国鉄20系客車国鉄20系客車(こくてつ20けいきゃくしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1958年(昭和33年)に開発した寝台列車用客車である。 概要1958年から1970年までに合計14形式473両が製造された[1]。他形式からの改造編入が6両あったほか、系列内での改造による形式増加があり、最終的には20形式479両となった[2]。 最初に投入された列車にちなみ「あさかぜ形客車」とも呼ばれ、その設備の優秀さから登場当時は「走るホテル」とも評された[3]。 電源車から一括供給される大容量の電力により、国鉄制式客車としては初となる全車空調装置の装備と、食堂車調理設備の完全電化を実現。また編成内の旅客車全車に空気ばね台車[注 2]を装備するなど、居住性を大きく改善した画期的な車両である[4]。 構造日本で初めて同一系列・同一意匠の車両による「固定編成」を組むことを前提とした体系的な基本構想の下に設計された客車である。本形式の要である電源車を中心とした軽量構造の固定客車は、東海道本線の全線電化の暁に目玉となる強力な電気機関車[注 3]で牽引する新特急計画で具体化しており、遅くとも1956年末までに実現する予定であった[5]。1955年に島秀雄が技師長に就任すると計画は見直され、動力分散方式へ方針が変更されたため[6]、計画されていた客車列車は「あさかぜ」のサービスアップ計画に活用されることになった[7]。 塗装は青15号にクリーム色1号の帯[注 4]を3本巻いた外観はデザイン的にも優れ、以後の客車寝台特急も含めて「ブルートレイン」と呼ばれる起源となった。 車体設計は先行する10系客車を基本とし、普通鋼使用であるものの、台枠だけではなく側板などにも荷重を負担させることで、梁や柱などの構造部材を省略して大幅な軽量化かつ側面を腰板部で絞った大断面準張殻構造車体を採用した。外板は1.6mm厚、屋根板は1.2mm厚の冷間圧延鋼板を使用し、イボ付絶縁屋根布を張っている[8]。鋼体内側には10mm厚のスプレーアスベストを吹き付け、防音・防熱性に配慮した[8]。 屋根部は床下冷房搭載により扇風機カバーや通風器などの突起物を一切取り付ける必要が無くなったことから、車両限界を最大限に活用すべく丸く深い切妻構造の断面形状である。 また完全冷房化により、側窓は車掌室やトイレなど開閉の必要のあるものを除き全て複層ガラスとゴムシーリングによる固定窓とした。座席車はシートピッチに合わせた狭窓を、寝台車や食堂車は区画に合わせた広窓を採用し在来車の窓配置を踏襲する形で窓寸法が決定されている。
編成の最前部・最後尾に連結される電源車は3枚の平面ガラス、緩急車は2面の曲面ガラス[注 5]を採用する丸妻型デザインである。また分割運用にも対応する編成中間の緩急車は、貫通路を備える切妻形デザインとした。 内装は当初は10系客車同様のハードボードと称する木質樹脂板を使用したが、途中からメラミン樹脂化粧板に変更された。
ナロネ20・22形では、「ルーメット」と称する1人用個室[注 6]を国鉄の営業用客車では初めて採用した[注 7]。 2等寝台車は10系寝台車と同様、3段式の折りたたみ寝台を備える側廊下式配置で、組立・解体作業は手動で行った。
客用扉は自動ドアの採用を見送り、電磁弁で遠隔ロックのみ可能な手動式折り戸である。
愛称板は非貫通タイプの電源車・緩急車では5角形のアクリル板[注 11]による電照式大形愛称表示装置を採用した。
分割用緩急車であるナハフ21・ナハネフ21・ナハネフ23では貫通路を挟んだ形の2分割タイプのバックサインで、列車名のアクリル板を車内側の蓋を開けて差し込む構造である。 客用扉及び車端部には固定式の等級・種別・号車・行先の各表示灯を設置し、客用扉部には列車名の表示灯も備えた[注 13][11][12]
主要機器電源システム従来型客車が装備した蒸気暖房・車軸駆動冷房・石炭レンジなどをすべて排除した、国鉄としては初となる「完全電化」車である。このため編成の一端に連結された電源車[注 15]により、編成内の冷暖房や食堂車調理設備等の電源の一切を供給する集中電源方式を採用した。 電源車はマニ20形・カニ21形・カニ22形が新造され、DMF31S-G形ディーゼルエンジンと三相交流600 V電源を供給するPAG1形発電機を2セット搭載するが、カニ22形ではそれに加え、直流電化区間でパンタグラフからの集電によって駆動する大容量電動発電機も搭載した。 九州地区での付属編成分割運転に対応するため、旧形客車から改造された簡易電源車のマヤ20形では、DMH17C-G・DMH17S-G形ディーゼルエンジンとPAG7形発電機を2セット搭載した。 発電された電力はKE2形ジャンパ連結器を介し、全車両に給電される。給電された電力は車両ごとの変圧器でさらに電灯電源にあたる単相100 Vと動力電源にあたる三相200 Vに変換され、前者は照明・サービス用コンセント・冷水器・ジュースクーラーなどの小型電化機器に、後者は空調や食堂車の調理機器に用いられた。 冷房装置冷凍能力12,800kcalの三菱電機製AU21形もしくは日立製作所製AU22形集中式冷房装置[注 16]を各車の床下に2基搭載し、電源車から給電される電力で駆動する。なお、前者は日本車輛製の車両に、後者は日立製の車両に搭載された。 台車電源車以外の各形式については10系で開発・実用化されたTR50形を基本としつつ、乗り心地改善のために枕ばねをベローズ式空気ばねへ置換えた鋼板プレス材溶接組み立てによるペデスタル式の軸ばね式台車であるTR55形を装着する。だが、同時期の特急形電車・気動車で採用された2次蛇行動を抑止するボルスタアンカーの装着は見送られた。これら電車・気動車は全てウイングばね式台車であり、後年増備の車両はさらに軸ばねにオイルダンパーも装着した。これらを装備しない客車用台車は線路の載る地盤や道床の影響を受けやすい欠点を抱えるが、製造当初から既に電源車以外の重量が全てナ級(換算3.0両)ぎりぎりであり[注 17][注 18]、後継の14系等を含めこれ以上にサスペンションに手を入れることはなかった。 これに対し電源車は乗り心地に対する配慮が特に必要なく、また荷重も大きいことからばね定数を大きくとり、枕ばねを金属ばねとしたTR54・54A・66の各形式を装着する。 連結器固定編成が前提の観点から、編成の中間となる車両の連結器は噛み合わせの遊びを極力少なくした密着自動連結器とし、また車体台枠へのマウント部分に前位側に油圧式、後位側にゴム式の緩衝装置を設けることで衝撃を吸収出来る設計を採用。さらに高速運転時の横揺れ対策として、妻面に車端ダンパを装備した。 また前述の電力供給用KE2形以外にも制御・連絡回線用KE59形(19芯)[注 19]、1968年(昭和43年)のブレーキ改造後は電磁ブレーキ指令用KE72形(9芯)の各ジャンパ連結器を装備する。 ブレーキ新造開始当初は山陽本線の電化区間が姫路に到達(1958年4月10日)したばかりで、非電化区間ではC62形などの蒸気機関車が牽引を担当した。このため、在来型客車と同様に通常のA動作弁に対するブレーキ管指令によるAS自動空気ブレーキを装備し、最高速度は従来通り95km/hに制限された[注 20]。AS自動空気ブレーキは在来形客車が搭載しているAV自動空気ブレーキとは構造がほぼ同じなので、AS自動空気ブレーキを搭載していた頃は在来形客車との併結も可能であった[注 21]。 その後1967年10月の常磐線全線電化完成で本系列の幹線系での蒸気機関車牽引による運用が消滅し、さらに1968年9月をもって最後まで残っていた佐世保線内のC11形牽引運用もDD51形への置換えが決定したことから、1968年10月1日のダイヤ改正に向けASブレーキに中継弁 (Relay valve)・電磁給排弁 (Electro-pneumatic valve)・ブレーキ率速度制御機能を付与したAREB増圧装置付き電磁自動空気ブレーキ化改造工事[注 22]を実施し、110km/h運転対応となった。 この改良により以後の営業運転時は原則として牽引機関車が限定されることになり、最高速度95km/h超での運転では以下の装備[注 23]が必要となった。 また95km/h以下での運転の際にも増圧圧縮空気や空気ばね台車への供給源として元空気溜管の接続を必要としたため全ての運用について牽引機関車が限定された[注 26]ほか、AV自動空気ブレーキを搭載する在来形客車との併結はできなくなった。
この牽引機限定の制約は、後年の急行列車転用に際して機関車側からの元空気溜管への供給を不要とするためカニ21形の荷物室に空気圧縮機を搭載改造したカヤ21形が竣工するまで継続した。 形式解説文中以下の点に注意。 新造車本系列の新造車は、原則として車両番号下2桁1 - 49は日本車輌製造、51 - 99は日立製作所と、製造メーカーでの区分を実施した。なお、日立製作所は1963年(昭和38年)の「みずほ」用増備車を最後に客車の製造を中止したため、この区分原則は崩れ、1970年(昭和45年)製造のナハネ20 350 - 364では車番の下2桁が50以降であるが、日本車輌製造製となった。また、本来は国鉄の客車・気動車の製造を担当していた富士重工業・新潟鐵工所は、本系列の製造に関しては最後まで携わることはなかった。 また、本系列では内装の仕様に対して、ある程度のメーカーの裁量が認められていたこともあり、後述するように、ナロネ20形・ナロ20形・ナシ20形・ナハ20形については日本車輌製造製と日立製作所製とで内装に大きく異なる点が存在する。 寝台車・座席車・食堂車・その他の順に記述する。 ナロネ20形1958年(昭和33年)に3両のみ製造された1人・2人用1等個室寝台車。区分室のみで構成されており、定員は18名。
それぞれの個室両端に洋式トイレを1室ずつ計2室のほか、荷物保管室・給仕室を設置するなど本系列の代名詞である「走るホテル」の名を具現化した豪華車両でもある。 本形式は1次車3両が製造されたのみであるが、日本車輌製造の1・2と日立製作所製造の51とでは窓配置が異なるほか、車内デザインに差異が存在する[注 28]。
新製時から1975年3月10日国鉄ダイヤ改正で運用を終了するまで終始「あさかぜ」専用で、品川客車区に配置された。山陽新幹線博多開業後は他線区への転用も難しいことから、1976年(昭和51年)に全車廃車され形式消滅となった。 ナロネ21形1958年(昭和33年)から1970年(昭和45年)にかけて59両が製造されたプルマン形開放式1等寝台車。室内配置はマロネ41形を元にした、中央通路を挟んで左右に上下2段寝台をレール方向に7区画ずつ28名分寝台が配置され、そのほかに喫煙コーナー・給仕室・荷物保管室・和式ならびに洋式トイレが設置された。
後に一部が座席車ナハ21形に改造され、分割民営化までに多くが廃車された。残存した少数の車両はカートレインなどで運用されたが、1996年(平成8年)には全車廃車となり形式消滅した。 ナロネ22形1959年(昭和34年)の「さくら」運転開始に合わせて製造開始された1人用個室・開放式合造1等寝台車。1963年(昭和38年)までに1 - 3・51 - 55の8両が製造された。 前位はナロネ20形と同じ1人用個室が6室、喫煙コーナーを挟んで後位には開放式寝台を16名分設置する。 なお、ナロネ20形とは異なり、外観や個室寝台の車内デザインは日本車輌製造車両と日立製作所製造車両とでの違いはなく、後者製造分も内装は前者製造分にほぼ統一されていた。 乗務員室→専務車掌室・荷物保管室→乗務員室とし730 mmの窓を新設する改造が1969年(昭和44年)および1970年(昭和45年)に大船工場で施工され、原番号+100となった。 九州ブルトレにのみ連結された関係から終始品川客車区配置であり、最後の連結列車であった「あさかぜ(下り)1号・(上り)2号」の24系25形客車置換えにより全室1人用個室のオロネ25形で代替され、こちらも他線区への転用が困難なこともあり、1978年(昭和53年)に廃車・形式消滅となった。 ナハネ20形2等寝台車。1958年(昭和33年)から1970年(昭和45年)にかけて、1 - 49・51 - 91・101 - 149・201 - 249・301 - 364と、本系列中最多の253両が製造された。基本的なレイアウトはナハネ11形に準じ、車内は側廊下式で幅520 mmの3段式寝台が9ボックス54名分並ぶ構造は踏襲しているが、当初より冷暖房完備で、各段寝台の上下間隔が大きく取られ、快適性が改善された[注 29]。また固定窓となったため窓下に格納スペースが生まれ、通路側下部には折りたたみ式座席[注 30]が設置されたほか、車端部に和式トイレ2室と洗面台3基、出入り口付近に給仕室を装備する。JRに継承されたが1997年までに形式消滅した。改造車については後述。 ナハネフ22形全車寝台化への方針変更によりナハフ20形に代わって1964年(昭和39年)から1970年(昭和45年)にかけて1 - 26が日本車輌製造のみで製造された2等寝台緩急車。ナハフ20形後期車輌同様の非貫通式でパノラミックウィンドウ(曲面硝子2枚)を採用し、最後尾は車掌室と展望室を設置する。寝台はナハネ20形同様の3段式が8ボックス48名分設置されており、トイレ・洗面所もナハネ20形と同じである。車掌室とは別に乗務員室も設置された。改造車については後述。一部がJRに継承されたが1996年(平成8年)までに全て廃車となり形式消滅した。 ナハネフ23形1964年(昭和39年)から1970年(昭和45年)にかけて、1 - 20が日本車輌製造のみで製造された2等寝台緩急車。ナハフ21形同様に編成分割を前提とした切妻・貫通式を採用。寝台はナハネフ22形と同様の48名分だが、ナハフ21形にあった売店はない。改造車については後述。JRに継承された車両も1997年(平成9年)までに廃車され形式消滅した。 ナロ20形当初は全車寝台車ではなく一部を座席車としていたため[注 31]1958年(昭和33年)から1960年(昭和35年)にかけて製造された1等座席車[注 32]。ナロ10形の座席レイアウトを踏襲したシートピッチ1,170 mmのリクライニングシートを12列装備し、定員は48名。床下空調の風道とするため座席部分の床を通路よりも100 mm高とする構造のほか、白熱灯を使った光軸可変スポットライト式の読書灯を各座席に設置した。出入り台側に洋式便所・洗面台・荷物保管室・車掌室が、前位寄りに和式便所・洗面所が設けられていた。 1 - 5・51 - 54の9両が製造されたが、1968年(昭和43年)に3両を残してナハネ20形に改造され、ナハネ20 501 - 503・506 - 508となった。残った4・5・54は、2等座席車廃止後も1975年(昭和50年)3月まで「あさかぜ」用の1等車→グリーン車として使用され廃車となった。 実現はしなかったが全車をナロネ21に準じた寝台車へ改造する計画も存在した[13]。 車内デザインは日本車輌製造車両と日立製作所製造車両とで異なっており、前者が暖色系の座席モケットで日除けもナハ20形などの2等座席車と同様の巻上式カーテン(ロールスクリーン)であるのに対して、後者は寒色系の座席モケットと横引きカーテンとなっていた。 ナハ20形1958年(昭和33年)に製造された定員64名の2等座席車。回転式クロスシートを装備しているが、当初は車両基地などでの転換を想定したもので、構造上車端から順番に回転させる必要があり、乗客が任意に回転させることは不可能であった(後に改良)。 座席部分の床はナロ20形と同じ理由で100 mm高い。 客室の固定窓化で立売りの駅弁などが利用しにくくなった乗客への対策と、食堂車を補助する観点から、国鉄としては初の売店設置車両となり、弁当・土産・新聞などを販売した。構造的にはショーケースカウンターとその向かいに電気式ジュースクーラーならびに物置を配置した。また、ホームから物品搬入の便を図るため、側面には業務用扉が設置された。 なお、ナハ20形の売店部分のデザインは日本車輌製造車両と日立製作所製造車両とで多少異なっている。 1・51・52の3両が製造されたに留まり、「あさかぜ」の後には1964年(昭和39年)運転開始の「はくつる」に連結された。運用移管により1966年(昭和41年)に尾久客車区に転出、その後1968年(昭和43年)に青森運転所に再転出し「ゆうづる」で運用されたが、東北方面においても昼行特急列車網の整備などによって座席車を利用する旅客が減少したことから、1970年(昭和45年)8月に運用を終了した。なお、東北方面への転出後は売店は使用されず、ワゴンによる車内販売となった。 1971年(昭和46年)にナハネ20 510 - 512に改造され、形式消滅した。 ナハフ20形1958年(昭和33年)から1963年(昭和38年)にかけて製造された2等座席緩急車。最後部に連結される非貫通式流線形緩急車で、車外正面から見て右半分を車掌室、左半分を展望室として乗客に開放した。客室はナハ20形に準じており、定員は68名。1958年(昭和33年)から1959年(昭和34年)にかけて1 - 6・51 - 53の9両が製造された。製造技術面の問題(大型曲面ガラスの製造が間に合わなかった)で、1 - 3・51・52は正面窓ガラスを平面4枚窓とし、それ以降はパノラミックウィンドウ(曲面ガラス二枚)が採用された。 1964年10月の東海道新幹線の開業以後は東海道区間内での座席利用が減少したこともあり、後に新設の「ゆうづる」などに連結されたが、1970年(昭和45年)12月に全ての運用が終了。また、1965年(昭和40年)以降は寝台特急列車全席寝台化の方針により順次寝台車に改造され、ナハネフ20形に3両、ナハネ20形500番台に1両、ナハネフ22形500番台に5両が改造され形式消滅した。 ナハフ21形1959年(昭和34年)から1963年(昭和38年)にかけて製造された2等座席緩急車。編成中間に挟んで分割併合に対応するため、切妻・貫通式とした形式。「さくら」「はやぶさ」「みずほ」の基本編成に使用された。客室はナハ20形に準じ、定員は60名。ナハ20形と同様に売店も設置された。1 - 4・51 - 56の10両が製造されたが、1965年(昭和40年)以降ナハネフ21形に6両・ナハネフ23形500番台に4両が改造され形式消滅した。 ナシ20形1958年(昭和33年)から1970年(昭和45年)にかけて1 - 29・51 - 57の36両が製造された食堂車。基本構造はオシ17形に準ずるが、厨房は完全電化され[注 33]、冷蔵庫や電気レンジが設置されるなど、近代化された。食堂部分は通路を挟んで4人掛けの片持ち式テーブルを10セット設置したため定員は40名である。 食堂の内装デザインが製造メーカーで全く異なることも特徴である。 食堂満席時に待合室となる喫煙室は深夜の営業終了時に座布団と背ズリを引き出し従業員用寝台になる構造が採用された。当初車端部には、将来の列車電話の使用開始を見越し、準備工事を施工した電話室が設置されていた。
増備中には以下の設計変更が行われた。
1978年(昭和53年)の「あさかぜ」編成置換えにより定期列車での運用が終了。当時既に東京駅発着の寝台特急以外の寝台列車では食堂車の連結・営業が廃止されていたことや、24系などの増備により1980年(昭和55年)前後には全車が休車となった。しかし財政管理の都合上、分割民営化直前まで車籍を有していた車両もあり[注 37]、1987年(昭和62年)に全車廃車となり、形式消滅した。 マニ20形1958年(昭和33年)に製造された電源荷物車。全長17,500 mm、自重40.6 t、台車はTR54形で250 kVAのディーゼル発電機を2基搭載。
全長が短く新聞輸送に対して荷物室荷重3 tと小さいため1・51・52の3両のみの製造にとどまり、以後電源車はカニ21形が増備される。当初は「あさかぜ」で使用されたが、後に荷物需要の少ない「はやぶさ」・「富士」に使用、1965年(昭和40年)には向日町に転属して「あかつき」で使用される。1968年(昭和43年)の青森転属に際しては寒冷地対策、1971年(昭和46年)以降は推進運転設備の取り付け、電源装置の自動制御化、機関室への明かり窓の追加などの改造工事が施工された[14][注 40]。1977年(昭和52年)に全車廃車で形式消滅。 カニ21形1959年(昭和34年)の2次車から製造された電源荷物車。マニ20形からの変更点を以下に示す。
1960年(昭和35年)・1963年(昭和38年)には後述するカニ22形が製造されたものの、1964年(昭和39年)以降はディーゼル発電機や関連機器を1963年製のカニ22形と仕様を揃えた上で再び本形式が製造されることになり、同年に新設された「はくつる」運用で寒冷地へ入線することから耐寒設備を追加、さらに4以降は「はやぶさ」「富士」といった片道24時間前後の長距離運用を考慮し燃料タンクを1700リットル1基から2基へ変更することとなり、1 - 3と51・52にもタンク増設が行われた[16]。 1970年(昭和45年)6月増備の122 - 124は電源装置の無人運転に対応するため遠隔自動制御装置が装備されており、基本番台の続番+100の車番に区分された。1970年(昭和45年)9月に下関に配備された最終製造車25 - 27には新製時は自動制御化は準備工事とされたが、翌年に装備された。
1 - 21・25 - 27・51・52・122 - 124の29両が製造されたが、18両が後述のカヤ21形に改造された。1985年(昭和60年)に形式消滅。 カニ22形1960年(昭和35年)および1963年(昭和38年)に製造された電源荷物車。1959年に架線を利用した電源方式が本格的に検討されるようになり、当初は下記のオニ22を連結し非電化区間は従来の電源車を増結する重連方式が計画された。しかし、牽引定数や編成長の問題により見送られ1車両に双方の電源を集約する両用方式が検討され始めた。[17][18] 1960年(昭和35年)、今後の電源車は両用方式を標準とすることが決まったため「はやぶさ」を20系化する際に登場した[19][20]。本形式の特徴を以下に示す。
山陽線の全線電化後は従来の電源車へMGを搭載する改造が必要とされ[23]、検修側からはカニ22の増備も推薦していた[24]。 「はくつる」と「富士」の20系化にカニ22が使用されることになっていたが、九州方面とは違い東北方面などでは両用方式は必ずしも適正ではなく[25][注 48]、速度制限により特急速度の維持も難しくなった。そのため、長距離用に燃料タンクを大型化したディーゼル方式が両用方式に変わり標準となり[26]、MGも比較的早期に撤去された。増備は1963年(昭和38年)の「みずほ」20系化時のみで、1 - 3・51 - 53の6両が製造されたに留まった。また、1964年(昭和39年) - 1965年(昭和40年)には「あさかぜ」にも使われた[27]ほか、「はくつる[28]」の583系電車化ならびに「ゆうづる[29]」青森運転所移管となる1968年(昭和43年)ダイヤ改正まではパンタグラフ・MGを搭載したままカニ21形の予備車として充当された実績がある[注 49]。
以後は東北方面や関西 - 九州といった地方線区での運用となるため、全車ともディーゼル発電機のみの使用となり、先にMGを撤去していた51と同様に元のMG装備位置には燃料タンクが増設された。
1975年(昭和50年)に2両が24系に編入改造されてカニ25 1・2となった。詳細は#カニ25形も参照のこと。1979年(昭和54年)に形式消滅。 改造車改造工事施工順に解説する。 マヤ20形本系列の簡易電源車である。設計変更されたことから1 - 3と10 - 12のグループが存在する。 1 - 31963年(昭和38年)6月に「みずほ」20系化の際、付属編成が門司 - 大分間で分割運用となったことから、電源確保のため旧形客車オハシ30形から小倉工場で改造[注 51][30][31]され、1・2が門司客貨車区に配置された。短区間用のため荷物室は無く、形式は職用車の「ヤ」とした。 1964年(昭和39年)10月に「みずほ」付属編成が「富士」として独立すると定期運用を外れ、1を休車とし2は予備電源車として待機体制[注 52]が取られた。 1965年(昭和40年)10月ダイヤ改正では「さくら」・「あかつき」で長崎本線・佐世保線編成分割運用が実施されることになり、早岐客貨車区に転出。また運用増による予備車確保の名目で、スハ32形丸屋根車から3が追加改造された。改造内容を以下に示す。
10 - 121968年(昭和43年。ヨンサントオ)の増発によりスハ32形丸屋根車を種車として3両が改造されたが、以下の設計変更が行われた結果、10 - 12の番台区分とされた。
両グループ全車とも1972年3月15日のダイヤ改正で長崎客貨車区に転出したが、「さくら」の14系置替えと「あかつき」の運用減により1974年までに2・3・10が廃車された。その後は「あかつき」・「はやぶさ」の付属編成用として1・11・12が使用されたが、1975年3月10日のダイヤ改正で運用を失い、4月末には小倉工場で順次廃車解体され形式消滅した。 ナハネフ20形2等寝台緩急車。1964年および1965年にナハフ20形を改造した形式。車体を流用しているため2窓分で1ボックスの窓割となり、寝台の1ボックスあたりの幅が従来車の1,560mmより230mm広い1,790mmとなっている。そのため寝台はナハネフ22形に比べ1ボックス6名分少ない42名分。後端部妻窓はそのままとされたため2・3は平面ガラス4枚の姿で残された。ナハネフ22形500番台に改造された平面ガラス4枚の車両(ナハフ20 1・51・52)は、全て曲面ガラス2枚に改造されたため、この2両のみ廃車まで平面ガラス4枚の姿であった。53と4以降は製造当初より曲面ガラス2枚である。以後の改造は車体を載せ替えたナハネフ22形500番台に移行した。 当初は「富士」で使用されたが、すぐに向日町運転所に転属して「あかつき」で使用され、1968年に青森運転所に再度転属して「ゆうづる」・「日本海」・「あけぼの」・「つるぎ」で使用された。定員が少ないこともあって運用上も不便であったことから早期に淘汰の対象となり、1975年に形式消滅した。
ナハネフ21形2等寝台緩急車。1964年および1965年に小倉工場でナハフ21形から6両が改造された。ナハネフ20形同様に車体を流用している。売店は撤去し7ボックス42名分の寝台を設置した。「さくら」などで運用された後、青森運転所へ転属し「ゆうづる」・「日本海」・「つるぎ」などで運用された。さらに尾久客車区に転属し「天の川」で運用された後に廃車となり1978年に形式消滅した。
500番台改造車1964年の東海道新幹線開業後、夜行特急列車の寝台専用列車化が推進されることとなった[注 31]。上述したナハネフ20形・ナハネフ21形の改造では内装を寝台車化するものの車体は種車のままとされたが、1968年度以降の改造では台枠(緩急車はは両端部も)を残して解体して車体を再構築する工法へ変更し、既存形式とほぼ同一仕様となることから、該当形式の500番台に区分された。なお、改造後は種車とは異なり製造メーカーごとの番台区分は行われず、元0番台の車両も元50番台の車両もともに500番台(501 - )に纏められたが、冷房装置は種車のものを使用したため、元0番台の車両はAU21形、元50番台の車両はAU22形となっている。
カヤ21形1976 - 1978年にカニ21形を改造した電源車。本系列の急行列車への格下げにより、本系列と機関車間に一般形荷物車・郵便車(旧来のAV式自動空気ブレーキを搭載)を連結する事象が発生した。しかし、本系列の増圧圧縮空気は元空気ダメ管によって機関車から供給されていたが、一般形荷物車・郵便車には元空気ダメ管の引き通しがないため供給に支障が生じること、またP形改造未施工の機関車(主にEF58形[注 53])での牽引が想定されたことから、電源車の荷物室へ同時期に廃車となったクハ181形のC3000形空気圧縮機 (CP) を搭載する改造が18両に施工された[注 54]。この改造により形式表記が「カニ」から職用車を示す「カヤ」に変更されたが、車両番号は原番号を承継する。荷物室はCP搭載によって不要となったことから側面の巻き上げシャッター部分を閉塞する改造が一部で行われた一方、マニ50形・スユニ50形といった荷物車を連結する必要があった急行「だいせん」運用に入るものには荷物車への電源供給用として車内に変圧器、後位側の妻面にジャンパ栓を増設する(スカートの切り欠きも同時に施工)改造も実施された[33][34]。1998年に形式消滅。
ナハ21形急行「十和田」および「だいせん」が20系化される際に座席車が必要になったため、1977 - 79年に大宮・高砂の両工場でナロネ21形16両を改造した普通座席車[35]。以下の改造が施工された[注 55]。
高天井かつシートピッチが広いなど種車が寝台車ならではの特徴がある(実質的な乗り得車両であった)。全車とも1987年までに廃車となり形式消滅した。
1000・2000番台改造車1970年代後半の夜行急行列車では、座席車主体編成の列車も多いことや車内環境改善の見地も含めて座席車は12系客車への置換えが開始された。しかし、全車寝台化するほどの夜行需要がない亜幹線の急行列車においても、併結される寝台車の10系客車がアコモ陳腐や老朽化が顕著であるため、寝台車を本系列に置換えて併結運転とするために、1978年に幡生・高砂・土崎(ナハネ20形1000番台のみ)・大宮(ナハネ20形2000番台のみ)の4工場でナハネ20形・ナハネフ22・23形へ12系客車との連結に対応した改造である[35]。 なお、ナハネ20形のうち12系客車と直接連結可能な車両は原番号+1000に、当グループの中間に編成組成が限定された車両は番号+2000に区分される。
なお本グループは、当初投入された「ちくま」・「さんべ」・「かいもん」・「日南」も比較的早期に廃止や臨時列車格下げもしくは寝台車の14系・24系[注 57]客車への置換えとなったことから1987年までに全車廃車となり、JRグループに承継された車両はない。 オニ23形1988年(昭和63年)に日本国内で「オリエント急行」が運転されることになったが、同列車の連結器はねじ式のため自動連結器を使用する日本国内では変換アダプターとしての控車が必要となった。当初はマニ50形2両を改造して充当する予定だったが、そのうち1両を当時日立製作所が試作していたハイビジョンテレビのデモンストレーションを目的にしたシアターカーとしての連結に計画変更となり、国鉄時代に除籍され清算事業団が所有していたナハネフ23 8に日立製作所笠戸事業所[注 58][注 59]で以下の改造改番を施工しJR東日本へ復籍させた形式である。
「オリエント急行」運転終了で用途喪失となり廃車された。
未成車オニ22形直流電化区間用のパンタグラフを搭載した電源車として計画され、図面作成まで終了していたものの、製造が中止された形式。 図面では一見してカニ22形に類似した部分もあるが、それと比較してディーゼル発電セットを搭載していないこと、車体長がマニ20形よりもさらに短い13,500 mmであることなどの相違点がある。 しかし、直流電化区間でしか使用できないことから非電化区間への入線には別にマニ20形・カニ21形を連結する点が問題となり[37]、本形式の必要性が国鉄の車両設計陣営より疑問視され両用電源車の開発へ計画は変更となったことから本系列で唯一計画のみの車両となり、製造はされなかった。 改造国鉄時代に行なわれた主な改造について年代順に解説を行う。 座席車の寝台車化
110km/h運転対応改造1968年10月1日のダイヤ改正で110km/h運転が開始されることになり、ブレーキをAREB増圧装置付き電磁指令式自動空気ブレーキとしている。詳細は#ブレーキを参照のこと。 ナロネ21形・22形の車掌室設置改造1969年から1970年にナロネ21形基本番台とナロネ22形全車に行われた改造。この改造でナロネ21形は原番号+500、ナロネ22形は原番号+100に改番された。詳細はそれぞれの形式を参照のこと。 上野 - 尾久間推進運転用設備の追加上野駅は地平ホームが頭端式であり、牽引してきた機関車を前後で付け替えること(機回し)が困難なことから上野始発・終着となる客車列車は尾久客車区との間での回送を推進運転によって実施していたが、20系はナハフ20形・ナハネフ20形・ナハネフ22形・マニ20形・カニ21形・カニ22形の車掌室が非貫通型でナハフ21形・ナハネフ21形・ナハネフ23形や他の旧型客車と異なり貫通扉を開いて連結器脇のブレーキ管を推進運転用の非常制動弁に接続することができないため、編成を東京方面へ引き上げられる高架ホームに発着を限定、1964年の「はくつる」運転開始当初は品川客車区との間で回送を行い、「ゆうづる」運転開始後の1965年以降は高架線上で機回しをして尾久客車区との回送を行っていた[38]。 しかし上野駅発着の列車本数が増えたことから20系も地平ホームに入線可能とする必要が生じ[39]、1970年の「あけぼの」運転開始に合わせて青森運転所・秋田運転所配置のナハネフ20形・ナハネフ22形とマニ20形・カニ21形の車掌室には非常制動弁に接続するブレーキ管の取り出し口や推進運転用の警笛が追加され、窓には手動式のワイパーが装備された。同様の改造は1971年以降に青森運転所・秋田運転所・尾久客車区へ転入したナハネフ22形・カニ21形・カニ22形・カヤ21形に対しても実施されている。 北陸トンネル火災事故による対応1972年に発生した北陸トンネル火災事故後にとられた出火対策および汚物処理装置装備によって重量増となり[注 60]、実態がナ級からオ級(換算両数3.0→3.5)となっていたことが判明した。1978年10月 - 12月にカニ21形・カニ22形・カヤ21形を除く全車へ特例として、形式の重量記号変更は行わず、車体の車両番号表記に白三角を追加し、運転実務上必要な換算両数表記のみを修正することで対応した[40]。 カニ25形→「国鉄24系客車 § 改造車」も参照
1975年3月10日のダイヤ改正で、「あかつき」は3往復中1往復が24系客車により新大阪 - 長崎・佐世保で運転されることになった。そのため付属編成を分割した際に電源車が必要となることから、小倉工場でカニ22形から2両がカニ25形に改造された。改造内容を以下に示す。
長崎客貨車区に配置されたが、2が1978年4月20日に廃車。1978年10月のダイヤ改正で24系の分割運用は消滅したため[注 61]、1は向日町運転所に転属し「彗星」・「明星」などで運用されたが、1984年9月29日に廃車された。
急行列車への投入による対応1970年代後半には、本系列は老朽化した10系寝台車置換え用として急行列車への格下げ投入を実施。カヤ21・ナハ21の両形式が改造で竣工したほか、12系客車との併結対応改造を施工された車両は1000・2000番台に区分された。 なお、詳細についてはそれぞれの項目を参照のこと。 ジョイフルトレイン「ホリデーパル」「ホリデーパル」は、1984年(昭和59年)に広島鉄道管理局(現在のJR西日本広島支社に相当)が幡生工場で改造したジョイフルトレインで、以下の改造をナハネ20形5両とナハネフ22形1両に施工した。
改造後に改番が行われているが、電源関係などの改造は行われていないため未改造の車両との混結も可能である。
またオシ14 1をラウンジカーオハ14 701に改造し編成に組み込んでいる。サービス電源の供給を従前のカヤ21形からとしたために、同車には電源回路・ブレーキ装置の変換装置を搭載して対応した[注 62]。 ホリデーパルは登場から分割民営化後しばらくは20系標準色のままで、団体専用列車のみならず多客時の臨時「あさかぜ」などに投入されることもあった。民営化後の1990年12月に白を基調としたオリジナル塗装に変更された。また、これと前後して編成両数を増加させるためにカヤ21 123・ナハネフ23 14・ナハネ20 331・335が無改造のまま塗装のみ変更し、臨時寝台急行「玄海」などでも運用された。しかし、老朽化のため1997年(平成9年)3月31日に全車廃車となっている。
運用1958年(昭和33年)10月から、東京 - 博多間を結ぶ特急「あさかぜ」に投入され運行を開始した。これ以後本州・九州における寝台特急列車に広く投入され、日本各地に寝台特急列車網を構築した功績は大きい。 1961年(昭和36年)12月29日には山陽本線特急「さくら」が西宇部(現・宇部) - 小野田間で気動車準急「あきよし」に追突される事故が発生し当系列車両14両が破損したが、軽量構造が衝撃を吸収したこともあり死者は出さず、また事故車両もすべて復旧されている。 後継となる14系や24系客車が拡充された1970年代後半以降は、設備が時代に合わなくなってきたため、本来の定期特急列車の運用から外されて急行列車ならびに臨時列車の運用が主体となる。1975年(昭和50年)3月10日のダイヤ改正で山陽新幹線が全線開業し関西 - 九州間の寝台特急が大幅に削減されたことで余剰が生じ、まず編成単位での寝台急行列車への転用が始まり、1976年に急行「銀河」に投入されたのを皮切りに、続いて急行「新星」「天の川」にも投入された。また同時期から一部の車両の廃車も開始されている。1978年以降は12系との併結対応化改造が実施され、12系と20系を併結した編成が本州・九州各地の夜行急行列車に投入された。1980年(昭和55年)10月の「あけぼの」の24系化を最後に特急での定期運用が消滅し、急行列車の定期運用も縮小が始まった1980年代半ばからは塗装のうちドア部分や最上部の白帯が省略された[注 63][41][42]。 1985年3月のダイヤ改正では余剰車を1985年(昭和60年)3月17日 - 9月16日に茨城県筑波郡谷田部町(現在のつくば市御幸が丘)で開催された国際科学技術博覧会(つくば博・科学万博)へのアクセス列車「エキスポライナー」「エキスポドリーム」に投入した。 1986年(昭和61年)11月には「だいせん」「ちくま」を最後に急行列車での定期運用も終了。1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化時には主に臨時列車用として東日本旅客鉄道(JR東日本)に34両、西日本旅客鉄道(JR西日本)に63両が承継され、「カートレイン九州」や「シュプール号」などの臨時列車や、多客期の臨時寝台特急・急行に使用された。しかし、老朽化により年々廃車されると同時に運用も減少し、末期には予備車扱いで少数が残存するのみであった。 1996年(平成8年)にはJR東日本所属車両が全廃された。翌1997年(平成9年)11月29日、JR西日本で本系列の最終運用となる新大阪発岡山行き快速「さよなら20系客車[注 64]」が運転され[43]、翌1998年(平成10年)までにJR西日本所属車両が全車廃車となり系列消滅した。 保存車
詳細は不明だが佐賀県杵島郡江北町にも中間車2両が保存されていたが、既に解体済である。 他にも、大阪府豊中市の履正社高等学校にもナハネフ22 1023がシャワー室とロッカールームを設置し"TRUE DREAMER"(正夢)と名づけられ生徒の宿泊用に使用されていたが、こちらも2004年頃に解体済みである。 脚注注釈
出典
参考文献
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