馬場鍈一
馬場 鍈一(ばば えいいち、1879年(明治12年)10月5日 – 1937年(昭和12年)12月21日)は、日本の政治家、大蔵官僚。法制局長官、日本勧業銀行総裁、貴族院勅選議員、広田内閣大蔵大臣、第一次近衛内閣内務大臣を歴任した。積極財政派で、蔵相時代に大規模な省内人事の刷新や極端な積極財政を行った馬場財政で知られる。 来歴生い立ち東京府芝区(現在の東京都港区)に、旧幕臣・山本時光の長男として生まれる。時光は一時期日雇人夫に身をやつしていたと伝えられ、生家は貧しかった。後に鉄道技師で、旧会津藩士の馬場兼の婿養子となり改姓する。麹町区富士見小学校高等科3年から1892年(明治25年)4月に東京府尋常中学校2年へ編入学、1896年(明治29年)3月に尋中を卒業し、第一高等学校文科政治科へ入学。一高の寮では同期の岩崎小彌太と同室だった。1899年(明治32年)7月に一高を卒業し、東京帝国大学法科大学に入学。1903年(明治36年)東大法科大政治科を卒業。卒業順位は、1位が後に東京市助役となった小野義一、2位が後に商工大臣や鉄道大臣などを歴任した小川郷太郎、3位が後に右翼の憲法学者として天皇機関説を猛烈に批判した上杉慎吉で、馬場は4位だった。 官僚から銀行家へ馬場は卒業順位の雪辱を果たしてその年の高等文官試験に首席で合格、晴れて大蔵省に入省した[1]。 この後馬場は、横浜税関監視部長、韓国統監府総務部経理課長を経て、1907年(明治40年)には法制局に転じ、1922年(大正11年)3月に政友会党内抗争の煽りで突如辞任した横田千之助の後任として高橋内閣の法制局長官となった。在任3か月で高橋内閣が総辞職したことで馬場も免官となったが、同年12月19日には貴族院勅選議員に勅任される[2]。馬場は当時貴族院における政友会の別働隊的な行動をとっていた研究会に所属、やがて交渉と妥協に長けた折衝の名人として頭角を顕わし会派の中心的存在となっていく。 馬場はそれまで銀行畑とは縁がなかったが、1927年(昭和2年)には政友会の田中義一内閣の人事により日本勧業銀行総裁に就任[3]、1936年(昭和11年)までその任にあった。勧銀総裁在任中、馬場は特に農村金融の充実に尽力した。彼は本来は正統的な均衡財政論者だったといい、濱口内閣の井上準之助蔵相による金解禁政策も支持していた。しかし勧銀総裁として金解禁後の不況による農村部の疲弊をつぶさに目にし、また満洲事変以後ソ連と直接で国境を接することになって軍備の重要性を再認識したこともあり、この頃から積極財政主義に転向していったと考えられている。 馬場財政の混乱とその後1936年(昭和11年)に広田内閣が発足すると馬場は満を持して蔵相として入閣。前任者の高橋是清蔵相が掲げていた公債漸減主義を放棄し、国防の充実と地方振興のためには増税と公債増発をもいとわない財政声明を出した(馬場財政)。またその政策遂行のために省内の人事刷新にも着手、長沼弘毅を蔵相秘書官にして新たな人事を練らせた。まず津島寿一次官を退任させ、軍部と強硬に渡り合ってきた賀屋興宣主計局長を理財局長に異動させたほか、石渡荘太郎主税局長を内閣調査局調査官へ、青木一男理財局長を対満事務局次長へと、それぞれ省外へ放出した[4]。 こうして馬場が初めて主導権を握って作成した昭和十二年度一般会計予算案の概要は次の通りだった。
増税はタバコの値上げなどで賄うことにした。こうして昭和十二度予算案が明らかになると、軍需資材の需要増を見込んだ商社が一斉に輸入注文を出し、輸入為替が殺到して円が下落、輸入物資の高騰を招く混乱を招いた。この直後の1937年(昭和12年)1月21日に浜田国松議員と寺内寿一陸相との間で「腹切り問答」が起き、これに憤慨した寺内が単独辞任をちらつかせながら衆議院を懲罰的に解散することを広田に要求すると、広田はあっさりと閣内不一致を理由に内閣総辞職。これでこの予算案は結局廃案となった。しかし後に広田は賀屋興宣に対し、実は「腹切り問答」は助け舟のようなものだったことを打ち明けた。本当は馬場財政のあおりで外国為替や経済情勢が混乱して、どのみち内閣を投げ出さざるを得なかったのだという。 広田内閣総辞職から短命の林内閣を経た4ヶ月後の1937年(昭和17年)6月に第一次近衛内閣が発足すると、馬場は軍部の強い後押しにより内務大臣として入閣した。軍部はもとより、近衛も当初は馬場を蔵相に再起用することを考えていたのだが、財界には馬場財政への不信と風当たりがたいへん根強く、かといって今更断れない近衛は結局馬場を副総理格の内相という、そもそも広田を外相として迎え二頭立ての陣容になっていた近衛内閣においてはいかにも中途半端な立場に処遇せざるを得えなかったのである。馬場はそれからわずか半年後に病気を理由に辞任すると、1週間後の12月21日に心筋梗塞を起こして急死した。満58歳。没後従二位勲一等旭日大綬章が贈られた。墓所は生家の菩提寺である品川の海晏寺に造られたが、後に多磨霊園に改葬された。 家族
義弟に栄夫(明治27年生まれ)、義妹の二女昶(明治22年3月生)は高知藩士の浮田修身に嫁いだ。 栄典
記念
脚注参考文献
関連項目
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