斎藤 邦彦(齋藤 邦彦[1]、さいとう くにひこ、1935年〈昭和10年〉2月2日[2] ‐ 2022年〈令和4年〉7月4日[3])は、日本の外交官。位階は従三位。
経歴
外務省主流派を歩んだエリート官僚であり、「ミスター外務省」「外務省のドン」と畏怖された人物である。
成蹊高等学校を経て、1957年(昭和32年)外交官領事官採用試験合格。1958年(昭和33年)に東京大学法学部第2類(公法コース)を卒業後[4]、外務省に入省。同期に近藤豊(衆議院議員)、佐藤嘉恭(官房長、中国大使)など。英語研修(イギリスケンブリッジ大学)[5]を経て、スイス、マレーシア、フランス、ベルギー(EC)にて勤務。条約局長、イラン大使、外務審議官などを歴任し、1993年(平成5年)外務事務次官を務める。1995年(平成7年)、駐米国大使に就任した。
1999年(平成11年)に外務省を退官した後は国際協力事業団(JICA)の総裁を務めていたが、2001年外務省機密費流用事件の責任を問われ、給与自主返納をしたものの、小泉純一郎総理大臣の意向で更迭された[6]。その後、国際親善協会(FEC、現在の民間外交推進協会)の理事長を務めた。2006年、北鎌倉女子学園理事長に就任。
2009年、瑞宝大綬章受章[7]。
2022年7月4日、死去。87歳没。死没日をもって従三位に叙された[1]。
家族
その他
- 1988年5月24日の参議院外務委員会で日本共産党・吉岡吉典の「私は改めてこの議事録を読んで、こういうことを日本国民にも知らせないできた。同時にサンフランシスコ平和会議の受諾演説で吉田首相はこういうアジア諸国の批判に答えてもいない。私はそうこの速記録を読みましたけれども、別の読み方なさっていますか、外務省どうですか」という質問に対して「日本が侵略行為をやって近隣の国に被害をかけたということを直接言及したかどうかという御質問であったとすれば、受諾演説の中にはそういうくだりはなかったと承知しております」と回答している。更に吉岡の「ついでにお伺いしますけれども、この日本の戦争のおかげで独立したと感謝を述べた国が一つぐらいありましたか」という質問に対しても「そのような声明を行った国はなかったと承知しております」と答えている。[1]
- 1991年の湾岸戦争の際、イラン大使であった斉藤は「イラン国内にイラク軍機がいる」という情報を日本へ打電し評価された。イラン大使館には優秀なペルシャ語の専門家がおり、情報源を培っていたのが原因といわれる。イラン大使館ではさらに情報収集を行い、「イランは中立を守るだろう」という見通しを伝えている。
- 斉藤は中曽根康弘、竹下登の両内閣当時の条約局長で、当時密約がどう扱われたか知り得る立場にいた[要説明]。そのため退官後の2010年3月に国会招致を受けた。
参考文献
脚注
外務省条約局長(1987年 - 1989年) |
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条約局 | |
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国際法局 | |
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在ペルシア全権公使 | |
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在イラン全権公使 | |
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在イラン全権大使 | |
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カテゴリ |
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代理公使・弁理公使 |
- 森有礼 1870–73(少弁務使→中弁務使→代理公使)
- 上野景範 1872(弁理公使a)
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特命全権公使 | |
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特命全権大使 | |
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在外事務所長 | |
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特命全権大使 | |
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a 外務少輔・外務卿代理を一時期兼ねる b 再任 c 遣アメリカ合衆国特命全権大使(在アメリカ合衆国特命全権大使の野村に加えての大使) d 1941年12月の日米開戦後に大使館が閉鎖されたため実質的に失職、両名は翌年8月の抑留者交換船で帰朝
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