佐藤昌蔵佐藤 昌蔵(さとう しょうぞう、1833年7月31日(天保4年6月25日[1])- 1915年(大正4年)11月30日[1][2])は、日本の政治家。衆議院議員。 経歴1833年(天保4年)6月、岩手県盛岡市に生まれる[注釈 1]。盛岡藩士となり[1]、明治維新後は藩の公用人を務める[2]。 廃藩置県後は青森県・岩手県・茨城県などの勧業課長や郡長を経て[1][2]、1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙に岩手県第3区より立候補して当選[1][3]。以後、第3回衆議院議員総選挙まで3回連続して当選する[3]。当時の佐藤は政党には所属せず、第1回総選挙後は院内会派の大成会、第2回総選挙後は同じく院内会派の中央交渉会に所属したが、第3回総選挙時は、中央交渉会の後身に当たる国民協会を脱退して無所属であった。 1915年11月30日に死去。83歳没。 親族
脚注注釈出典参考文献
|