]。 妻子妻
男子
女子
養女
脚注伝記資料 |