栗原亮一栗原 亮一(くりはら りよういち、1855年5月6日(安政2年3月20日[1][注 1])- 1911年(明治44年)3月13日[2])は、明治期の日本の政治家、ジャーナリスト。衆議院議員。旧姓は中村。 経歴志摩国鳥羽藩士中村武市の三男[3][注 2]として生まれ、同藩士・栗原亮休の養子となる[3]。藩校で漢学を修める[4]。明治の初めに上京し同人社で学んだ[5][6]。 1876年、自主社を創立し『草莽雑誌』『莽草雑誌』を刊行して政府批判を行う[5][6]。自由民権運動に加わり自由党の結党に参加[5][6]。『自由新聞』の主筆を務め、1882年、板垣退助の渡欧に随行した[5][6]。『東雲新聞』の主筆となり、大同団結運動に加わった[5]。 1890年7月、第1回衆議院議員総選挙において三重県第一区から出馬し当選[2]。その後、第10回総選挙まで連続10回の当選(第2回総選挙は補欠当選)を果たした[2]。1898年6月、第1次大隈内閣が成立し、板垣退助が内務大臣となると同大臣秘書官に就任し、さらに大蔵省参事官兼監督局長を務め、同年11月の同内閣退陣に伴い退官した[2][3]。その他、日本興業銀行設立委員、南満洲鉄道設立委員を務めた[2]。 1909年、日本製糖汚職事件で検挙され、同年5月10日に衆議院議員を辞職[7]。同年7月3日に、東京地方裁判所第二刑事部において重禁錮5ヶ月の実刑判決が言い渡され[8]、その後、判決を不服として控訴、上告を行ったが、同年12月17日に大審院で判決が言い渡され、上告棄却となり、実刑が確定した[9]。これにより正五位返上を命じられ[10]、勲四等を褫奪された[11]。その後、皆無斉と号した[5]。 脚注注釈出典
参考文献
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