松本俊一松本 俊一(まつもと しゅんいち、1897年〈明治30年〉6月7日–1987年〈昭和62年〉1月25日)は、昭和期の外交官・政治家。 来歴・人物台湾台北で[1]、実業家・松本勝太郎の長男として生まれ[1]、広島県呉市広育ち[2]。広島県立呉中学校(呉三津田高校)、一高を経て[1]、1921年、東京帝国法学部卒業[1]後、外務省入省。 在ベルギー外交官補、アントワープ領事官補、条約局、在フランス大使館を経て、条約局第二課長、条約局第一課長、人事課長、在中華民国大使館参事官、文化事業部長、条約局長を歴任[1]。 1942年、重光葵外務大臣下で外務次官。フランス領インドシナ特派大使を経て1945年、東郷茂徳外務大臣下で再び外務次官となり、内閣書記官長の迫水久常らと終戦処理にあたった。 戦後は1946年、公職追放を受け家業の松本建設社長を務め1952年追放解除により外務省顧問として復帰。同年戦後、最初の駐イギリス大使を務めた後、1955年の第27回衆議院議員総選挙で日本民主党から旧広島2区に立候補して当選、以降三期連続当選。鳩山一郎首相から日ソ交渉全権代表に起用され1955年6月から在ロンドンソビエト連邦大使館におけるソ連側全権代表・ヤコフ・マリク駐イギリス大使による会談で日ソ国交回復への道を開いた[3]。 1958年、第2次岸内閣で内閣官房副長官に就任[4]。続く第2次岸改造内閣でも官房副長官を務めたが、1963年の総選挙での落選に伴い退任し、外務省顧問に就任する。1965年、ベトナム戦争の調査団として現地を視察するも帰国後、「アメリカ軍の北爆の効果は限定的で、逆に南ベトナム解放民族戦線への支持が南ベトナム国内に広がっており、アメリカ軍の敗北は避けられない」とする報告書を出して物議を醸したが、後にこの見通しが正しかった事が証明された。1967年勲一等瑞宝章受章。 1965年4月から1969年5月まで日本アラブ協会会長を務めた。1987年1月25日死去。 親族著作
翻訳
監修
脚注
文献
外部リンク
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