孝静帝
孝静帝(こうせいてい)は、北朝東魏唯一の皇帝。姓は元、諱は善見(ぜんけん)。 生涯北魏の清河文宣王元亶の嫡男で、清河文献王元懌の孫、孝文帝の曾孫にあたる。母の胡智は胡寧の娘で、霊太后の従姪、また孝明帝の皇后胡氏の従姉妹(かつ孝明帝自身の又従姉妹)にあたる。 永熙3年(534年)に通直散騎侍郎に任ぜられた。8月には驃騎大将軍・開府儀同三司となる。孝武帝が渤海王高歓の排除に失敗して関中に入り、宇文泰に保護されたため、洛陽には皇帝が不在となった。このため10月に高歓は元善見を皇帝として擁立し、天平と改元した。この時孝静帝はわずか11歳で、実質的な権力は高歓が掌握した。趙郡王元諶を大司馬に、咸陽王元坦を太尉に、高盛を司徒に、高昂を司空にそれぞれ任じた。間もなく鄴に遷都した。長安では宇文泰が程なく孝武帝を殺害して元宝炬(文帝)を擁立し、以後は孝静帝の東魏と文帝の西魏が並立する状況となった。また、孝静帝の実父の清河王元亶は東魏において天平3年末(西暦で537年初め)まで存命であったが、死後に至るまで単なる諸侯王としてのみ礼遇された。 武定5年(547年)に高歓が死去すると、その長男の高澄が高歓の職を全て引き継いだ。高澄は孝静帝の動静を崔季舒を通じて逐一報告させ、「朕は朕でも狗脚の朕」と孝静帝を侮辱し、また崔季舒が孝静帝を殴打する事件が起こった。これらのことを憎んだ孝静帝は、元瑾・劉思逸・元大器・元宣洪らと密かに共謀し、高澄を誅殺すべく企んだ。しかし計画は察知されて、孝静帝は含章堂に幽閉され、共謀者たちは市で煮殺された。 武定7年(549年)に高澄が奴隷の蘭京の私怨を買って殺害されると、これを知った孝静帝は「大将軍(高澄)の死は天の意である。魏の帝室の権威は必ずや復興しよう!」と左右の者に打ち明けた[1]。しかし、直後に次弟の高洋が蘭京を誅殺し、早々に事態を収拾して兄の地盤を引き継ぐと、青ざめた様子で「あの者もまた朕とは相容れぬ。朕の命もいつまで持つであろうか」と嘆いたという[2]。武定8年(550年)1月に高洋は斉郡王となり、2月には斉王に上った。5月に相国・総百揆となった高洋によって、孝静帝は禅譲を迫られた。ここに東魏は滅び、北斉が建てられた。 帝位を譲った元善見は中山王に封ぜられて、1万戸を与えられた。しかし、天保2年12月(552年1月)に毒酒で殺された。享年28。3人の子もまた殺された。鄴の西の漳北に葬られたが、後に暴かれて陵墓は崩壊した。 宗室
后妃男子
脚注 |