林義郎
林 義郎(はやし よしろう、1927年〈昭和2年〉6月16日 - 2017年〈平成29年〉2月3日[1])は、日本の政治家、通産官僚。位階は正三位。 大蔵大臣(第97代)、厚生大臣(第62代)、衆議院議員(11期)などを歴任した他、日中友好議員連盟や日中友好会館の会長も務めた。 来歴・人物山口県下関市貴船町出身。豊浦中学4年修了、旧制第一高等学校を経て、1950年(昭和25年)に東京大学法学部を卒業する。同年、通商産業省に入省する。入省同期に栗原昭平、諸口昭一(札幌通産局長、東商大卒)などがいる。通産省では、通産大臣秘書官、通産省重工業局産業機械課長を歴任する。 1969年(昭和44年)に通産省を退官。同年末の第32回衆議院議員総選挙に自民党公認で周東英雄の後継者として旧山口1区から立候補し、初当選した(当選同期に小沢一郎・羽田孜・梶山静六・奥田敬和・渡部恒三・綿貫民輔・塩崎潤・森喜朗・村田敬次郎・松永光・江藤隆美・中山正暉・浜田幸一など)。自民党では佐藤派に所属。 1972年(昭和47年)7月7日、田中角栄が総理大臣に就任。「七日会」として正式に田中派が旗揚げされ、林は田中派に移った。経済企画政務次官、大蔵政務次官、自民党経理局長などを歴任。 1982年(昭和57年)11月、第1次中曽根内閣の厚生大臣として入閣。当時は珍しかった通産省出身の政治家として国際金融政策を中心に党内有数の政策通として知られ、田中派内の竹下登、金丸信ら党人派の実力者とは一線を画した。宮澤喜一が派閥横断的に組織した政策集団「平河会」では事務局長を務め、宮澤の良き理解者となる。 1987年(昭和62年)7月、経世会が結成される。当時141人の議員を有していた田中派は、竹下派(114人)、二階堂グループ(15人)、中立系(12人)に3分裂。林は残留し、二階堂グループに所属した[2]。 1989年(平成元年)、第15回参議院議員通常選挙に敗北して、内閣総辞職を表明した宇野宗佑首相の後任を選ぶ総裁選挙に、「平河会」のつながりから宮澤派の支持を得て立候補、120票を獲得した。 1990年(平成2年)2月の第39回衆議院議員総選挙後、二階堂グループは解散状態に追い込まれる[3]。同年3月8日、林は宮沢派に移った[4][5]。 海部内閣では衆議院税制改革特別委員長、宮沢内閣で衆議院国際平和協力特別委員長にそれぞれ起用された。衆議院国際平和協力特別委員長として、PKO協力法案を衆院本会議に送るため、11月27日の同委員会で強行採決に踏み切った[6]。その後、翌年のPKO国会にて成立した。 1992年(平成4年)、宮沢改造内閣で大蔵大臣に就任する。その後は、自民党税制調査会の幹部として、小委員長、税制調査会長を歴任して、いわゆるインナーの一人として自民党税調に影響力を維持した。また、小選挙区比例代表並立制が導入されて以後は、安倍晋三と調整の上、比例中国ブロックから選出された。 2000年(平成12年)、勲一等旭日大綬章を受章する。2001年(平成13年)、自民党金融調査会長に就任。2003年(平成15年)の第43回衆議院議員総選挙には立候補せず、政界を引退した。日中友好議員連盟では会長を務め、2017年12月12日には子息芳正が会長に就任している。 2017年(平成29年)2月3日、多臓器不全で死去。89歳没[7][1]。没後、正三位に叙された[8][9]。 家族・親族林家林家は、下関市の醤油醸造業・大津屋や、下関市を中心に展開するバス事業者・サンデン交通の経営を行っている。(2013年11月の時点で、大津屋の代表取締役社長は実弟の長男・林俊作である。)
略系図
その他
脚注
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