石田貫之助
石田 貫之助(いしだ かんのすけ、1850年1月13日(嘉永2年12月1日[1])- 1934年(昭和9年)10月8日[2])は、明治から大正期の政治家。兵庫県会議員、衆議院議員、富山県知事。旧姓は太田垣。 経歴但馬国朝来郡新井村の農業・酒造業の太田垣家に生まれ、石田小治郎の養子となる[1][3]。 1879年に兵庫県会議員となり[3]、1880年5月から1881年2月まで同副議長を、同月から1890年7月まで同議長を務めた[4]。また、同郡部会議長、同常置委員など務めた[2]。立憲改進党に加わり、さらに愛国公党の創立委員となり、次いで自由党に入党した[1]。 1890年7月、第1回衆議院議員総選挙に兵庫県第四区から出馬して当選。その後、第4回総選挙まで連続4回当選し、さらに第6回、第9回総選挙でも当選し、通算6回の当選を果たした[2]。 1897年4月7日、第2次松方内閣により富山県知事に登用され、1898年2月5日まで在任した[1][5]。 栄典脚注参考文献
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