孝武帝 (北魏)
孝武帝(こうぶてい、510年 - 535年、在位:532年 - 535年)は、北朝北魏の第13代(最後の)皇帝。姓は元、諱は脩(修とする史料もある)。第7代皇帝宣武帝の甥。『魏書』では出帝と記載される。 生涯広平王元懐の三男として生まれた。母は側室の李氏。武術を好み、全身傷だらけで、性格は強硬かつ大胆であった。 527年、汝陽県公に封ぜられた。中書侍郎・散騎常侍・平東将軍・鎮東将軍などを歴任した。530年、平陽王に進んだ。531年、侍中・尚書右僕射に任ぜられた。間もなく尚書左僕射に転じた。その後、戦禍を避けて逃げ、農村に身を隠した。 532年4月、斛斯椿と元脩の友人の王思政は大丞相・柱国大将軍・太師であった高歓の命で、元脩に皇帝への即位を打診すべくその居場所を探し出して訪問した。元脩が顔色を変えて「お前は私を売ったのか?」と問い質すと、王思政は「違います、帝位におつけします」と答えた。元脩はさらに「身の安全は保障があるのか?」と尋ねたが、王思政は「時局が揺れ動いており、安全は保障しがたくあります」とのみ答えた。しかしその後高歓自らが400騎を率いて元脩を迎えに行き、誠意を尽くして涙までこぼして即位を請うと、元脩は徳が少ないという理由で断ったが、結局受諾した。こうして元脩は安定王元朗(後廃帝)より禅譲の儀を受け[1]、皇帝として即位した(孝武帝)。 しかし、孝武帝は傀儡も同然であり、高歓は大丞相・天柱大将軍・太師として実権を握っていたことから、孝武帝は常に不安に怯えていた。孝武帝は斛斯椿や王思政らの使嗾により、高歓を排除しようと謀った。また、関中の賀抜岳と手を結び、賀抜勝を荊州に送って高歓に対抗させた。そして、高乾を処断し、高昂をも殺害しようとした。534年2月、賀抜岳が殺害されると、孝武帝はその後継者の宇文泰と結んだ。 孝武帝は、諸侯王時代に旧交があった宇文顕和(宇文泰の同族)に、「天下が乱れているが、どうしたらよいだろうか」と訊ねると、宇文顕和は「現在の方策は、善き者を選んで頼るより他ありません」と答え、詩をそらんじて「かの美人かな、西方の人かな」と言った。孝武帝は、「私の考えと同じだ」と言って、入関の計画を定めた。孝武帝は宇文顕和の母が老年で係累も多いので、計画に参加させようとした。しかし宇文顕和は「現在の情勢では忠と孝をともに立てることはできません。秘密がもれれば身を失う計画であるのに、私情をさしはさむことができましょうか」といって拒絶した。孝武帝は顔色を変えて「卿はわが王陵である」と言った[2]。そして、534年7月、斛斯椿らにより、孝武帝は洛陽から連れ出され、長安に向かった。8月、宇文泰に迎えられて長安に入った。このため、洛陽には皇帝が不在となり、高歓は代わって元善見(孝静帝)を皇帝に立てた。 孝武帝は3人の従姉妹(平原公主元明月・安徳公主・元蒺藜)を寵愛して不倫の仲となっていて、たびたび4人で乱交し、このうち元明月を長安へ伴った。しかし、宇文泰は孝武帝の乱交を憎み、元明月の実兄である元宝炬に命じ、彼女を騙しておびき寄せ、殺害した。そのため、孝武帝と宇文泰の間は険悪になった。534年閏12月、孝武帝は毒酒によって殺害された。 宇文泰は孝武帝の従兄の元宝炬(文帝)を代わって皇帝に立てた。こうして、高歓が実権を握る孝静帝の東魏と、宇文泰が実権を握る文帝の西魏が並び立つこととなった。 孝武帝の皇后高氏は高歓の娘であったが、孝武帝の死後に彭城王元韶に再嫁した。また、孝武帝の妹にも平原公主に封じられた公主(のち馮翊公主に改封)がおり、2度目の結婚で宇文泰との間に嫡子の宇文覚(北周の孝閔帝)をもうけた(後世に文帝元皇后と呼ばれる)。 孝武帝の遺骨は草堂寺に埋葬された。甥の孝閔帝のときに、皇帝の礼で改葬された。 宗室
脚注伝記史料 |