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加藤友三郎内閣

加藤友三郎内閣
内閣総理大臣 第21代 加藤友三郎
成立年月日 1922年大正11年)6月12日
終了年月日 1923年(大正12年)9月2日
与党・支持基盤 立憲政友会
内閣閣僚名簿(首相官邸)
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加藤友三郎内閣(かとうともさぶろうないかく)は、海軍大将加藤友三郎が第21代内閣総理大臣に任命され、1922年大正11年)6月12日から1923年(大正12年)9月2日まで続いた日本の内閣

1923年(大正12年)8月24日、加藤が首相在任のまま死去し、外相の内田康哉が首相を臨時兼任して同年9月2日まで事務を取り扱った。なお薩長出身でない軍人が首相を務めたのは、広島藩出身の加藤友三郎が最初である。

内閣の顔ぶれ・人事

国務大臣

1922年(大正11年)6月12日任命[1]。在職日数440日。

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣総理大臣  21 加藤友三郎 海軍大将
海兵7期
男爵
海軍大臣兼任 1923年8月24日死亡欠缺[2]
外務大臣 34 内田康哉 外務省
伯爵
留任
内務大臣 33 水野錬太郎 貴族院
立憲政友会
交友倶楽部
大蔵大臣 22 市来乙彦 貴族院
無所属
研究会
初入閣
陸軍大臣  15 山梨半造 陸軍大将
陸大8期
留任
海軍大臣 8 加藤友三郎 海軍大将
(海兵7期)
男爵
内閣総理大臣兼任 留任
1923年5月15日免兼[3]
9 財部彪 海軍大将
海兵15期
初入閣
1923年5月15日任[3]
司法大臣 24 岡野敬次郎 貴族院
立憲政友会
(交友倶楽部)
初入閣
文部大臣 30 鎌田栄吉 貴族院
立憲政友会
(交友倶楽部)
初入閣
農商務大臣 29 荒井賢太郎 貴族院
立憲政友会
(交友倶楽部)
初入閣
逓信大臣 26 前田利定 貴族院
無所属
(研究会)
陸軍中尉
子爵
初入閣
鉄道大臣 2 大木遠吉 貴族院
無所属
(研究会)
伯爵
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

内田外相の臨時兼任期間

1923年(大正12年)8月24日任命[2]。在職日数10日。

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣総理大臣 - 内田康哉 外務省
伯爵
臨時兼任
(外務大臣兼任)
1923年8月24日任[2]
外務大臣 25 内田康哉 外務省
伯爵
内閣総理大臣臨時兼任 留任
内務大臣 33 水野錬太郎 貴族院
立憲政友会
(交友倶楽部)
留任
大蔵大臣 22 市来乙彦 貴族院
無所属
(研究会)
留任
陸軍大臣 15 山梨半造 陸軍大将
(陸大8期)
留任
海軍大臣 9 財部彪 海軍大将
(海兵15期)
留任
司法大臣 24 岡野敬次郎 貴族院
立憲政友会
(交友倶楽部)
留任
文部大臣 30 鎌田栄吉 貴族院
立憲政友会
(交友倶楽部)
留任
農商務大臣 29 荒井賢太郎 貴族院
立憲政友会
(交友倶楽部)
留任
逓信大臣 26 前田利定 貴族院
無所属
(研究会)
陸軍中尉
子爵
留任
鉄道大臣 2 大木遠吉 貴族院
無所属
(研究会)
伯爵
留任
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

内閣書記官長・法制局長官

1922年(大正11年)6月12日任命[4]

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣書記官長 23 宮田光雄 衆議院
無所属
庚申倶楽部
法制局長官 20 馬場鍈一 大蔵省→)
貴族院
無所属
(研究会)
留任
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

勢力早見表

※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。

出身 国務大臣 その他
こうゆうくらふ交友倶楽部 4
けんきゆうかい研究会 3 法制局長官
こうしんくらふ庚申倶楽部 0 内閣書記官長
くんふ軍部 2 国務大臣のべ3
かんりよう官僚 1
10 国務大臣のべ11

内閣の動き

高橋内閣は、原敬首相の暗殺を受けて急遽首相に就任した高橋是清が、与党立憲政友会の党内をまとめることができず、半年余りで内閣総辞職に至る。後継の内閣としては、野党第一党の憲政会が想定されていたが、首相奏請権を握っていた元老松方正義西園寺公望)は、憲政会の加藤高明総裁の首相としての力量を疑問視しており、奏請には後ろ向きであった[注釈 1]。そのため、後継首相の選定を主導した松方元老は、まず海軍重鎮の加藤友三郎海相を優先候補とし、加藤海相の組閣が不調に終わった場合は、憲政会の加藤総裁に打診する方針で臨む。

加藤海相は、当初はこれを機に隠匿する心づもりであり、最初は辞退したが、憲政会への政権移譲阻止を図る政友会から「党員入閣でも好意的局外中立でも無条件をもって内閣組織を援助する」意向が伝えられたことにより翻意、政友会は加藤友三郎政権を閣外協力する形で与党の座を維持する[5]

主な施策

1923年(大正12年)8月24日、持病を理由にしばらく自宅で静養していた加藤総理がそのまま死去。大腸ガンの悪化によるものだった。翌25日に加藤友三郎内閣は総辞職、次の内閣が発足するまでの間は外務大臣内田康哉総理大臣を臨時兼任して関連事務を取り扱った。後継の首相となった山本権兵衛が組閣を行っている最中、関東大震災大正関東地震)が勃発する。

脚注

注釈

  1. ^ 加藤総裁は、第2次大隈内閣立憲同志会(憲政会の前身)総裁として入閣した際、外交政策を巡って元老と対立を引き起こした過去があった。

出典

参考文献

  • 升味準之輔『日本政治史 3 政党の凋落、総力戦体制』東京大学出版会東京都文京区、1988年7月8日。ISBN 4-13-033043-8 

関連項目

外部リンク

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