横溝光暉横溝 光暉(よこみぞ みつてる、1897年(明治30年)4月12日[1] - 1985年(昭和60年)1月16日[1])は、日本の内務官僚・弁護士。内閣情報部長、官選県知事。 経歴神奈川県出身。商業・横溝豊吉の四男として生まれる[1]。横浜一中、第一高等学校を経て、1921年6月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業[1]。1920年10月、高等試験行政科試験に合格[1][2]。1922年2月、内務省に入り、東京府属として内務部庶務課に配属された[1]。 1923年2月、広島県警視・警察部警務課長に就任。以後、同警察部保安課長、福岡県警察部特別高等警察課長、復興局長官官房計画課勤務、内務事務官・警保局保安課勤務、内閣書記官、内閣官房総務課長、兼法制局参事官、兼内閣調査局調査官、情報委員会事務官、内閣情報部長などを歴任[1]。 1940年2月、岡山県知事に就任[1]。1942年6月、熊本県知事に異動[1]。1944年8月1日、知事を依願免本官となり退官した[3]。以後、1945年10月まで京城日報社長を務めた[1]。 戦後、1947年10月から1951年8月まで公職追放となった[1]。1952年1月から1975年3月まで弁護士を務めた[1]。1952年、中央更生保護審査委員[2]、1955年、東京都労働委員会公益委員[2]、1959年、法務省司法法制調査部顧問、1969年[2]、小田急電鉄監査役[2]、1973年、国立公文書館顧問となる[2]。 1985年1月16日死去。享年87。 栄典
著書
脚注参考文献
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