皇典講究所皇典講究所(こうてんこうきゅうじょ、旧字体:皇典講󠄁究所󠄁)は、1882年(明治15年)に明治政府が神道事務局の後継団体として設立した神職養成の中央機関[2][3]。内務省の委託によって神職養成を行っていたが、戦後のGHQによる占領政策の圧力を受けて1946年(昭和21年)に解散。神祇関係の大日本神祇会、神宮奉斎会と合併し宗教法人神社本庁を設立し統合[4][5]。単独の法人として國學院大學を経営する財団法人國學院大學(学校法人國學院大學の前身)を設立した[6][5]。神職養成機関としての役割は國學院大學文学部神道学科を経て、同大神道文化学部に引き継がれている[5]。 概要明治時代に国家神道が成立した宗教政策で、大衆へ向けて皇道の教化活動を行う機関として開講された学校である[7][8]。1890年に教育事業が拡大され、國學院が開校された[8]。 設立後、事業の一環として1889年(明治22年)2月より『皇典講究所講演』を発刊した[9]。1890年(明治23年)には古事類苑の編纂事業が行われた[10][11][12]。また、延喜式の編纂事業が行われ、1931年(昭和6年)には延喜式撰上1,000年を記念して『校訂延喜式』が刊行された。内務省の委託を受けて神官・神職の養成を行ったほか、皇典講究所・國學院大學出版部は、神官資格試験の参考書を多く刊行した[13]。 設立とともに、神職の教導職兼務が廃止となって本務は祭祀に限定されることとなり、1884年には、教導職制度が廃止となる[14]。国家は、神道を非宗教として扱ったまま、神職は公的な国家祭祀を斎行していた[15]。やがて、財団法人に発展し、神道を国家の宗祀とした体裁が終わりを迎え、経営が困難になると、それまで神道人らの協力のもと、大日本神祇会、神宮奉斎会とともに神社関係の民間団体により共同経営された[16]。 沿革1877年(明治10年)頃、文明開化時勢の最中に大教宣布の不振、これに続く祭神論争によって、政府内から国学の研究を主旨とした学校設立を求める提案がされるようになった。1882年(明治15年)8月23日、明治天皇はその聖旨により、最も信頼を寄せていた有栖川宮幟仁親王を総裁に任命し[17]、有栖川宮から令旨が奉じられた山田顕義ら内務省高官と、松野勇雄ら数名の国文学者によって、同年11月4日、飯田町に皇典講究所が開黌(かいこう)した[18]。 皇典講究所は、修身・歴史・法令・文章の4科からなる文学部と、礼式・音楽・体操の3科からなる作業部の二部を擁して発足した。その開黌にあたって発表された「設立告文」によれば、文学部は「国典ヲ講明シ」、「徳性ヲ涵養セシメ、兼ヌルニ漢洋ノ学ヲ以テシ、其才識ヲ博メ」、「以テ国家有用ノ人物ヲ陶冶シ」、「大ニ国美ヲ海外ニ発揚スル」ことをその理念・目的とした[19]。 開黌6年後の1888年(明治21年)には規則改正が行われた。その際の改正趣意書によれば、皇典講究所を国書専門の学生を養成する機関であると定め、国書専門家を招集し、わが国の文献で今日に徴証すべきものは細大漏らさず研究せしめることとしている。学科は政治学科・法制学科・文学科の3学科とし、文学科には言語・文章・風俗・天産・工芸・美術・農業・地理の課程が設けられた[19]。 1889年(明治22)年2月11日に大日本帝国憲法が発布されると、法学界の中から外国の法理論は参考とし、日本の法律を中心に研究することを趣旨とする学校の設立を求める声が起こった。当時、初代司法大臣の任にあった山田顕義は、日本最初となるこの憲法の施行に向け日本独自の法典研究と教育が急務であると考え、自らが所長を兼ねていた皇典講究所内に「国法科」を新設することを構想した。また同時期、山田とは別に東京帝国大学教授・宮崎道三郎を中心とする若手の法律学者らによって日本法律を教授する学校の設立の計画が進められていた。 これらを契機として、山田は宮崎や憲法起草者である金子堅太郎ら法学者11名と協議し、1889(明治22)年10月、皇典講究所の中に「国法科」とはせずに、国法を専修する日本法律学校(後の日本大学)として開校した[19]。日本法律学校は開校当初、皇典講究所の教室において講義を行なうこととした。 その後、1890年(明治23年)には皇典講究所に国史・国文・国法を教授する國學院を開校し、前年に山田顕義らにより設立された[20] 第二次世界大戦終結後の1946年(昭和21年)1月25日に、GHQの圧迫により皇典講究所を解散し、財団法人國學院大學を設立。 なお、日本大学は、皇典講究所との深い関係性から1924年(大正13年)には神道教師の再教育を目的として神道講座を開講し[要出典]、神道教派聯合会(後の教派神道連合会)によって神道奨学会が組織された[要出典]。 年表発足から解散まで
解散後
基礎データ設置課程(開設当初)
備考
明治15年11月4日、近代国家の学黌(がっこう。「学校」と同義、読みも同じ)として、日本独自の学問を講究するという意図を告諭している[22]。
設立が正式に認可されたのは1882年8月23日であり、9月1日に開黌式を実施する予定であったが、総裁有栖川宮幟仁親王の体調により延期され、11月4日となった。授業は9月から実施されていた。 「六月三日、校地を東京市麹町区飯田町五丁目八番地の旧旗本秋元隼人邸に定め、(中略)八月二十一日には「従前之生徒寮ヲ止メ、専ラ国典ヲ研究スル為メ、皇典講究所ヲ設置致シ云々」といった内容の「皇典講究所設置願」を岩下方平神道副総裁名で山田顕義内務卿に提出し、同23日に認可となっている。後日、財団の登記日はこの日を以って設立日とした[23]。 公私学校皇典講究所は、構内に研究を目的とした機関を設立した。所長山田顕義司法大臣は、1889年(明治22年)に日本法律学校を創設し次いで翌年、國學院を設立。その後、公私法律学校を育成した[24]。
1889年に皇典講究所所長であった司法大臣山田顕義は、日本の法体系の整備として、日本古来の法と外国の法による日本独自の法典研究を目的とした教育機関を皇典講究所内に設立した。 →詳細は「日本法律学校」を参照
また法律学校に続いて、1890年に国史、国文、国法を研究して、国家概念すなわち民族の方向性と神道の教学機関として、国学の普及および神職養成を行うための國學院を開院した[25]。 役職者國學院大學の役職者については國學院大學の人物一覧#役職者を参照。 総裁
副総裁
所長
幹事長幹事
専務理事理事その他教学分離による旧内務省の再編として、当時、神道取調掛に任命されていた内務卿の山田顕義が神道大会議終了後の建議により決定している[注 1]。1885年内閣制が定められ、1886年に伊藤博文は官吏養成機関を設置した。1889年大日本帝国憲法の制定により、皇学から官学中心の高等教育体制の周辺部に移行していった。神職養成機関は、伊藤の政策により帝国大学令を定め官吏養成機関へと移り変えられていった。こうして、明治29年法律第八十九号の公益法人の設立が施行し、1898年施行の新民法によって、当時、近代的組織であった財団法人(公益法人)に移行した[注 2]。 脚注注釈出典
参考文献
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